第二章 獣の妖(1)

 朝起きて身支度を整えた文也は、朝十時に間に合うよう家を出た。どのくらいでおよずれ駅に辿り着くことができるか分からなかった為、阿佐ヶ谷駅からあの日のように立川方面へ行く中央線に乗り込んだ。だが新宿方面とは逆とはいえ、朝の通勤ラッシュに見事に巻き込まれた文也は、それなりの満員電車に揺られながらじっとその時を──乗り込んだ列車が異界列車に変わるのを待っていた。

 だが、電車は荻窪、吉祥寺を過ぎても変わることなく、三鷹まで辿り着き、いよいよ文也は焦り始めた。大量の人を吐き出しては、また呑み込んでいく電車の中で文也はピアスに触れる。稀雨に連絡をしようと思ったのだ。だが、そこでふと、稀雨のことではなく異界駅のことを考えれば良いのではないかと気付いた。すぐ、文也はピアスに触れたまま目を閉じ、意識を集中させた。

 刹那、世界が無音になった。意識を失ったかのようなブラックアウトが一瞬訪れた後、は、と息を吐き出すと、もうそこには文也以外は誰も乗っていなかった。立ち尽くしたまま、窓の外を見れば空は血のように赤々と染まっていた。どうやら成功したようだ。それに安堵しながら文也は座席に座って長い脚を投げ出す。行儀は悪いが、誰もいないので許されたい。電車はガタン、ゴトン、と揺れながら見知らぬ世界を駆け抜けていく。眺めていると、不安をかき立てられるような景色だ。廃屋のような家々が連なっており、どこからともなく祭り囃子も聞こえてくる。黒い太陽はまるで世界にぽっかりと空いた深い穴のようだ。そこから、異形達が溢れてくるのを一瞬想像して、文也は身震いしてしまう。

 電車は今回は他の異界駅に停まることなく、およずれ駅にだけ停まると、文也はそこで降りた。降りる時、誰もいない筈の車内から「なんでだよ」という声と舌打ちが聞こえてきたが、振り返らないようにした。本能的に振り返ってはならないという気持ちが勝り、文也は足早にホームから降りると、例の緩やかな坂「花酔坂」をのぼっていった。道の両際で満開の桜が、時折風に揺れて花弁を散らしていた。美しく幻想的な風景を前に、何故か足の力が抜けそうになるが、どうにか堪えて文也は坂道を上り続けた。

 漸く坂を登り切ると、真白い館がひっそりと佇んでいた。白い薔薇に囲われた屋敷からは甘く清い花の香りが漂ってくる。静謐とした空気の中、文也が門の前まで進むと、そこに小さな人影があることに気付く。あ、と思わず声を上げると、あちらもこちらに気付いたのか、赤い双眸を細めにこりと微笑んだ。昨日、紅茶を運んでくれた五十鈴という名のだ。白いふわふわの髪、林檎のような赤い瞳、真っ黒な丈の長いワンピース姿の五十鈴は文也にぺこりと頭を下げると、門を押し開いた。それから先導するようにアプローチを歩き出す。どうやらついてこい、ということらしい。文也は五十鈴の後について屋敷の中に入ると、昨日とは違う部屋に通された。広々としているが本棚が多く、また鉱石や地球儀など、よく分からないものも沢山置かれていた。

