第一章 異界駅(1)
「ん……」
どれほど眠っただろうか。
文也はどうにか眠りの海から這い上がり、目覚めた。
瞬きを繰り返すとぼんやりとした視界が徐々にクリアになっていく。
──あれ?
違和感を覚え文也は眉根を寄せる。あんなにいた乗客がいない。乗り過ごしただろうかと思い窓の外を見てみると、見覚えのない風景が流れていっている。朽ち果てた家や竹林を過ぎ去る中、文也は寝起きの頭で大いに混乱した。一体、今ここはどこだ?
文也の最後の記憶は中央線に乗り込んで、それから少しして眠気が襲ってきたところまでだ。そこでこうして今目が覚めたわけだが、自宅のある阿佐ヶ谷駅を乗り過ごして、立川近くまで来てしまったのだろうか? などと考え、首を振る。違う。立川あたりまで来たことはあるが、こんな風景ではなかった。なら、ここは何処だ? 文也は咄嗟にスマートフォンを見るが時刻がおかしい。四時四十四分のまま動かない上に圏外だ。これは、明らかに異常だった。嫌な汗がどっと全身から噴き出す。
いてもたってもいられなくなって立ち上がり、文也は車内を歩く。誰か、自分の他にいないか。必死だった。自分以外の誰かがいればまだ安心できると思った。その時だった。
【……次は厄身駅(やくみえき)~、厄身駅~、お出口は左側です……】
乗車内に男性車掌のアナウンスが流れる。その声はどこか陰鬱としており、覇気がない。まるで死人が喋っているような温度だった。
それに──「やくみえき」なんて駅、聞いたことがない。
急激に血の気が引いていく。嫌な汗が背筋を伝って流れ、心臓が大袈裟なくらい激しく鼓動していた。逃げ出したい気持ちでいっぱいなのに、電車というある種の密室に閉じ込められた文也には逃げる場所もない。ただただ、明らかに異質と化した電車に揺られ、どこかの駅に停まるのを待つだけだ。だが、降りようにも聞いたことのない駅に降りるなど、自殺行為にも思えた。
どうすればいいのか分からないまま、電車の速度は緩やかに落ちていき、やがて荒んだ風景の中に「厄身駅」と書かれたくすんだ駅名標が現れた。
「厄身駅……」
思わず文也はそれを読み上げると、まるでそれを聞いていたかのように自動ドアがタイミングよく開いた。文也は恐る恐る、一歩、また一歩と足を踏み出す。降りるべきか。文也は惑う。このまま乗っていたら、自分が知る元の世界に戻れるだろうか。それとも、乗っていたらもっと悪い状況に転がってしまうだろうか。
「──やめておきなさい」
突然。
聞こえてきた声に文也の心臓が跳ねる。咄嗟に声の方向を振り返ると、車内の優先席付近に座っている人影を見付けた。ひとり、同い年くらいの青年がいた。今まで全く気付かなかった。だが、自分の他に誰かがいるという事実は、とてつもない安堵感を文也にもたらした。
文也はその青年のもとへと駆け寄ると、あの、と声をかけた。
「すみません、この電車ってどこ行きですか? 俺、中央線に乗っていたと思うんですけど」
急くようにそう尋ねると、俯いていた青年が顔を上げた。その顔を見た瞬間、思わず文也は息を呑んで魅入ってしまった。
青年はひどく端正な顔立ちをしていた。長い睫毛に縁取られた瞳、すっと通った細い鼻梁、淡い色をした少し薄い唇、まるで人形のように美しい顔をしていた。中性的な美青年でありながら、どこか神秘的でもあった。その艶のある黒い双眸が、じっと文也を見上げていた。
「……落ち着いて、座っていなさい」
「え?」
青年の声に意識が引き戻され我に返れば、青年は空いた隣をぽんぽんと叩く。
「私のそばにいた方が良いでしょう。さぁ、座って」
