弊害な人

増田朋美

弊害な人

よく晴れて良い天気の日だったので、杉ちゃんは、水穂さんといっしょにバラ公園に散歩に行くことにした。良い天気であったので、杉ちゃんの方はとてもうれしそうにしていたが、水穂さんはなんだか偉く疲れてしまったみたいで、歩くのもゆっくりであった。

「ほら、花が綺麗だろ。この時期は、花がよく咲いて、いい季節だよな。」

杉ちゃんは車椅子から水穂さんを見た。

「だから、いつまでも寝ていちゃだめなんだよ。こうして暖かい季節になってきたわけだから、ちゃんと外へ出て、動かなくちゃだめなんだ。いくら、重い病気を持っているからと言って、何にも動かないってのはだめだぜ。」

「そうだね杉ちゃん。」

と、水穂さんは言った。

「でも、疲れたよ。」

「またそんなこと言ってら。」

杉ちゃんが呆れた顔をしてそう言うと、水穂さんは足を止めてしまった。

「じゃあ、しょうがない。噴水のところで休もうか。頑張って噴水のところまで歩いてよ。」

杉ちゃんがそう言うと、水穂さんは噴水広場まで歩いてくれた。そこに行けば、ベンチがあるのは杉ちゃんも知っている。噴水広場までは100メートルも無いのに、そこまで行くのに、何分もかかってしまったような気がした。ちょうど、ベンチが一つ空いていたので、杉ちゃんは水穂さんをそこへ座らせた。水穂さんは少し咳き込んだが、例の内容物を出すことはなかった。

「今日晴れてて良かったね。」

杉ちゃんはそういうのであるが、水穂さんは、疲れてしまったらしく、座って何も言わなかった。杉ちゃんが呆れたというとすると、一人の女性が、噴水の方から歩いてきた。かなり派手な格好をして、色っぽい感じもあるが、ちょっと疲れた感じもある、変な雰囲気の女性である。その女性が、ベンチに座っている水穂さんを見て、

「右城くん?右城くんよね?あの、私を覚えてません?ほら、私、大学で、同じクラスだった、武隈です。」

と、水穂さんに言ってきた。

「武隈さん?武隈さんといいますと、、、。えーと、あの、、、。」

水穂さんは、急いでそういったのであるが、誰なのか思い出せない様子だった。水穂さんが考え込んでいると、

「名前を言えば思い出せるかしらね。あの、武隈操ですよ。本当に覚えてないんですか?あたしははっきり覚えてるんだけどなあ。右城くんが、音大の練習室で、一生懸命ピアノ弾いて、あああたしには絶対弾けないだろうなっていう曲を、弾いてたわね。その曲も覚えてるわよ。ゴドフスキーのジャワ組曲。」

そこまでいうので水穂さんも思い出してくれたようで、

「ああ、武隈操さんだったんですか。その節は、お世話になりました。」

と彼女に頭を下げた。

「もう、そんな言い方はよしてよ。それより右城くんは、元気なの?今でもピアノ弾いてるのかな?あたしみたいに、もうピアノどころじゃないような人間ではないと思うからさ。だって、あれだけ難しい曲を弾いてれば、きっとどっかの世界的なコンクールで優勝しても不思議じゃないわ。」

武隈操さんは、にこやかに笑った。

「いや、そんなことはありません。あのときは、そうだったかもしれませんが、今はもう疲れ果てた中年のおじさんです。」

水穂さんがそう言うと、

「何言ってるの右城くん。右城くんはあんまり変わってないから、すぐわかっちゃったわよ。紅顔の美少年と言われていた右城くんは、ずっとあたしの中では紅顔の美少年のままよ。」

と、武隈操さんは言った。

「そうなんですか。ですが、あいにく右城は現姓ではございません。現姓は磯野です。」

水穂さんがそう言うと、

「あら!そうだったんだ!あれだけ有名だった右城くんが、その名前を捨てるなんて信じられないわ。でも、芸名ってこともあるわよね?今でも旧姓のままで活動している芸能人はいっぱいいるし。それと一緒でしょ?たとえ、奥さんの都合で改姓したとしても、あれだけ優秀だったわけだし、捨てるわけにはいかないわよねえ。」

武隈操さんはそういった。

「右城くんは違うでしょう?まあ私は、今は武隈ではなくて野川操だけどね。」

「そうなんですか。でも、それは幸せなことじゃないですか。そうやって、武隈から、野川に名字が変わられたんでしょう。当然、ご主人がいるわけでしょうし、もしかして、お子さんもいらっしゃるのでは無いですか?」