 中にいた稀雨の黄金色の瞳が文也を捉え、柔らかく細められる。手にしていた本を閉じた稀雨は、文也を中央に鎮座している円卓に通す。

「文也君、良かった。ちゃんと来れましたね。五十鈴、ありがとう。お茶を用意してくれるかな? 四人分」

「四人……?」

 稀雨と隣り合うように椅子に腰掛け思わず首を傾げれば、黒いロングカーディガンを纏った稀雨が「ええ」と頷く。

「私と文也君、それから九十九課の方の分です」

「ああ、そういえば今日いらっしゃるって言ってましたもんね。その人たちって、俺と同じように妖が見える人達なんですか?」

「そうですね。九十九課に所属している方ですから、見えないと妖事に関することなど、どうしようもありません」

 確かに稀雨の言う通りだった。それ専門の課だというのに、肝心の妖が見えないのであれば普通の警察官でいるに決まっている。

「おや、着たようですね。随分と早い」

「え? よく分かりましたね」

 屋敷に入った音も聞こえていないというのに、何故分かったのだろうと思っていると、稀雨が手にしていた革張りの本を見せてくれた。それを見た文也は思わず目を見張った。

 本には鉛筆のようなタッチで、映像が描かれていた。絵が動いている、といった方が正しいだろう。色鉛筆で描かれたその映像は、二人の男女が花酔坂をのぼって来ていることを描き出していた。どちらも黒いレンチコート、黒スーツだ。

「便利でしょう? この本は監視カメラのようなものなんです。この駅周辺のこと、館の中のこと、それらは全てリアルタイムで描写されるようになってます」

「すごいですね……魔法の道具みたいだ」

 感心を露わに文也が言えば、魔法ですか、と稀雨が苦笑する。

「まあ、そのようなものかもしれませんね。創った甲斐がありました」

「創った……」

 創った?

 聞き間違いじゃなければ今、創った、と言っただろうか?

 文也は思わず稀雨へと問いを投げ掛けようと口を開きかけた──が。

「失礼します」

 部屋の扉が開くと共に、若い男性の声が聞こえてきた。続いて、扉から本で見た二人の男女が現れる。一人は背の高い男性だ。一八九センチある文也と同じくらいか、もしかしたらもっと大きいかもしれない。バスケ部に所属していた頃はそう珍しくもなかったが、社会に出てから自分と同じくらいの身長の人間に出会うのは久しいかもしれない。男性は細身のフレームの眼鏡をかけており、長い前髪をきっちり七三に分けて人の良さそうな笑顔を浮かべていた。その男性が文也を見て、口を開く。

「九十九さん。そちらの方は?」

「私の新しい助手です」

「十野文也と申します。よろしくお願いします」

 一応立ち上がって頭を下げてから、文也はまた着席する。

 男性は円卓の対岸に女性と共に腰掛けると、にっこりと笑って言った。

「はじめまして。僕は警視庁刑事部捜査九十九課所属捜査官、藤倉藤野介(ふじくら・ふじのすけ)と申します」

 そう言うと藤倉は視線を隣の若い、髪の長い女性に向ける。きれいな顔立ちをした女性だが、なぜか右眼には眼帯をしていた。その女性が口を開く。

「同じく警視庁刑事部捜査九十九課所属、桜田門結(さくらだもん・ゆい)ス。よろしく」

 そう名乗った桜田門は、じっと文也を見詰めてくる。そして、一言。

「九十九サン、こんな優男で本当に大丈夫なんスか?」

 完全に文也のことを「戦力外」として見ている目だった。そんな桜田門に藤倉が「こら」と小さく咎める。だが、そんな藤倉の言う事をまるで無視して桜田門は言う。

「明らかにコイツ、【餌】じゃないスか。お荷物になるだけッスよ」

「え、餌……」

 物騒な物言いに、思わずちらりと隣の稀雨を見れば、稀雨はくすりと笑う。

「それが良いんですよ。文也君は、特上物の【生き餌】です」

「ええ!?」

 まさか稀雨にまでそんな風に思われていたなんて。少しばかりショックを受けてしまう。

 そんな文也を見て稀雨が「そんな悲しそうな顔しないで下さい」と言う。

「文也君は確かに戦う術は産まれ持ってありませんが、妖を惹きつける上等な資質があります。戦うのは私に任せておいて大丈夫ですから」

 つまりこういうことだろうか。文也は魚が食らいつくような美味そうなルアーであり、実際釣り上げるのは稀雨ということか。いや、疑似餌じゃなく生き餌なので、食われたらそこで文也は終わりである。

「文也君、大丈夫ですか。今にも世界が終わりそうな顔をしていますよ」

「……大丈夫です。大丈夫です、俺。たとえ生き餌だとしても、しぶとく何度も蘇るような生き餌になりますから。必ず役に立てるよう頑張ります」

 未来に暗澹たる影が差し込んだのは確かだったが、だからといって後ろ向きでいても仕方が無い。生き餌なりに精一杯頑張るしかないだろう。そう思っての発言だったのだが、稀雨はきょとんとした後、ふふふ、と何やら愉快げに笑った。