そう促され文也は戸惑う。今この状況で文也の助けになってくれそうな存在といえば、目の前にいるこの美しい青年しかいないが、果たしてこの青年の言う事を信じても良いものだろうか。この電車も電車だが、目の前の青年もただの人間とは思えない何か計り知れないものを感じる。
文也は考え、迷った。だがその末に青年の隣に座った。同時に、それがおまえの選択か、というかのように自動ドアが閉まった。心が揺れたが、隣から「大丈夫ですよ」と声がかかってくる。見遣れば、青年は落ち着いた様子で告げた。
「君の選択は間違ってはいません。ここで降りるべきではなかった」
「……あなたは、一体何を知っているんですか? この電車は一体どこに行くんですか?」
問えば青年は視線だけを文也のほうへと向けた。夜の泉のような瞳だった。
「そうですね……異界、と言ったら良いでしょうか」
──異界。
何やらとんでもないことを言い出した美青年を前に、文也はどんな反応を取っていいか惑う。本気で言っているのだろうか。だが、青年の表情に冗談という色は浮かんでいない。ありのままの事実をただ述べているように見えた。
「その……異界って、本当に」
【次はきさらぎ~、きさらぎ駅。お出口は左側です…………】
響いてきたアナウンスに文也はぎょっとする。きさらぎ駅。文也でも知っている、都市伝説に出てくる有名な異界駅の名前だ。
「──分かったでしょう」
隣の席に座った青年が心を読んだかのように話しかけてくる。
「私達が乗っているのは異界列車。普通に、現実世界で走る列車ではありません」
「そんな……」
あまりのことに愕然とし、文也は言葉を失ってしまう。その内に電車のスピードは再び緩やかになっていき、赤い空の広がる寂れた駅に停まった。駅のホームには誰もおらず、駅名標には「きさらぎ駅」と書いてあった。
「きさらぎ駅……」
呟きと共に、ドアがプシューッと音を立てて開く。そこから生温い、纏わり付くような空気が外から内に入り込んでくる。
異界。まさにその言葉通りの世界が広がっていた。奇妙なことに、降りたくないと思うのに、出口の向こうから呼ばれているような感覚に陥る。腰を浮かしかけるも、隣の青年が制した。
「やめておきなさい。呼ばれても行ってはなりません」
その澄んだ声音に、不安と恐れで満ちていた心がすっと浄化されていく。文也は座席に座り直し、降車したくなる得体の知れない気持ちをどうにか堪えた。誰かが舌打ちしたような、そんな気配がし、ぞっとする。なにかが、いる。電車の外に見えない異形の群れを感じ取って文也は視線を落とした。感じる視線を無視していく内に、電車の扉が閉まる。電車が再び動き出すも、ホームを過ぎ去るまで文也は顔を上げることができなかった。じとりと、自然と握り締めていた拳に汗が滲んだ。
「……もう、大丈夫ですよ」
そんな声が隣から聞こえ、文也は恐る恐る顔を上げる。電車はホームを過ぎ去り、次の駅に向かって走っていた。だが窓の外に広がる世界は異質としか言いようがなかった。空は血のように赤く、太陽は黒い。それなのに奇妙なくらいに明るく、廃屋のような家屋が連なる世界を電車は駆け抜けていく。どうして、きさらぎ駅なんかに、と文也は戸惑う。これは文也が時折見るような「幻覚」ではなく、確かな現実だ。
「次の駅で降りますよ」
「次って……元の、普通の駅に戻れるんですか?」
思わず見遣れば、青年は無表情のまま淡々と答えた。
「いえ、次の駅も所謂異界駅です」
「えっ」
「ですが危険な場所ではありません。少なくとも、私についてくれば」
「あなたについていけば、ですか……?」