水穂さんがそう言うと、

「幸せなことかあ。そういう事言ってるわけではないわ。」

と、操さんはそういった。

「はあそれはどういうことだ?なにか、困ったことがあるの?」

と杉ちゃんが口を挟む。

「ええ。まあね。ご主人がいてくれればいいんだけどね。だけど、そんな人、もうとうの昔にいないわよ。その間に設けた娘はいるけど、その子だっているんだかいないんだかよくわからない。」

操さんはそういったのである。

「それ、どういう意味だ?なにか僕みたいに障害でもあるのかな?ごめんねえ。僕、一度質問すると、答えが出るまで質問を続けるタイプだもんでねえ。」

杉ちゃんがいうと、操さんはこの人何?という顔をした。

「大丈夫です。杉ちゃんは、ちょっと話し方は乱暴ですけど、でも、人間は悪くないので、気にしないでください。」

水穂さんは、すぐに言った。

「そうそう。僕の名前は影山杉三で、商売は和裁屋。着物を縫う職人だよ。よろしく頼むね。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。

「そうなんですか。和裁屋さんだったんだ。確かに歩けない方なら、話してしまってもいいかもね。うちはね、母一人子一人なのよ。娘は今高校生なんだけど、ちょっと体調崩して、今学校にいってない。」

操さんはすぐに言った。

「そうなんだ。それなら、すぐ手を打ったほうがいいな。学校でなにか問題があったのか?いじめでもあったとか、学校の先生になにか言われたとか?まあ、そういうことなら、学校を変わるとか、バカロレア試験をすすめてみるとか、そういうことをしてみたらどうだ?いずれにしてもさ、いつまでもおんなじところにいては行けないぜ。」

杉ちゃんがいうと、操さんは、ちょっと嫌な顔をして、

「ええ。そうですが、人の家にそうやって口出しをできる方がいるのかしら?」

と杉ちゃんに言った。

「じゃあどうすれば、人の家に口出ししてもいいの?誰かが言わなければだめでしょう。偉いやつならいいってか?大学教授とか、弁護士とか、そういうやつだったら言う事聞くのか?はあ?変なやつだなあ。普通の人というか、障害者には、言われたくないってか?それなら余計に変なやつだ。」

杉ちゃんがそう言うと、操さんは更に変な顔をした。

「すみません。操さん。杉ちゃん何でも思ったことは口にしてしまうから、そういうふうに言うんです。確かに人にはなかなか相談しにくいことでもありますよね。でも、娘さんはきっとお母様と同じくらい辛い思いをされていると思いますよ。」

水穂さんがそう言うと、

「そうなんですよね。私も、カウンセリングの先生とかに同じことを言われました。娘さんは学校に行きたくても何もできなくて、うんと辛い思いをしているって。だから娘さんに、優しくしてくださいっていうんですけど、これ以上、どうしたらいいのかしらね。私が、カウンセリングの先生に言われたことを、娘にしてあげても、何も効果的なことはなかったのよ。」

操さんはそういった。

「そうか。まあ偉い人は机の上で物を言うから、具体的には何もしてないから、そういうことを言うんだよ。それよりも、娘さんが何を求めているかを考えなくちゃだめだね。心の病気とかそういうものは、愛情とかそういうものが無いとだめなんだ。それはね、誰に対してもそうだ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「そうかも知れないけど、あたしのことは、誰も大変だとか、辛かったとか、そういうことは、言ってくださらないのね。娘には、いろんな助言があって、相談機関とかも色々あるのに、あたしには、何も無いのね。」

操さんはそういうのであった。

「うーんそうだねえ。そういう偉いやつに頼るよりも、同じ立場の仲間がほしいってことだよねえ。それなら、製鉄所へ来たらどうなんだろう?確か、製鉄所では、保護者会もやってたよな。利用者さんたちの親御さんでお話し合いをする会。」

杉ちゃんがそう言うと、

「ああ、家族会ですか。それは、いったことあるんだけど、娘が高校に在籍してるって言うと、みんな掌返すように態度を変えるわ。みんな卒業できなかったとか、学校にいけてていいわねえとかそういうことを言うわ。だから、親の会も行きたくないのよ。」

操さんはそういった。

「そうかも知れないが、それは仕方ないことだからさ。でも製鉄所の仲間は、みんな優しいから、そういう厭味ったらしいことを言うやつはいないよ。」

と、杉ちゃんがいうと、

「製鉄所製鉄所って、鉄を作るところで、そんな会ができるわけ無いでしょ!」

と操さんは、すぐに言った。

「ええ。よく人に言われるのですが、製鉄所は鉄を作る場所ではありません。それは、ただ施設名をそうつけてあるだけです。鉄を作る場所でなく、理由がある女性たちに勉強や仕事をするための部屋を貸し出すための福祉施設なんですよ。今利用している方は、3名いらっしゃいまして、一名は、障害者枠で就職、あとの二名は、通信制の高校に通ってます。」