「いやですね。生き餌というのは冗談ですよ。冗談」

 また冗談である。意外にも冗談を言うらしい。文也がほっとすると、

「でも囮ではありますね。大丈夫。殺される前に私が妖を始末しますから」

 とてもほっとはできない言葉が稀雨の口から飛び出した。生き餌から囮に昇格したものの、やっぱり命の危険性はあるらしい。ははは、と文也は笑う。笑うしかなかったし、もう囮と決まった以上、囮人生を頑張るしかない。

「……九十九サン、これなら前の──」

「桜田門。その話はやめろ」

 何か言いかけた桜田門の言葉を、藤倉が遮って抑える。桜田門は何か物言いたげにしていたが、おそらく藤倉の方が先輩なのだろう。ハイ、と仕方ないと言ったように頷いて、それ以上何か言い出そうとはしなかった。藤倉は文也を見て言う。

「すみませんね。うちの桜田門が失礼なことを言って」

「いえ、そう思われても仕方ありません。俺、実際見える以外何もありませんから」

 でも、と文也は藤倉と桜田門へと向かって言う。

「簡単に逃げ出すような、そんな覚悟はしていません」

 そう告げると、隣に座っていた稀雨が「文也君」と驚いたような声を上げていた。藤倉は目を丸くし、桜田門もまた呆気に取られていたようだが──すぐに桜田門の顔に狂犬のような苛立ちが浮かんだ。

「大口叩くだけなら誰でも言える。どうせアンタも九十九サンを一人にする。今まで全員そうだった。最後にはいつだって」

「桜田門さん」

 声を制したのは、稀雨だった。稀雨は穏やかな声で桜田門へと言う。

「ご心配、ありがとうございます。私は大丈夫です。それにそろそろ本題に入りましょう。こんなに早く私の所に話が来るということは、緊急性があるのでしょう?」

 その問いかけに、桜田門は気まずそうに視線を落とした。代わって藤倉が答える。

「ええ。先日二人目の犠牲者が出ました。被害者の状態から見て、九十九課に回ってきた次第です」

「印があったんですね」

「はい。被害者は二人とも女性で、うなじに印が」

 印、と二人は話をする。だが文也には全く分からない。どういうことかと思って眉根を寄せていると、気付いた稀雨が説明を付け足してくれた。

「妖の被害を受けた人間には、身体のどこかに赤い印がつくんです」

 こんな感じの印です、と言うと稀雨は円卓に置いてあった紙束を引き寄せて、羽ペンでその上にさらさらと印を描いた。それはアスタリスクに似ていたが、中央の線の先が伸びて先が直角に曲がっていた。

「妖によって種類は微妙に異なりますが、厄介な妖ほど印は複雑に、そして色は濃く残ります。印を刻まれた被害者は、そこから徐々に生命力を奪われていきます。妖が強ければ強いほど、進行速度は深刻なものになります。被害者はお亡くなりに?」

 稀雨が羽ペンを台に戻しながら正面にいる藤倉に問う。

「いえ。昏睡状態のまま、二人とも今も病院のベッドで眠っています。あらゆる医学的処置を試みましたが、案の定何の意味もありませんでした」

「昏睡状態。妖の被害ではよくある症状ですね。状況を詳しく伺っても?」

「最初の事件が起きたのが四月十四日。被害者の名前は笹倉愛理。都内にある私立大学、白樺大学に通う二十歳の女性です。そして次の事件が起きたのが一昨日の四月十八日。同じ大学に通う二十一歳の女性、竹田美枝。先程も言いましたが、二人のうなじには印がありました」

 そう説明すると藤倉は持ってきた鞄の中から資料の束を取り出し、稀雨へと差し出す。それを手にした稀雨は、文也にも見えるよう資料を広げた。資料には遺体発見時の現場状況の写真と、それから当然の如く、被害者の写真も載っていた。それを見て一瞬、文也の胸に暗い影が過る。だがその影に今は気を取られてはいけないと、文也は真剣に捜査資料を読み込んだ。

