今日も明日も

みたか

今日も明日も

 ごうん、ごうん、と鈍い音が私の耳を塞ぐ。意識を掴もうとして息を吸ったら、煙が喉を焼いた。粘膜をひりつかせながら、煙は私に吸収されていく。意味のない換気扇をぼうっと見つめた。

「ねえ、あんた聞いてる?」

 お母さんの声で我に返った。手元に置いたままだったコップを握って、水を一口飲む。

「聞いてるよ、みえ子さんの話でしょ」

「人の悪口が好物なのね、あの人。誰がどこで何をしてたとか、誰が何を言ったとか、悪口がどんどん出てくるのよ。本当に嫌になるわ」

 煙を吐き出しながらお母さんは言った。目の前の空気がどんどん灰色になっていく。私とお母さんの間に、煙の壁があるみたいだ。

「今日もあの人、ゴミ捨て場の近くでじっとしてると思ったら、散歩中のご夫婦をじいっと見てたのよ。最近近くに引っ越してきた村田さん。あんたも知ってるでしょ。あのご夫婦、二人とも四十くらいなんじゃないかしら。でもお子さんがいないって噂だし、気になってたんじゃない。あの人、ご夫婦のあとをこっそりつけてたのよ。二人がご自宅に帰るまでね。耳がこーんなにおっきくなってて、びっくりしちゃった、あたし」

 お母さんの口が動き続ける。お母さんの言葉がずるずると身体に入ってくる。喉を通って、お腹までたどり着く。言葉はそこから動くことはなくて、少しずつ重みを増していく。ゆっくり、黒く、どろりと濁っていく。

 時計を見ると、日付が変わりそうになっていた。明日も学校なのに。

「ごめん、明日学校だからもう寝るね。話の途中なのにごめんね」

「もう、まだ話したいこといっぱいあるのに。あんたしか話せる人いないんだから。まあ仕方ないわね」

「うん、続きはまた明日ね。おやすみなさい」

「おやすみぃ」

 煙が鼻先まで届く。ぐ、と息を止めて微笑むと、お母さんは満足そうにまた煙草を吸った。

 自分の部屋の扉を閉めると、肩の力が一気に抜けた。お母さんは私の部屋には入ってこない。入ってきたことがない。たぶん私に興味がないんだろう。学校のこと、友達のこと、勉強のこと。そういう、親子ならありそうな質問ですら聞かれたことがない。別にそれが不満というわけではないけど、ああ、私に興味がないんだなぁと思う。ただそれだけ。

 机に広げたままのノートを見て、小さくため息をついた。お風呂を出てから、ずっとお母さんの話を聞いていた。明日数学で当てられるのに。そこだけでも予習しておかないと。

 お母さんには友達があまりいない。数少ない友達には、愚痴を言いづらいのだろう。だから仕方ない。私が聞いてあげるしかない。

 あんたしか話せる人がいないんだから。

 お母さんの口癖だ。あんたしかいない。そう言われると、どうしても断れない。

 窓を開けると、澄んだ空気が身体を覆った。きっと排気ガスや埃が混ざっている空気だ。それでもさっきの空気よりは、ずっと澄んでいるように感じる。

 空を見上げても星は見えない。ぼんやりとした月が浮かんでいるだけだ。でも空を見上げながら外の空気を吸うだけで、生き返れそうな気がした。

 息を吸う。吐く。もう一度吸う。身体の中を夜の空気が流れていく。お腹に溜まった黒いものが霧のように薄くなって、私の鼻から、口から、ゆっくりと外に排出されていく。

 深く息を吸う。濁った黒の代わりに、夜空が私の中に生まれる。そうイメージする。

 私はお母さんの愚痴を聞きたくて生きてるわけじゃない。

 お母さんもみえ子さんと同じことしてるの分かってる?

 私の時間を大切にしてほしい。

 私を大切にしてほしい。

 飲み込んだままの気持ちが、私の中の夜空に溶けていく。混ざり合って、分からないくらいに。

 夜空の黒は、どんな黒よりも優しい。私の気持ちを丸ごと受け止めてくれる。私が私でいられる黒。

 きっと明日も、お母さんの愚痴を聞くことから始まるんだろう。でもお母さんが悪いわけじゃない。逃げ出したいわけでもない。

 私がお腹いっぱいご飯を食べて、あたたかい布団で眠れるのは、お母さんのおかげだ。高校に行けているのも、お母さんがお父さんとちゃんと話し合いをしてくれたからだ。

 お母さんは私がいないと生きられない。でも私も、お母さんがいないと生きられない。だから仕方ない。自分の気持ちを吐き出して関係がこじれるくらいなら、私は飲み込む。何度でも飲み込むよ。

 大丈夫。生きている。私はまだ、ちゃんとここにいる。



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