そう問えば青年は、ええ、と静かに頷く。普通に考えたら、この異常な状況で落ち着きを払っているこの青年に対し、警戒するべきなのかもしれない。けれど文也にはどうにも青年を疑うような気にはなれなかった。すぐに人を信用するのは悪癖だと友人たちには言われるが、直感的にこの青年は信じてもいいような気がした。
「……分かりました。それじゃあ、あなたについていきます」
そう告げると、青年が振り返り、僅かに瞠目していた。何かおかしいことを言っただろうかと思っていると、青年は微かにだが、初めて笑った。
「君は簡単に人を信じるタイプの人間のようですね」
まさか初対面の相手にそう言われるとは思っておらず、つい文也は破顔する。
「あはは……よく友達にも言われます」
「あまりよろしくないかと」
まさしく友人にも言われる台詞を青年にも言われ、文也は苦笑する。
「そうかもしれませんね。でも、安心しました」
「安心?」
不思議そうな声を青年が上げる。文也は神様に創られたように美しい青年を見詰めながら頷いた。
「はい。だってあなたは、きっと良い人だ」
そう告げると青年は目を丸くする。
「……どうしてそう思うのですか?」
「こんな状況なのに俺に優しくしてくれるからです」
「優しく?」
青年はくすりと笑った。あ、やっぱり笑うと良いな、と思った。
「君を謀って危険な場所に誘おうとしているのかもしれないんですよ? その可能性を考えはしないのですか?」
「そう思っている人はきっとそんな事言わないですよ」
「君は……随分と楽観的な考えの持ち主のようだ」
どこか感心するように言う青年に、文也は「どうでしょう」と答える。
「ただ俺は悪いことを考えるより、良いことを考える方が、良い気がするからそうしているだけです」
「そういうのを楽観的、と言うのですよ」
おかしなひとですね、と青年は口元に淡い微笑をたたえる。
最初は表情のない人だと思ったが、そうやって笑っていればいいのにと文也は思った。浮世離れした美しさも、笑えば人間味を帯びてより一層魅力的に映る。
【次はおよずれ~、およずれ駅~……お出口は左側です……】
車掌のアナウンスが響く。電車のスピードが緩やかになっていく。
「降りますよ」
青年がすっと立ち上がる。纏っていた黒いロングコートが揺れた。鴉のようだと何となく思った。いっとうに美しい、神聖な鴉のようだ、と。文也も立ち上がると、電車はホームに滑り込んで停車した。扉が開く。青年が先に降り、文也もまた覚悟を決めて電車から降りてホームに立った。背後で扉が閉まる気配がした。ちくしょう、と背後から声が聞こえて振り返りそうになったが、青年がそれを止めた。
「やめておきなさい。見ないほうが良いでしょう。行きますよ」
その忠告に従って文也は青年の後を追う。改札などはなく、ただホームに繋がる階段があるだけで駅員もいなかった。白いペンキで塗られた駅名標には「およずれ」と書かれており、不思議なことに次の駅も前の駅も記載されていなかった。青年の言うように、ここも異界の駅ということなのだろう。
「ついてきて下さい。決して私から離れないで」
「あ、はい」
文也は青年の隣に並び、目の前に伸びる緩やかな坂道を上り始めた。坂道の両際には立派な桜が咲いていたが、空が赤いせいで美しさというよりも不気味さのほうが勝っていた。しかも現実世界ではもう桜は散っている頃だ。濃い花の香りに酔いそうになる。ただの緩い坂道だというのに、上っていると勝手に足がもつれそうになる。
「花酔坂(はなよいざか)というんです。転ばないよう気を付けて」
「ありがとうございます。あの……この駅の近くに住んでいるんですか?」