 笹倉愛理も竹田美枝も、どちらも大学の図書館帰りの夕刻過ぎに姿を消している。大学生は今の時期、漸く春休みが終わり新学期を迎えたところだろうか。笹倉も竹田も勉強熱心な生徒だったらしい。勉強にもバイトにも熱心で、明るい生徒だったようだ。青ざめているが二人とも整った顔立ちをしており、異性に人気があったのではないかと思う。二人とも夜明けに意識を失った状態で発見されており、現場状況の写真を見ると、笹倉は真夜中に降った雨の為に全身水浸しで発見、竹田の方は前日の降雨によってできた水溜まりの中に倒れるような形で発見されていた。履いていたパンプスの片方は脱げており、まるで何かから必死に逃げて、躓いて倒れたようにも見える。

「……妖に追われていたんでしょうか」

 ぽつりと呟いた稀雨の視線の先を見れば、最初の被害者である笹倉の履いていたヒールが片方ぽっきりと折れている写真があった。折れた拍子に、笹倉も竹田のように転んで──妖に襲われたのかもしれない。藤倉が付け足すように言う。

「二人とも身体には転んだ際に出来たと思われる傷がありました。九十九さんの仰る通り、妖に追われて逃げていたんでしょう」

「でも転んでしまった。そして追いつかれて、印を刻まれた。そういうことでしょうかね?」

「おそらく。本来なら私達だけで解決すべき案件かと思ったのですが、どうにも人手が足らず……お恥ずかしい限りです」

「まぁ、それはいつものことでしょう。お気になさらず。それにこちらにも仕事が回ってきてくれるから、私達はお給金を頂くことができるんですし」

 案外、金のことは気にするらしい稀雨に、藤倉は苦笑する。

「九十九さん。あなたならお金なんて本当はどうとでもなるじゃないですか」

 その発言に、いったいどういうことだろうと思って稀雨を見ると、稀雨は妖しげに笑ってひらひらと手を振る。そのタイミングで五十鈴が四人分の紅茶を運んで来た。

「私だって一応は昔、人間社会にいた身ですから。進んで犯罪行為に手を染めたいとは思いませんよ」

 そう言って稀雨は紅茶を口に為る。人間社会にいた身。それはつまり、稀雨が現実世界で普通に暮らしていたということなのだろうか。この人ならざる美しさを誇った青年が、普通に人間社会に溶け込んで暮らしている姿など想像もつかなかったが、本人が言っているからそういう時代もあったのだろう。

「そういえば藤倉さん。お伝えし忘れていたんですが、例のものを文也君用に用意して頂けませんか?」

「勿論。……ええっとそれでは十野さん。こちらに署名と拇印をお願いします」

 藤倉は鞄から取り出した、名刺ほどのサイズの紙を文也に差し出してくる。文也はそれを受け取ると、稀雨から羽ペンと朱肉を借りてサインと拇印を済ます。藤倉に用紙を返すと、藤倉はそれが汚れないよう紙で挟みファイルの中に入れた。

「明日には出来上がるかと思います。こちらにお持ちしましょうか?」

「いや、文也君の自宅に郵送してもらった方が早いんじゃないかな。文也君。藤倉さんに自宅の住所を」

 稀雨にそう言われた文也が紙とペンを引き寄せようとすると、藤倉が「口頭で大丈夫です」とスマートフォン片手に微笑んだ。確かに電波は入らなくともメモには確かにできる。文也は口頭で住所を告げると、藤倉は慣れた様子で打ち込んでスマートフォンを懐に仕舞った。

「ありがとうございます。近々、ご自宅に手帳が届くかと」

「手帳、ですか?」

「はい。警察手帳にも似ているんですが、赤色の手帳でして。特務捜査員としての証明書みたいなものでしょうか。あれば色々と融通が効きますので、持っていて下さい」

 成る程。警察に協力する以上、警察もまた、こちらに協力してくれるということなのだろう。ありがとうございます、と文也が頭を下げると藤倉は「当然のことです」と笑って続けた。

