第2話 

 「ところでヒトシよ。このシケた並木の向こうがどうなってるか知ってるか」

 「いえ。知りませんけど」

 「知りませんけどじゃねえ馬鹿野郎。てめえ立哨するときは立ち位置のまわりに何あるかくれえちゃんと把握しておけ、この!」


 各務かがみは普通に話しても喧嘩腰で、それをはっきりしたもの言いとかんちがいしているものだから土方やトラック運転手、ひいては歩行者や同僚とのあいだにさえトラブルが絶えない。加えて際限のない蘊蓄たれだ。

 しかしこのおっさんの長広舌はだまって聞いている分には夜勤のいい眠気覚ましになる。


「ほれ、そこのところから坂道がくだってるだろうが。あの坂降りた先に似たようなあばら屋が何軒もならんでる。あの汚ねえ住宅のせいでこの辺は普通の奴らがあまり近づかねえのさ」


 各務は誘導棒でまっくらな杉並木の一角をさした。

 痰のような生気のない色をした街灯の光のなかに、「下校注意」の看板がぼうっと浮かんでいる。そこから淋しい並木をぬけ急勾配のみょうにみじかい坂道がはじまる。並木が雑木林にのまれるあたりで坂道は底をうち、そこからはずっとさきにある運河沿いの古い町工場群の裏手まで、淋しい道がまっすぐつづいてゆく。

 廃屋と見まごうトタン屋根の平屋建てについてはとっくに知っていたが、ぼくは何も言わなかった。何のくされ縁かよく仕事がいっしょになるこの偏屈なおっさんには、とにかく好きなだけ喋らせておくに限るのだ。


 「あそこに並んでるつぶれかけのボロ屋はな、もともとどっかの社員住宅だったんだ。バブルがはじけて会社がつぶれ、社宅はそのまま売りに出されたんだが、なんでまたバス通りからこんなにはずれた磯くせえどん詰まりにたてやがったんだんだか。馬鹿じゃねえのか?」

 「ま、その分家賃も安いんでしょ」


 ぼくはあくび混じりに調子を合わせた。


 「だから仕事もろくにしねえヤンキーみてえなのばかりが集まって来やがるんだ。どうせそいつらだろ笹健のユンボに悪戯しやがったのは」


 そう言って各務は短くなった吸い殻をもう一本、工事現場の奧へとほうりこんだ。


 ―― ということは各務は知らされていない。

 うちに夜間警備を要請するにあたって笹健は、今夜行われるはずだった夜間作業をとりやめたのだ。

 簡単にいえば笹健は、悪戯をしかけたなにものかにを抱いている。

 鼻っぱしらの強いのがそろっている土木建設業界でも、いわば武闘派に属する笹本建設が、だ。

 無理もない。

 世間いっぱんではふつう、あれをとはよぶまい――


 「まだ朝まで長いが、どうせ大してうるさいのもいねえだろう。いたとしても大方二十歳前のガキだ。酔っぱらってたら適当に応対しろ。できるだろ? どうしても大変そうなら俺に無線とばせ。休憩は1時間に一回、そのへんで適当にとれ。いいな」


 好きなだけ先輩風を吹かすと、各務は間道の出口のほうへもどって行った。

 闇のなかを遠ざかってゆく蛍光チョッキのランプが、道端にならぶカラーコーンの点滅と奇妙なリズムをつくって瞬いていた。

 もしかしたら今夜の相棒はああいう話のつうじない奴でよかったかもしれない、とぼくは思いはじめていた。

 蛇足だがこの先の鳥沢にある10件ほどのこぢんまりした住宅地は、バブルまっただなかの頃このあたりも系統図に含めたとんでもない路線を売りものに、無謀きわまる新規参入をもくろんだバス会社の社宅だった。

 よくさがすと街の郊外にはいまも、この会社の派手でおかしなかたちをした停留所の跡がいくつかのこっている。


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