慣れた様子の青年が気になって尋ねれば、青年は頷く。
「ええ。この先にある館に暮らしています」
「そりゃあ……」
文也は思わず、思い浮かんだことを言った。
「寂しいですね」
青年が足をぴたりと止め、文也へと振り返った。その眼は驚きに満ちている。失礼なことを言ってしまっただろうかと慌て、すみません、と言うと青年は見開いていた目をすっと細め「いえ」と首を振った。
「君は、本当におかしな人ですね」
「そうですか?」
「ええ。だって異界駅に住まう者など明らかに普通ではないというのに。君は私に対し恐れではなく憐れみを抱いている。危機感が薄い上に、お節介な人だ」
「ええっと……すみません」
青年がくすっと笑う。
「責めている訳ではありません。君は運が良いと思っていましたが、運が良かったのは今回ばかりは私のほうかもしれません」
「? それってどういう意味ですか?」
青年の謎めいた発言に思わず問えば、青年は「それは後程」と答えて、視線を桜並木を抜けた先へとやった。
「あれです。私の家は」
「あれ……ええっあれですか? すごいお屋敷ですね……」
桜の世界から現れた建物は、瀟洒な西洋館だった。雪のように真白い外壁と建物を囲う鉄柵には茨と純白の薔薇の花が絡まっている。桜に薔薇と、季節感がまるで違う組み合わせに文也は矢張りここは現実世界とは違う世界なのだと感じる。青年は立派な門を押し開くと、白く光沢のある石が敷き詰められたアプローチを辿って玄関へと向かった。文也もその後ろを歩きながら、前庭を眺める。前庭も綺麗に整えられており、沢山の白い花が咲き乱れていた。牡丹、百合、池には睡蓮と、見事に全て白い。
花の甘い匂いが漂う屋敷は薄く靄がかかっており、まるで幻影のようだった。青年が玄関の扉を開いて、どうぞ、と文也を通す。文也が一歩足を踏み入れると、天井の高い円形のエントランスホールに出た。見上げれば丸い天窓から赤い空が見える。だが差し込んでくる光はなぜか白い。雪明かりのようだった。屋敷の中は薄明でぼんやりと明るかった。壁面は外壁と同じく白い。
「ついてきてください」
青年がそう言うとエントランスホールから右手に伸びる廊下へと進んだ。敷かれている絨毯は空の色と同じように赤い。赤と白の対比は、まるで雪の中に落ちた血のようだった。屋敷の中は静謐が降り注ぎ、静かで、そして春の夜のように肌寒かった。ひんやりとした空気を肺に取り入れ呼吸しながら、文也は不思議と今自分が緊張も恐怖もしていないことに気付いた。あの不気味な電車に乗っていた時とはまるで違う、奇妙な安らぎが心に満ちていた。本能が、ここは安全な場所だ、と報せているのかもしれない。いずれによ、華奢な青年の後ろ姿が今は酷く頼もしかった。
「ここです。どうぞ、かけて下さい」
青年はそう言って屋敷の一室、おそらく応接間にあたる部屋に入ると優雅な所作でロココ様式のゆったりとした猫脚椅子に腰掛けた。テーブルを挟んで文也も金刺繍がされた同じデザインの椅子に腰掛ける。座り心地が随分と良い。きっと高い椅子なのだろうな、なんて考えていると、扉がノックされた。自分と青年以外誰もいないと思い込んでいたので、内心吃驚していると、扉が開き十歳前後の少女が入ってきた。文也はその少女を見て、また吃驚させられた。愛らしい顔立ちをした少女は純白の髪を顎下で切り揃え、その瞳はルビーのように赤かった。アルビノ、というやつだろうか。思わず見入ってしまっていると、にこりと少女が笑った。その笑顔を見て、外見が特徴的なだけで、普通の少女なのかもしれないと文也は思った。ただし、異界にいるけれども。