「今回はなんだか長続きするような気がしますね。ねえ、九十九さん」

 藤倉はどこか嬉しそうに言う。それほど稀雨の歴代の助手たちは長く続かなかったのだろう。稀雨は「さてどうなりますかねぇ」と曖昧に微笑む。

「文也君は確かにこれまでの人達と少し違いそうですが……所詮、人間ですから」

 その言葉尻に、嘲弄というより悲愴な色が滲んでいたのは気のせいだろうか。

 桜田門は綺麗な顔に似合わずチッと舌打ちをする。

「どうせ続きませんよ。威勢が良い奴なんて、腐るほどいたじゃないスか。こいつも一緒ッスよ、一緒」

 辛辣な物言いに文也は思わず苦笑いを零す。

「そうならないよう頑張ります」

「……あんたはここまで自分に言われて何も言わないんスか?」

「さっき言った言葉で十分です。俺は、そんなに安い覚悟で助手になった訳じゃありません。でも、俺とあなたが争う必要はないと思いますし、あなたがそうやって思う気持ちも分かります。だから、俺は言葉だけじゃなく行動で示すしかない。そう考えているだけなんです」

 文也が桜田門を真っ直ぐに見詰めそう告げると、桜田門は苛立たしげに長い髪の毛をわしゃわしゃと掻いて「ああもう」と声を荒げた。

「そういうあんたの考え方で、本当にやっていけるとは自分には思えないんスよ。あんた、妖のことを舐めてるんじゃ──」

「桜田門。それくらいにしておけ」

「でも」

「桜田門」

 穏やかだった藤倉の視線が鋭くなる。それに気付いた桜田門は仕方ないように、ハイ、と言うと視線を下げて口を噤んだ。何か悪い事をしてしまったような、そんな気分になったが、藤倉の方はというと文也へと申し訳なさそうな笑みを向ける。

「すみませんね、何度もうちの桜田門が」

「いえ、気にしないで下さい。厳しい仕事なんだなって、改めて実感できました」

 専門で職務についている桜田門がこれほど噛み付くくらいなのだ。稀雨の助手はそう甘いものではないのだろう。

「十野さんは前向きな方ですね」

「後ろ向きに考えたって良いことなんてないですから」

 本当にそうなのだ。切り替えて前を見ないと、あっと言う間に背後から迫ってくる影に呑み込まれてしまう。それを文也はよく理解していた。嫌と言うほどに。

「いいことです。九十九さんの助手をする上では特に」

 藤倉はそう言うと桜田門に視線をやって、一緒に席を立った。

「それでは僕達は別件にあたらなくてはならないので、そろそろ戻ります。何かあればまた連絡します。九十九さん達は早速被害者周辺の調査をお願いします」

「ええ。いつも通り仕事にあたらせて頂きます」

「相変わらず頼もしい。向こうにもう連絡はいっているはずなので、それではお気を付けて。行きますよ、桜田門」

 そう言うと藤倉は桜田門を引き連れて部屋から出て行った。二人きりになった室内で稀雨が文也を見る。

「そうでした。行く前に文也君に渡しておきたいものがありました」

「何ですか?」

 待っていると稀雨が一旦席を立って、それから物が溢れる戸棚を開けて、何やら小さな小物を持ってきた。その小物を文也に渡す。受け取った文也はそれを見て、思い切り眉根を寄せた。