水穂さんがそう説明した。

「それでは、余計に疑わしいわね。そんなところがあるなんて。そういう極楽浄土みたいなところで幸せな余生を送れる障害者もいるのよね。何で、そういう人は恵まれているんだろう。あたしは、そういうことは、一切与えられなかった。」

操さんはそういうのであった。

「ええ、そうかも知れませんが、多くの皆さんは、製鉄所へたどり着くまでに、紆余曲折の経路をたどっており、簡単に製鉄所を見つけられた人はおりません。だから、皆さん、苦労しているんです。きっと娘さんも、つらい思いをしていると思います。だから、お母さんがこういう施設があると、提案してあげることも、必要だと思います。」

水穂さんがそう言うと、

「そうかも知れませんが、あたしたちはそういう福祉施設とか、そういうものに騙されそうになったこともあるわけで。」

操さんはそういうのであった。

「まずは、お母さんであるお前さんが、こだわりを捨てることじゃないのかな。もちろん、いろんなことはあると思うけどさ。お母さんだって、いろんなことはあると思うけどね。いろんなことがあったと言いたいと思うけどさ。それを全部捨てなくちゃならないときだってあるわけだ。だから、丸裸で娘さんに向かっていかなくちゃいけないときだってあるわけ。僕たちも手伝うから、娘さんを製鉄所に連れてきてよ。」

杉ちゃんがそう言うが、操さんはまだ答えが出ない感じだった。

「そうですね。まずはお母さんだけ見学に来られてもいいです。こちらが住所と電話番号です。いつもは、インターネットにも製鉄所の住所は公開しないんですけど、こういう方には出してもいいかな。」

水穂さんは、メモ帳に製鉄所の電話番号と住所を書いた。でも、書き終わって彼女に手渡して、すぐに咳き込んでしまった。

「変な人。体調崩してるなら、早くお医者さんに見せてなんとかすればいいのに。あたしたちのことなんとか言う前に、自分のこと心配したら。じゃあ、私、帰りますわ。娘が待ってますから。」

と、操さんはベンチから立ち上がり、歩いていってしまった。水穂さんはまってくださいといったが、咳き込んでしまってその続きが言えなかった。なんだか申し訳ないなと思ったが、杉ちゃんも水穂さんも、何も言えないでそのままでいるしかなかった。

それからしばらくたった。雨の多い季節に突入して、水穂さんも、布団にいることが多くなった。その日も水穂さんは布団に横になりながら、時々咳き込んで過ごしていたのであるが、インターフォンの無い玄関がガラッと開いた音がした。製鉄所の管理を任されているジョチさんは、寄り合いに出かけてしまったし、杉ちゃんも具合の悪い利用者といっしょに病院に行ってしまっている。水穂さんは布団から起きて、玄関先へ行った。

「あの。右城くんよね。こようか迷ったんだけど、つい来てしまったわ。」

そこにいるのは、武隈操さん、いや、現姓は野川操さんだった。

「野川さんじゃないですか。この間あったときもいいましたが、僕は右城ではありません。僕は磯野水穂です。」

と水穂さんがいうと、

「まあね。それはわかってるんだけど、右城くんは右城くんだわ。昔のまんまの右城くんだわ。本当に、変わらないで、いてくれるんだから。」

と、操さんはそういうのであった。

「どんなに体が悪くても、右城くんは右城くんよ。こないだはこめんなさい。」

「それで今日はなんですか?見学にいらしてくださったんですか?」

水穂さんがそうきくと、

「はい。そのつもりでこさせていただきました。どんな利用者さんがいるのか、見させてもらいたいです。」

操さんはそういった。

「そうですか。あいにく、利用者さんたちは、ふたりとも高校へ行ってしまっているんです。おそらく15時くらいにならないと帰ってこないでしょう。」

水穂さんがそう言うと、

「そうですか。あと2時間もあるわ。あ、あと一人いるって聞いたけど、その子はどうしてるの?あってお話をきかせてもらえないかしら?」

操さんはそういうのであった。

「はい。彼ですが、彼は病院に行っています。風邪だとか気の所為だとか、色々言われているんですけど、もう一ヶ月も頭痛が続いているということで、それはおかしいのではないかと思いましてね。杉ちゃんといっしょに、脳障害研究所に行かせました。」