少女はトレイに載ったティーカップをテーブルに置く。色と香りからして、中に入っているのは紅茶のようだ。
「五十鈴(いすず)。ありがとう」
青年は少女にそう言うと、少女は嬉しそうに顔を綻ばせて頭を下げた。そして何も言わないまま、部屋を退室する。青年はカップを持ち上げて口をつける。ただ「飲む」という行為も、どこか品がある。カップをソーサーに置いた青年が文也を見る。
「紅茶、お嫌いでなければどうぞ。安心して下さい。毒も入っていなければ、口にしたら此処から出られなくなるというものでもないので」
その言葉に思わず文也は笑ってしまう。
「出られなくなるって、ハデスとペルセポネーの話ですか」
ギリシャ神話にある冥府の神とその妃の物語を思い起こす。青年が目を瞬かせる。
「よくご存知で」
「父が本好きで」
冥府の神ハデスがペルセポネーという娘に恋をし、冥界に連れ去ってしまう。ペルセポネーの母である農耕の女神はそれに激怒し娘を取り戻すよう抗議する。結果、ペルセポネーは地上に戻ることになるが、その際にザクロの実を数粒口にしてしまう。冥府で何か食べ物を口にすれば、冥府に身を置かねばならない決まりがあった為、ペルセポネーは一年の内、数ヶ月間は冥府で暮らさなければならなくなった話だ。
文也の父は読書家であり、会社員として働きながらも、文也が産まれる以前は作家を志していた。だが文也が産まれてからは、その夢を文也に託した。
「神話だけじゃなく、色々な話を読みました。とは言っても、詳しい訳じゃありません。人より少し本を読むかな、というくらいです」
そう言って文也は紅茶を口にする。香しい茶葉の匂いと温かさが、喉を優しく潤していく。
青年は「それは良いことだ」と言うとすらりとした長い脚を組んだ。
「君はやっぱり、此処に来るべくして来る人間だったのかもしれません」
「? どういうことでしょう?」
そういえば呑気に紅茶を飲んでいるが、そもそも文也は目の前の青年のことを何も知らない。危機感が薄い、と青年に言われたが確かにそうかもしれない。
「君は、こちら側に属する者に近い体質だ」
「こちら側……というと」
「平たく言えば、幽霊や怪物、妖怪、悪魔、神話的存在といった人間の想像力と創造力で産まれたものに近しいのです。触れやすい、と言った方が良いでしょうか」
「俺、別に霊感とか、そういうのはないと思うんですが」
文也が「見る」ものは、あくまで父親の死を目の当たりにしたことによるPTSDが引き起こした幻覚に過ぎない。霊感というのは産まれ持ったものだろうと思っていると、青年がその考えを否定するように告げる。
「心当たりがある筈です。人には見えない奇妙なものが見えてしまうことが」
「でもあれは……専門医の人が言っていました。精神的なショックによって、幻覚が見えてしまうだけだって」
「精神的なショック」
青年は意味深げに繰り返した。
「何があったんですか?」
問われて、文也は躊躇した。初対面の人間に話して、決して気持ちが良い話題ではない。けれど青年の深い湖のような瞳は、じっと文也を逃すまいと見ていた。
沈黙が二人の間に流れた。文也は惑った後、出来る限り重苦しくないよう答えた。
「父が亡くなったんです。高二の夏でした。それ以来、俺は時々変な幻覚が見えるようになったんです」
「……なるほど」
青年は口元に手をやって指先で唇をなぞると、納得したように言った。
「君はお父様の死をおそらく、間近で見たんですね。死は妖事(およずれごと)と本質が近しい。君はその死を前にして、こちら側の波長を心が知ってしまった。ですから、あなたは今ここにいるのです」
およずれごと?
