第一章 異界駅(2)

 自宅の1Kのアパートに帰った文也は、ベッドに倒れ込んで息を深く吐き出した。本当に今日あったこと、すべてが夢物語のようだった。未だにあれは長い白昼夢だったのではないかと疑ってしまう瞬間もあったが、文也は左耳に触れる。そこには今まではなかったピアスの感触がある。確かに今日、あの異界で九十九稀雨という青年と出会った証拠だった。これに触れられるのも見えるのも、特定の人物だけで普通の人間が視認することはまず不可能だと稀雨は言っていた。

 ──それは切符と電話のようなものです。

 迷うことなく再びあの「およずれ駅」に行く為の切符と、稀雨との連絡手段がこの黒い石がはめ込まれたピアスらしい。このピアスを身につけている限り、文也が望めばどの電車から乗り込んでも「およずれ駅」に通じる異界列車に乗り込める。そして現実世界に帰ろうと思えば、帰ることができる。

 まさかこんなことになるなんてな、と文也は仰向けになって天井をぼんやりと眺めた。就職活動中に異界へと通じる列車に乗り込んで、その果てに人間ではない存在である稀雨と契約をして彼の助手になるなんて。漫画や映画の世界のようだ。文也はもう一度、確かめるようにピアスに触れる。そういえばこちらから連絡をかける場合はどうするんだったけっか。稀雨のことを考えれば良かったような──と思いながらピアスを弄っていたら、

『──文也君。どうしました』

「うわっ」

 思わずベッドから跳ね起きる。耳元で声が不思議そうに呼びかけてくる。

『文也君? 何かありましたか?』

「い、いえ、ぼうっとしながらピアス弄っていたら繋がっちゃったみたいで……」

 誰に見られている訳でも無いのにベッドの上に正座になって文也は「すみませんでした」と謝った。するとピアス越しに稀雨の声が聞こえた。

『別に謝るようなことではありませんよ。それより、無事帰宅できたようで良かったです。私の方に用事がなければ、元の駅まで送って差し上げたんですが……』

 そう言う稀雨の少し沈んだ声に、文也は「いえ」と声を上げる。

「そんな、子どもじゃないんですから一人で帰れますよ」

『文也君は人を簡単に信じるから不安なんです。しかし、こうして連絡を取って下さったのは丁度良かった』

「丁度良い?」

 聞き返せば、ええ、と稀雨が答える。

『実を言うと早速お仕事が入りました。今日ご自宅まで送れなかったのも、その連絡と確認があった為なんですが、詳しいことは明日話したいと思います。ですので、また私の自宅まで来て頂けないでしょうか?』

 初仕事。その言葉に少しばかり緊張したが、文也は元気よく答えた。

「分かりました。何時にお伺いすれば良いですか?」

『そうですね……九十九課(きゅうじゅうきゅうか)の方が来るのが午前十時と言っていたので、その前にはいて欲しいですね』

 九十九課? 仕事が入ったと言ったが、一体どういった機関から仕事の依頼をされたというのだろう。課、というあたり、まさか警察だろうか?

「あの、九十九課というのはどういう人達なんですか……?」

 そう尋ねれば、失念していたと言うように稀雨が「ああ」と声を上げた。

『警視庁刑事部に表では存在しないことになっている課、捜査第九十九課のことですよ。全国で起こった妖の事件を担当しています。ですが万年人員不足の為、こうして私に助けを求めてくるようになったのです。私達の給金はそこから出ています』

「なる……ほど……?」

 理解はしたがイマイチ実感が湧かないのは事実だった。なにせ警察と、この妖しげな異界が繋がっているなど想像もつかなかったからだ。そもそもどういう経緯で稀雨と警察との間に交流が為されるようになったかも大いに謎だ。

『私が警察と協力するようになったのは今から……そうですね。大体、第二次世界大戦から暫く経った頃からでしょうか。つい最近といえばつい最近です』

「第二次世界大戦……なるほど……?」

 なるほど、とは先程から言っているが聞く度に謎が増える。稀雨の口ぶりからすると、稀雨は第二次世界大戦を知っているということになる。知識としてではない。それは経験として知っている。しかもそれがつい最近、という感覚もおかしい。もう終戦してから何十年も経っているというのに、稀雨にとってはそれが「つい最近」のことなのだ。時間の流れの感覚が、人間とは違うのだろうか。違うのだろう。なにせ稀雨は自らを人間ではないと言っている。ならば稀雨の正体は一体何なのだろう。

 だがそれを顔の見えない通話越しに聞くのは失礼なような気がして、文也は敢えて今は何も問わないことにした。気になることは、ちゃんと本人の顔が見える所で聞きたい。大事なことは、特に。

