惑う彼女と青褐の境界

あさぎ🐉

第1話

 ただ、何かから逃げている。


 初めはそれだけの夢なんだと思っていた。


 それだけではないと気づいたのは、ここ最近のことで、


 自分は誰かに手を引かれていて、


 その誰かというのは、少年で、


 やけに印象的だったのが、その少年の瞳の色が右と左で違っていたことだった。






「それで!? それから一体どうなったんですか? ミツ様」


 マリーは、桶に水を注いでから、興味深げに聞いてきた。

 柔らかくカールした金色の髪は細く、赤い大きな瞳をパチパチと瞬いている。年齢を聞いてはいないが、きっとミツよりも年下だろう。

 一見無邪気そうに見えるマリーだが、これで仕事となればその役割をきっちりとこなすのだから大したものだ。そして、そんなふうにくるくると表情が変わるマリーを、まるで妹のようで可愛いと思いながらミツは答えた。


「うーん。残念ながら、そこから先は覚えてないんだよね……」


「そんな〜!」


 いいところで話が終わってしまった。そんな不満が、マリーのハの字によせられた眉毛や、残念そうな口調から伝わる。


「他に、少しでも覚えていらっしゃる事はないんですか?」


 その話がよほど気にかかったのか、それともミツのことを心配してなのか、続けて聞いてきたマリーに、ミツは「全く」と首を横に振った。マリーは見るからに落胆してから、気を取り直すようにそれまで手を止めていた作業に戻った。


 ミツには記憶がない。日常的な生活は行えるものの、思い出と呼べるような過去がなかった。

 目覚めた時にはこの部屋で、それ以前の記憶がないと思っていたのだが、ここ最近、思い出してきているのではないかと感じるような夢を見るようになったのだ。


「仕方ないよ、覚えてないんだもん。それに夢の話だよ?」


 言いながら、マリーが洗顔用にと水を注いでくれた桶に両手を突っ込んだ。冷たい水で顔を洗うと、寝起き特有のぼんやりとした頭が少しだけスッキリする。マリーが差し出してくれたタオルで顔を抑えるように拭ってから両足を床に伸ばした。

 毛足の長い豪奢な絨毯に足を置くと、柔らかな感触が足裏に伝わる。


「夢でもです。ミツ様の過去に繋がる記憶なのかもしれないんですよ? 気になるじゃないですか」


 ミツは、「そうかなー?」と口にしながら、ゆるやかに光が差し込む窓際に視線をやった。

 バルコニーのそばに置かれた円形の机の前には、一人がけのソファーが二脚向かい合って並んでいた。当初、部屋の中央にあったものを、ここの屋敷の主人が「そのほうがいいだろう」と、手ずから配置を変えてくれたのだ。その机の上にも、部屋の隅にある棚の上にも、そしてベッドサイドの小さなテーブルの上にも、そこかしこに白くて小さな花が花瓶に生けてある。


 その白い小さな花は、ミツが目覚めてから好きになったものの一つだった。

 魔法の一種なのか、それとも元来そういう花なのかはミツには分からなかったが、部屋が薄暗くなると、この小さな白い花一つ一つが光を発して周囲を明るく照らし出すのだ。


「さあ、アスティエル様もお待ちですよ。お支度をお手伝いいたしますね」


 ドレスを差し出してきたマリーの手を借りて、上品な淡いクリーム色のドレスを身に纏う。縁を金色の糸で刺繍されたシンプルなドレスは、普段着の中でもミツのお気に入りのドレスだ。皮でできたブーツを履き終わったタイミングで、マリーは片手に櫛をもって、鏡台の前に座るようにミツを促した。


「いいよ、自分でできるから」

「ですから、何度もお伝えしていますが、そういうわけにはまいりません。そうされますと私どもの仕事がなくなってしまいますので」

「でも、このくらいは自分で──」

「ミツ様。私の役目はあなた様の身の回りのお世話です。ミツ様は、私から仕事を取り上げるおつもりですか?」

「そ、そんなつもりじゃ……」


 マリーはミツの戸惑う様子を見て、鏡越しににっこりと微笑んだ。


「でしたら、素直にお支度のお手伝いをさせてくださいませ」


 ミツからすれば、他人に着替えを手伝ってもらう事も、こうして髪の毛をすていもらうことにもなんだか違和感を感じるのだ。

 ドレスは、背中で複雑に交際した紐がこんがらがるので、一人では着られないと早々に諦めた。しかし、髪の毛をとかすことくらいは自分でできる。そう思って毎回主張してみるのだが、まあ、こうして今日も見事に断念するという結果になっている。


(きっと、こうゆうことが日常じゃなかったんだろうな……)


 そんな事を思いはするものの、だからと言って自身の過去を思い出せるわけではなかった。


「やはり、見事な黒い御髪おぐしですね……黒色の瞳も、とてもお綺麗です」

「そうかな……。私は、マリーの髪色の方が素敵だと思うけど」

「滅相もございません。黒色は私どもにとって、とても特別な色です。それに……」


 マリーの少しだけ体温の低い指が、ミツの首筋に軽く触れた。


「うわ!? なに?」


 ヒヤリとして、急なことに驚き振り返った。そんなミツを見て、「申し訳ございません」と口にしながら、マリーはまたクスリと可笑しそうに笑う。


「このペンダントも、とても素敵ですけど、たまにはアスティエル様がくださったものに変えられてはいかがですか?」


「うーん」


 確かに、それでもいいのかもしれない。しかし、


「やめとくね」


 そう返事をして、ミツは自分の首に下がっている銀のチェーンの先に一粒だけついた小さな石を手に取った。両端が尖っていて透明なその石は光を反射してキラキラと輝く。

 確かに、ここの主人が用意してくれた宝石たちに比べれば地味なものではあったが、最初から自身が身につけていたものだからか、その石を見るたびに不思議と安堵していた。だからこそこのペンダントをミツ自身は進んで外そうとは思わなかった。


「ですけど、本当にその少年のことも、思い出せればいいですね」


 その言葉に、ペンダントに落としていた視線を上げる。鏡越しにマリーを見返すと、赤色の瞳と視線が合った。鏡の中の彼女は、またニコリと微笑む。


「うん……」


 ミツ自身は少年とのことを思い出す必要性を全く感じてはいなかった。それが夢でも現実でも、最終的にミツを助けてくれたのは、ここの屋敷の主人、アスティエルであることに他ならない。


 ミツがそんなことを考えているうちに、マリーは手際良くミツの黒髪をまとめあげた。


「お綺麗です。きっとアスティエル様もお喜びになられますよ」


 しっかりと朝の支度が整ったミツの両肩にそっと手を置いて、マリーは満足げに頷いた。

 なぜそこでアスティエルが喜ぶことになるのかはミツにはよくはわからなかったが、それでも褒められて悪い気のする人間などいない。それはミツも例外ではなく、しかし、綺麗だと褒められることにも慣れず、ミツは心がむず痒く感じて、マリーの視線から逃げるように下を向いた。

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