文也は青年の口にした聞き慣れぬ単語に眉根を寄せる。およずれ。そういえばこの館がある駅も「およずれ駅」と書いてあった。
「その……およずれごとって、一体何ですか?」
「妖事というのは妖怪の妖に、事柄の事を組み合わせた言葉です。先程言ったこちら側のもの……幽霊や妖怪、魔物、悪魔や神話の生物など、人間の想像力と創造力で産まれたものたちです。私達が乗ってきた異界列車も、この異界駅も妖事のひとつです」
「怪奇現象とか都市伝説とかは分かるんですが、神話も入るんですか?」
「ええ。人間には皆、産まれながらに物事を創り出す想像力と、それを実際に現に描き出す創造力とがあるのです。ですから、よくある怪談話や心霊スポットなども、すべて妖事ということになります。本質的には【存在しないもの】に近いのですが、妖事は特定の人間の認知の力によって、時に現世に顕現します。その顕現したものが、【妖(あやかし)】と呼ばれています」
「じゃあ……今回俺がここにいるのは、俺が妖事を認知して、異界駅という妖にしたからここにいる……ということですか?」
半信半疑で問えば、青年は「いえ」と首を振る。
「君は異界列車と波長が合って、妖事の領分に呼び込まれてしまっただけです。結果として君は今、この異界に身を置いている。妖事が息づくこの世界に」
「あの……妖事と妖の違いがよく分からないんですが」
「簡単です。妖事はただの知識のようなもの。害を為すことはありません。けれど特定の人間によって認識され、創造された妖事は、現のものに干渉できる【妖】になります。そしてその妖を創造した人間のことを、妖者(およずれもの)と呼びます」
「うーん、難しい話ですね。結局俺は、妖者なんでしょうか?」
「いえ、君は妖者ではありません」
青年は文也の問いを否定した。
「貴方は災禍者(さいかしゃ)です」
「災禍者……?」
「ええ。妖者はまずその妖事を知識として知っています。そして、その妖事に取り憑かれ、現世に呼び込み、妖として顕現させ他に災いをもたらすのです。ですが君の場合は呼び込んだのではなく、こちらから呼ばれ異界に引き込まれた災禍者と呼ばれるものです。異界とは、つまり妖事たちの領分です。異界と現世は薄膜越しに隣り合っていますが、そう普通の人間は呼び込まれません。けれど君は引き込まれやすい体質というべきか、波長を持っているのです」
そこまで聞いて文也はふむと顎に手をやる。つまりこの異界にいるのは妖事というものたちが棲まう世界で、その妖事が現実世界に顔を出す時、妖となるのだろう。だがそこでふと、文也は思う。
「俺の普段見ているものは幻覚じゃないんですか?」
文也は時折「おかしなもの」を見る。それは幽霊のようなものでもあったり、異形の化け物のようなものであったり、色々だ。だが、全て幻覚だと診断が下されたし、文也自身もそうなのだろうと思ってきた。
「君が見ているものは在って無いもの。幻覚ではありません。君の眼は現世に現れた妖を捉えています。そしてこのように、妖事が跋扈する異界に引き込まれている」
「そうですか……」
幻覚ではない。そう言われて、信じられないというより奇妙なほどに納得する自分がいた。高校二年生の夏から始まったその幻覚に今までずっと悩まされてきた。見ないふりをすればいいという苦し紛れの答えを出すのにも随分時間がかかった。けれどあれは確かに在るものなのだと今知り、文也の中で長年引っかかっていたものがホロリと落ちるような感覚があった。
「君は、何度も言うようですか本当におかしな人ですね」
「へ?」
素っ頓狂な声を上げれば、青年は唇に微笑をたたえて言った。
「いきなりこんな世界に呼び込まれ、このような事を告げられたというのに、まるで疑っている様子がない。それどころか馬鹿正直に受け入れているように見えます。私のことを信用しすぎでは?」
青年の瞳が妖しく輝く。心なしか、その瞳が一瞬、黄金色に輝いた気がした。
だが文也の中で、目の前の青年が恐ろしいという気持ちは沸き上がってこなかった。
「信用……しているのかもしれません」
「なぜ?」
「あなたが、俺の為に色々ちゃんと話してくれたからかもしれません」
