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鈴ノ木 鈴ノ子

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 着飾るということを初めて知ったのは小学校6年生のことだった。

 大型店で母親と衣服を選びながら、ある時にすれ違いが起こった。それは些細なすれ違いだったが、そこから私は着飾るということに目覚めたと思う。「真由美は独特のファッションセンスだよね」と中学から大学まで言われ続けたが、差別、と言う訳ではなかった。遊び行けばちょっとした視線と奇異の目を向けられることはあったけれど、それは些細な事であった。

 だが、社会人となると話は別だ。

 定着化したドレスコードのようなものが社会には確かにある。フランスパリで発表されるような作品を街中で着飾っても、失礼ながら賞賛の視線よりは奇異の視線の方が勝る。

 それに対して私は追従する道を選ぶことなどはできなかった。だからといってありのままを続けると言ったことを許容することなどもできない。

 感性は失わず、されど、許容も失わず。

 私の中の私を失うことなく、でも、周りの考えも取り込む、これができてこそ、着飾る大人とでもいうのではないだろうか。

 仕事帰りや営業周りの際には常に電車を利用することを心掛けて、街を歩いては移動する、そうして市井を歩く人々を目にしながら、彼らの服装を細かく見てゆく、襟や袖、そしてスタイルなどなど…。もちろんファッション誌も読んだけれど、街中が一番良い教科書だ。様々な着飾りを見つめながら、それを私らしいものとしてゆく様はとても楽しくて嬉しかった。

 そのスタイルが確立した頃には、堂々と街にも溶け込めるようにもなった。大げさだけれどそれが私だと小さな誇りとして着飾りながら、いつも通りに電車で通勤して駅を降りて歩いてゆく、商店街の一角、そこに小さなカフェ、そこが今の私の居場所だ。

 猫の額ほどの小さなカフェ。

 お気に入りの珈琲とケーキと作家さん達の小さなアクセサリーを並べて販売もしている。もちろん、それらは街で見かけた作家さんのものばかりで手作りだ。陳列も作家さん任せで、店の一画にそれらしい棚を置いているけれど、掛け時計であったり、ステンドグラスといった大きなものは窓際に置かれて、店の一部と化しながらも、値札をぶら下げている。お店の雰囲気に合うように気を使ってくれる作家さん達は、ついでにと珈琲とケーキを食べて何気ないお喋りをして帰ってゆく。年齢も様々で、作風も様々、作品を身に着けた人々が街を歩いているのを見かけたりすると自分の事のように嬉しくなる。

「チャオ」

「よく来るわね、まったく、今日はなにを持ってきてくれたの」

 今日もまた馴染みの作家さんが来た。外国人の彼は足繁く通っては私に愛の囁きを零してもう2年になる、そろそろ、その囁きに耳を傾けても良いかもしれない。

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se parer 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki

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