「とりあえず明日、十時前にお伺いしますね。何か必要なものとかありますか? 服装とか、ちゃんとスーツを着ていた方が良いですかね?」

 きちんとした社会人なら職種にもよるだろうが、大概はスーツだろう。だが稀雨の答えは予想とは違っていた。

『いえ、今回はスーツでなくても良いです。むしろ動きやすい恰好で来て下さい』

 動きやすい恰好。矢張り化け物退治と探偵業を交ぜたような仕事内容だと言っていたから、その方が良いのだろうか。とりあえず文也は「分かりました」と頷く。

『それでは今日はもう休んで下さい。明日から早速、大忙しになりますから』

「はい、稀雨さんもしっかり休んで下さいね。明日からどうぞよろしくお願いします。……で、あの、稀雨さん」

『はい』

「この通話って、どうやったら切れるんですか?」

 ピアスに触れたまま問えば、稀雨は申し訳なさそうに告げた。

『ああ……すみません。一度通話すると、もう二度と切れないんですよ。この通話は』

「え!?」

 いやそれは困る。流石に生活を垂れ流しにするのは恥ずかしいし、稀雨だってやかましいことこの上ないだろう。

『本当に説明不足ですみませんでした。君が繋げた際にはこうした事態に陥ってしまうという事を、お伝えするのを失念していました』

 心からの謝罪を口にする稀雨に、文也は最初こそ焦っていたが、むしろ申し訳ないような気持ちになってきた。

「いや、俺が軽率にかけてしまったせいで、稀雨さんのせいじゃないですよ。この先、生活音とか寝言とかうるさいかもしれませんが、我慢して頂けると──」

『冗談ですよ』

「え?」

 間の抜けた声が上がってしまう。稀雨はくすくすと笑いながら言った。

『本当に君は簡単に信じてしまうんですね。安心して下さい。ピアスから指を外して十秒ほど時間をおけば自然と通話は切れますから』

「冗談……」

 気が抜けたような声が思わず漏れた。通話口の稀雨は楽しげに笑ったあと、それじゃあ明日、と言ってあちらから切ってしまった。なんだ。あっちから切る方法もあるんじゃないか。文也はピアスから指を外し、そのまま大の字になってベッドに転がる。

「……意外と、冗談とかも言うんだな」

 それこそ神話に出てきそうなくらいに美しく、また人とは異なる蠱惑的な空気を纏う青年、九十九稀雨の姿を思い起こす。夜色の瞳の正体は満月色の瞳で、見る人によって印象は変わるのだろうか、畏怖の念さえも抱くような美しさだった。ただ、文也の目にはどこかその目は綺麗だが、寂しげにも見えた。だから笑ったり冗談を言ったりするのが、少し意外で、出会ったばかりだというのに親近感を覚えた。

 しかしながら、稀雨は本当に一体、何者なのだろう。

 人間ではないことは分かっている。だが、そうなると稀雨の言っていたあの「妖事」ということになるのだろうか。幽霊や化物といった人ならざるものを妖事と指すのならば、稀雨だってそうなる。だが、そうするとおかしい。妖事は人に認識されることによって初めて現実世界に現れ出ることができる。稀雨の話からするに、警察とも連絡を取り合えるということは、妖事ではない。それに探偵業をするということは、現実世界に稀雨も出てくるのだろう。

「助手って……一体何するんだろうなぁ……」

 文也はごろりと身体を横たえさせる。青年は適性があると謎めいたことを言っていたが、文也にできることは幻覚を──否、妖を視ることだけだ。それが見える人間が少ないから、あんな風にいったのだろうか。確かに幽霊や化物を視ることができる人間など少なそうである。

 ──役に立てたら、良いのだが。

 誰かを助けることができるなら、文也にとってこれ以上の喜びはないだろう。悪さをしている妖がいるのだから、苦しい目にあっている人がいる事は間違いない。

 その苦しみから、救えるなら。文也の脳裏に、鮮明に浮かび上がる「死の映像」。団地の一室。部活帰り。誕生日の翌日の、夕刻。もう闇が部屋を侵食し始め、潰えそうな太陽の光が血のような色で細く室内に差し込んでいた。ぐったりとした身体。首に巻き付いたベルト──文也は目をぎゅっと瞑って、呻くように呟く。

「……父さん」

 文也が救えなかった人。その苦しみに気付いてやれなかった人。きっと父は自分を恨んでいるだろう。せめて遺書のひとつでも残してくれれば、まだ、文也の背負う十字架は軽くなったかもしれない。

 あの高校二年生の夏、誕生日翌日の七月八日以来、文也はおかしなものが見えるようになった。今まではそれは心の傷による幻覚だとされてきた。だが、稀雨は違うと言った。文也が視ているのは、妖という、確かに在るものなのだと。

 なにか、この眼が妖というものを捉えることができるようになったことに意味があるとするならば。

 それはきっと、贖罪だと、文也は思った。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る