「あなたを地獄に落とす為の嘘かもしれませんよ? こうしてあなたを他の駅で降ろさず、ここまで連れてきたのも全て罠かもしれません」
その言葉に、思わず文也は破顔する。青年は「なぜ笑って?」と目を瞬かせる。
「いえ、たとえあなたが俺を地獄に落とす為のことだったとしても、俺はそれでいいと思ったんです」
「良くは、ないでしょう」
驚いたように言う青年に、文也は首を振って苦笑を滲ませる。
「誰も信じずに地獄に堕ちるより、誰かを信じて地獄に堕ちた方がいい。そのほうが寂しくないでしょう?」
疑心暗鬼の中、独りぼっちで堕ちるなら、最後に誰かを信じてみたい。そこで裏切られたとしても、誰かを信じることができた自分というのは誇るべきものだから。
「……君は、とんだ馬鹿者かもしれませんね」
沈黙の後、青年が溜め息交じりにそう告げる。だがそこに嘲りの色はない。ただただ呆れた、といったように青年は言う。
「君、よく今まで無事でいられましたね」
「運が良いのかもしれませんね」
「まあ……それは、そうかもしれませんが」
青年は思わせぶりにそう言うと、足を組み直した。
「私と出会い、ここに来たことは、決して運が良いとはいえませんよ」
「それはどういう意味ですか?」
純粋に問う。全く危機感が芽生えてこない文也に対し、青年はやれやれというように溜め息を吐き出して言った。
「君が異界列車に乗って私と出会い、こうして今話しているということは、決して私の親切心ではないということですよ」
「へぇ……えっ、そうなんですか?」
少し驚いて文也が言えば、青年は頷く。
「出会ったのは偶然でしたが、君にいちいちこうして説明しているのには訳があるんですよ。その訳は、君にとって決して良いものじゃありません」
「というと?」
「率直に言います。君には適性があります。よって、私の助手になって頂きたい」
「助手」
思わず文也はその単語を繰り返し、眉根を寄せる。
「えーっと……助手って、何のですか?」
紅茶を一口、口にした青年は茶器を置いて告げる。
「現世で問題を起こしている妖の始末と、妖者の特定です。まぁ、平たく言えば悪さをしている妖怪や幽霊などを何とか解決する、という話ですね」
事も無げにそう告げた青年に、文也は一拍置いたあと、口を開く。
「言っていることは理解できました。でも、俺なんかに助手が務まりますかね? ただ俺は、変なものを見ることしかできませんよ?」
「十分です。問題は継続して続けて頂けるかです」
そう言うと青年は少しうんざりしたように言い放った。
「こうして助手の仕事をお任せするのは君が初めてではありません。最短で数時間、もって最長一ヶ月と六日。あなたで何百人目かです」
「な、何百って……」
思わず文也が戸惑いを露わにすれば、青年は憂いを込めて息を吐く。
「百を超えたあたりから数えるのをやめました。お給金ははずむというのに、矢張り人はそれだけでは労働できないようですね」
「給料出るんですか?」
何となくそういう俗っぽい事は関係してこないと思ったのだが、それは見当違いだったようで、青年は「当然でしょう」と言う。
「労働に対する対価として、人間にとっては金銭が一番分かりやすい。物々交換の時代じゃないんです。優秀であれば昇給も考えますし、残業手当も出しましょう。休日については……こればっかりは仕事の性質上、確約した休みを保証できませんが、依頼が入らない間はほぼ休みといって良いでしょう」
「な、なるほど……」
ここまで聞いた限りだと文也が新卒で入社した会社よりも待遇が良さそうに思えた。なにせ新卒で勤めた会社は残業手当がない割に、月の残業時間は圧倒的労基違反で百時間を超えていたし、休日出勤も当たり前だった。
「仕事内容はさっき言った通り、現世で悪さをしている妖の始末と妖者の特定です。化け物退治と探偵業を綯い交ぜにしたものだと思って下さい。危険は勿論ありますが、そうですね……君、年齢は?」
「二十四ですけど、年齢制限とかあるんですか?」
「違います。二十四歳なら……そうですね、月手取り六十万ほどでどうでしょう?」
「六十万!?」
「おや、足りないですか? 難しいですね……現代の人間はいくらくらいあれば生きていけるんでしょうか」
