第4話 


 「あのさあ」


 うんざりするほど長い間のぬけた沈黙のあと、女は不意にぎょっとするような大声を出した。


「もし来たらぁ、借りてたの返すからすぐ来てくれって言ってたって言ってくれない?」


 辛うじて意味が通じる言葉ではあった。しかし普通このようなものの頼み方はない。

 息もできないほどせまくるしい世界でそだった女なのだろう。怒鳴られ、殴られ、たがいに意志を伝えあうのに指示語と間投詞と、それから声の大きさと最後には腕力だけがものを言う関係の中で長いあいだ暮らしてきた女。僕の会社にさえそう言うのは何人かいる。

 テレビの前に置かれたクッションを中心に、空のパッケージと汚れ放題の生活必需品が同心円状に散乱している部屋が目にうかんだ。

 その点はあまり人の事は言えないけれど。


 「いおりっちに、黙って、持って来ちゃったのね」

 「イオリッチ?」


 男の子だろうか。女の子だろうか?

 一瞬アルゼンチンあたりの男とのあいだに子供がいるのかと思った。でもこの女の口から出るのなら伊織っちだ。どうせ昼にやってる時代劇か、歴女相手のレディースコミックでもみて適当につけた名前だろう。そんなものを面白がるようなタイプにも見えないが。


 「この先にお住まいですか?」

 「うん――今は、住んでないけど」


 口元をだらしなく開閉させ女はこたえた。うねるように動く唇のうえに、はっきりと分かるほど鼻毛がはみ出ている。

 とうに僕は会話をうち切る態勢に入っていた。

 この手の通行人は相手にしているときりがない。あともう一言二言、言葉を交わしたらモデル時代の阿部寛もかくや、と言う微笑で沈黙のバリヤーを張ろう。

 ちなみに歩行者相手に何年誘導をやってもこれが出来ないガードマンの見本が、産業道路側の道のはずれで立ったままうとうとしてる各務かがみのおっさんだ。


 「あ、あたしここにいる。あたしがうろうろ探すより、ここにいた方、向こうが見つけやすいし」


 女の言葉には妙な訛りがあった。

 断言していいが女は最低でも二日、着替えをせず、シャワーさえ浴びてない。

 汗をかきやすい部位に防臭剤を吹きつける以外、化粧や髪の手入れその他、身だしなみに関するありとあらゆる習慣はとうの昔に忘れ去っている。

 たしかに最低限のエネルギーで生きていこうとするならば、それらはまず最初に忘れるべき事がらかもしれない。

 

 「お子さん、お一人ですか? 危ないですね。こんな時間に」


 その時、眼前の大柄な女のあたまの中が見えたように思った。

 頭蓋骨の内側は真空だ。脳味噌がコーティングされ、感情や思考の流れが停止している。

 この女の脳は動いてない。そのあちらこちらにこびりついた記憶の断片が、時折とりとめのない反応をするだけなのだ。

 おそらく何かの中毒か依存症なのは見当がつくし、何をやって食いつないでいるかもあらかた想像がついた。想像したくはなかったが。

 ――と、僕がそれだけのことを妄想し続けるほどの時間がたって、女はそれでもなおそこから立ち去ろうとしなかった。そして、その時になって僕はようやく気づいた。


  「……返さなきゃ」


 いつのまにか女がひっきりなしに何か呟いている。


「……さなきゃ早く返さなきゃ早く返さなきゃ早く返さなきゃ早……」


 夜明けまえの河口は真水と海水が混じりあい、その大きさを最もひろげる。

 はち切れんばかりに膨れあがった真っ黒な水面すれすれに、風ではないほんものの蝙蝠が二匹、もつれ合う影となって旋回していた。

 頭のすぐ上で、また鴎が叫んだ。


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