水穂さんはすぐに言った。

「脳障害研究所?何で?なにか重大な病気でもあるの?」

操さんが聞くと、

「はい。日を追うごとに、頭痛がひどくなるようですので、もしかしたら、脳にグリオーマでもできているのではないかと思いまして、それで一度精密検査を受けたほうがいいって提案したんです。」

と水穂さんは言った。

「グリオーマ?というのは脳にできる悪性の腫瘍ですね。そんなのができる子を受け持っているのですか?」

「ええ。そういうことは誰も予言できませんよね。」

操さんの驚いた言葉に、水穂さんはすぐに言った。

「そうなんですか。そんな可哀想な人がいるんですか。それはそれは、お気の毒ですね。そうなんだ。ここに来てみんなすぐに幸せになってしまうのかと思ったんですけど、そうでもないんですね。」

操さんは驚いていう。

「ええ。そういうことなんです。僕たちも人間の運命なんてわからないなと思うんですよ。僕らができることは、彼が、グリオーマでは無いことを、祈るしか無いです。」

水穂さんがそう言うと、

「そうなんですか。みんないろんな事情を抱えてるのね。今日は見学に来たのかと思ったのに、これでは無駄骨おりになっちゃったかしらねえ。攻めて、勉強しているところを見させてもらおうと思ったんだけど。うちの娘は、勉強が苦手で、すぐに途中で投げ出すし、ここで長続きしてくれるかどうか、わからないから。」

と操さんは言った。それと同時に、製鉄所の応接室に設置してある固定電話がなった。今どき固定電話があるなんてと操さんは言おうと思ったが、水穂さんは、すぐ誰がかけたかわかったらしく、すぐに応接室に行って、受話器を取った。

「はい。ああ、杉ちゃん。ああ、翔太くんの結果がわかったのですね。ああそうですか。わかりました。でも、手術をすれば、治るのですね。それでは、脳に異常が無いのであれば、日常生活はこなせるんですね。それなら良かったです。」

水穂さんはそう言って受話器をおいた。

「どうしたの?」

操さんが聞くと、

「杉ちゃんから電話がありました。彼、つまり病院に行った翔太くんですけれども、幸いグリオーマではなかったそうです。ただ、軽いウィリス脳動脈輪閉塞症があったそうです。いわゆる、もやもや病と呼ばれているものですね。脳の器質的な問題があるわけではなくて脳を取り巻く血管に問題があったようなので、閉塞部を人工血管に置き換える手術をするそうです。」

と水穂さんは淡々と答えたのであった。

「そうなんですか!それは良かったわ。グリオーマなんていうから、本当にそうかも知れないと思った。確かに大変な手術だと思うけど、頑張って頂戴としか言いようがないわ。私も応援してるから。右城くんも、大変ね。体が悪いのに、そういう人の相手をするなんて。」

操さんは、大きなため息をついた。

「でも、すごいわね。」

しばらくたって操さんは言った。

「どうしてですか?」

水穂さんがそうきくと、

「体を壊してまで、そうやって、心配してあげられるって、なかなか普通の人にできるものじゃないわよ。あたし、いろんな援助者みたいな人に会ったけど、みんな結局自分のことばっかり考えてるのよ。どんなに優しそうなことを言ってくれても、結局、自分がいい方にならないと、参加を断られたり、相手にされなかったりしたわ。だから、私も娘も、そういう援助者に関わるのは嫌になっちゃった。」

と操さんは言った。

「そうかも知れないですけど、娘さんは、あなたより何十年も生きていくわけですから、それをちゃんと送り出してあげるように、なんとかしてあげるのも、大事な役目なのではないですか?」

水穂さんに言われて操さんは、そうねと考え直したようだ。

「そうねえ。右城くんの言う通り、あたしも、娘のことをもうちょっと考えてあげられるといいかな。あたしも頑張らなくちゃ。まだ娘のことは、もう少し、頑張んないとだめかな。」

「そうですね。もう右城というのは、現姓ではありませんよ。」

水穂さんはそう言うと、操さんは、

「そうだったわね。」

と苦笑いした。

「それなら娘を連れてここへこさせてもらいますわ。娘がどんな反応をするかわからないけど、それを恐れてたら何も始まらないって、教えてもらったから。」

「ええ、そうです。結果はどうあれ、ベストを尽くしてください。」

水穂さんが静かに言うと、操さんはありがとうございますと言って製鉄所をあとにした。


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弊害な人 増田朋美 @masubuchi4996

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