困ったように首を傾げる青年に、慌てて文也は言う。
「違います、逆です逆! 六十万なんて、そんな大金」
東京で働く二十代の中で月に六十万も貰う人間なんて、そうそういないだろう。少なくとも都内で働いていたのに、新卒で入った会社は手取りで十六万も貰えなかった。その上、残業代がないのだからブラックにもほどがある。
青年はきょとんとした顔をして「そうなんですか」と言うと、少しの思案を挟んだあと、口を開いた。
「それじゃあ月六十万でお願いできますか? その代わり、危険はありますが。怖い思いも沢山すると思いますし、毎回後味が良い仕事になるとは限りません」
悪い点もきちんと挙げた上で青年は文也の答えを待つ。だが文也は特に迷わなかった。
「俺でよければぜひお願いします。役に立てるよう精一杯頑張ります」
文也の即断が、意外だったのだろう。青年が目を瞬かせる。
「……本当にそんな即答などして良いのですか? 先程も言いましたが、危険がある仕事です。君と同じように良いお給金の額を提示しても、皆逃げ出したくなる位」
「はい。大丈夫です」
「……本当に?」
じっと文也の心を見るように、見詰めてくる青年に文也は苦笑を零す。
「確かにお給料が高い分、怖い思いとか危ない目に遭うかもしれません。でも、一緒に働く相手としてあなたとなら、安心できると思ったんです」
「安心? 出会ったばかりの私になぜ?」
まるで理解できないというような青年に対し、文也は迷い無く答える。
「だってあなたは俺を助けてくれたじゃないですか」
理由はそれだけで十分だ。文也にとって青年は、命の恩人といっても過言ではない。もしも青年が文也に、あの列車で誤った駅に降りようとするのを止めてくれていなかったら、今頃どうなっていたか分かったもんじゃない。
青年は目をいっぱいに見開いて文也を見ていた。だが、その目をすっと鋭利な刃のように細めると、そっと口と開いた。
「……私が人間ではない、と言ってもですか?」
人間ではない。そう言った青年の瞳が夜色から、満月のような黄金へと変化していく。その輝きは、確かに明らかに人間のものではなかった。青年の美貌を益々、人ならざるものにさせていく。まるで神話に出てくるような、そんな存在に映った。
「隠していてすみません。この通り、私は人間ではありません。そんな存在と一緒に命を脅かすような危険な仕事ができると、本気で思っているんですか?」
青年の厳しい視線に、文也の身体に緊張が走る。それは恐れというよりも畏れに近かった。だが、矢張り文也には青年のことが恐ろしいとは思えなかった。
「人間だとか、人間じゃないとか、そういうのは関係ないですよ。あなたは、俺に親切にしてくれた。本当のことを言ってくれた。それだけで十分です」
目の前の青年は、確かに人間ではないのだろう。感覚として、文也はそれを感じ取っていた。だが、人間でなくとも、青年が文也を助けてくれたのは事実だ。その恩に報いたいし、浅ましい話だが無職の今、仕事の話をしてくれるのは助かる。文也がこの青年の元で仕事をして、青年を少しでも助けることなら幸いだ。
「君は……本当に……」
青年は長い睫毛を伏せ、長い溜め息を漏らす。
「馬鹿なんでしょうか。そんなに簡単に誰かを信じたりして……」
「俺だって信じる相手は俺なりに選んでますよ。その上で、あなたは信じられると思ったんです」
「……いいでしょう」
青年は黄金色の双眸を文也に向けて告げる。
「ならば今日から、君を私の助手として雇います。覚悟は良いですか?」
問いに対し、文也は青年の瞳から視線を逸らさず、強く頷いた。
「よろしくお願いします。俺は、十野文也(とおの・ふみや)って言います」
文也は手をすっと差し出す。その手を見た青年はくすりと笑った。
「文也君ですか。私は九十九稀雨(つくも・けう)。稀な雨と書いて、稀雨と読みます。私のことはお気軽に、稀雨と呼んで下さい」
そう言って青年、稀雨の白い手が文也の手を取って握手を交わす。その手には、人間ではないと言いながらも、微かに温もりがあった。
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