「鎌……?」

「小さいですが、ちゃんと握り込めば大鎌になります。ギリシア神話でクロノス神が扱うアダマスの鎌を創ってみました」

 ちゃんと携帯できるようにしたんですよ、と言う稀雨に文也は呆気にとられる。

「あの、創ったって、稀雨さんがこれを創ったんですか?」

「はい。あ、動作確認の為握り込んでみて下さい」

 訳が分からないまま、とりあえず言われた通りに握り込んでみる。瞬間、ミニチュアサイズだった鎌が死神が持つような大鎌へと変化し、慌てて文也は立ち上がる。

「な、なんですか、これ」

「今言ったじゃないですか。アダマスの鎌だと」

「何ですかそれ」

「簡単に言うと何でも切れる鎌です」

「何でもって……」

「妖に襲われた時のように、護身用に持っていた方が良いでしょう?」

 そうやって笑みを向けてくる稀雨に、文也は苦い表情を浮かべる。

「護身用、ですか……」

「おや、心許ないですか?」

「いえ、そうじゃなくて」

 首を振って否定し、文也は大鎌を見詰め眉根を寄せる。

「身を守るためとはいえ、誰かを傷つけるのは気が引けるというか」

「……そんな事を言っていたら、君、本当に生き餌になりますよ?」

 稀雨の声の温度が僅かに下がるのを感じた。だが、文也は考えを変えることができなかった。

「勿論、死ぬ気はこれっぽっちもありません。でも、誰かを傷つけるのは嫌です」

「相手が妖であってでもですか?」

 その問いに、文也は頷く。それが意外だったのか。稀雨は訝しげに言う。

「どうしてそう思うんですか? 自分の命が惜しいと思わないんですか?」

「自分の命は大事ですよ。だって、母さんが命を賭けて俺を産んでくれたから。でも、だからといって妖だって、無闇に切り捨てて良いものじゃないと思うんです」

「……何故?」

「妖は、人間が創ったものでしょう? 創られた理由はきっとあるはずだ。そういう理由のあるものを、簡単に無かったものにするのは、悲しいとは思いませんか?」

 そう問いかければ、稀雨は金色の目を見開いて文也を見た。驚いているようだったが、そんなに驚くような事だっただろうかと文也は不思議に思う。不思議に思っている内に、くつくつと稀雨が華奢な肩を揺らして笑いだした。

「文也君。君は本当に、おかしな人ですね」

「そうですかね……? ただ単に、争い事は嫌なだけなんですけど」

「平和主義者というやつですか。まあ、いいです。鎌は柄の部分に嵌まっている石を押せば、元の小さなサイズに戻りますよ」

 稀雨の言葉に従って、長い柄に埋まっている青い石を押す。瞬間、どういう仕組みなのか一瞬で大鎌は縮まり、文也の手の平におさまるサイズになった。本当に、魔法みたいである。そう思ったところでふと文也は稀雨に問いを放つ。

「あの、これ稀雨さんが創ったんですよね? もしかして、稀雨さんって何でも創れるんですか?」

 だとしたら大した魔法である。問われた稀雨は一拍の間の後、答えた。

「そうですね。大体のものは、創れますよ。それが私の力ですから」

「稀雨さんの力……」

「はい。私は創造力によって、想像したものを現実世界に構築することができるんですよ」

 さらりと言ったが、それはとんでもない力なのではないか?

「それって想像できるものは何でも創れるってことですか?」

「まあ……何でも、というわけじゃありませんが、大体のものは」

 万能という訳では無いらしい。だが、それでも十分に凄い。思わず文也は小さく拍手してしまう。

「すごいですね! 稀雨さんは魔法使いみたいだ」

 褒めたつもりだったのだが、稀雨は苦笑いを浮かべる。

「どうでしょう。すごいのかどうかは、私にはよく分かりません」

「どうしてですか」

 思わず問えば、稀雨は長く繊細な睫毛を伏せて、ぽつりと呟くように言った。

「本当に欲しいものは、創ることができませんでしたから」

 その寂しげな横顔を見て、どこか文也は自分と似たものを感じた。この人も何か過去に大切なものを失ったのだろうか、などと勝手な想像を巡らせてしまう。けれど、もし本当にそうだとしたら、それは簡単に触れていいものではない。稀雨は自分が人間ではないというが、心はきっとある。心は、とても繊細なものだ。傷付きやすく、壊れやすい。どんな強い人であっても、心を壊されれば命は──儚くなる。

「文也君? どうしました?」

 黙り込んでしまったのが気になったのだろう。覗き込んできた稀雨に文也は誤魔化すように明るく笑った。

「いえ、何でもありません。仕事、頑張りますね。俺」

 そう告げれば稀雨は黄金色の瞳を細め、小さく頷いた。

「そうですね。私達の、初仕事です」


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