三猿  - さんざる -

深 夜

第1話 

 だれでもひとつやふたつ知ってるだろう。安全標語というやつなら。

 “ ほう・れん・そう ” だの “ オアシス運動 ” だの “3A ” だの言うあれのことだ。

 警備員をやっていると、こういうのをいやというほど覚える。

 始業まえの全体朝礼で、あれを復唱させる現場もある。

 苦痛以外のなにものでもない。

 うんざりするばかりだ。

 そのユーモアのセンスに、ではない。

 センスのなさに、でも毛頭ない。

 大声で唱和するたびに作ったやつのまぬけ面が目に浮かんできてしまうのだ。

 ――大まじめでさえあればすべて許される。

 幼稚であるとか、つきあいきれないなどとかにはいっさい斟酌しない。

 こんな子供でも口ごもるような語呂あわせを、皆さんこれをご復唱くださいとばかりに胸をはってドヤ顔で公表できる神経は、少なくともぼくには理解できない。  

 異論のある人はいるだろう。ただ、ぼくはいやだと言うだけだ。

 たとえばこれを全員が大声でとなえたおかげで事故が減った、などという話をぼくは聞いたことがない。

 単なるおまじないに過ぎないのだ、とおもっている。

 しかし。


 ひとつだけ例外がある。

 このぼくにも、警備員をやるにあたって胸に刻んでいる三つのモットーがある。

 口にだしては決して言わない。しかし片時もわすれず念頭においている。

 そのモットーとは。――

 “ 三 猿さんざる ” である。

 

                   ★


 

 高く痩せこけて今にも折れそうな杉並木と、河沿いの低い崖にはさまれて、間道は街灯の光がとどかぬ暗がりへと伸びていた。

 暗がりのずっと先では、水平線が闇に沈んでいるはずだった。

 空気は腐った潮のにおいがした。


 黄色と黒のトラバーで囲まれた小さな道具置き場のまわりでカラーコーンが数本、ひどく淋しげに点滅している。LEDの点滅にあわせて重機や資材のさまざまな影が交錯するさまは、まるで寝静まった動物園のようだ。

 時刻は真夜中をだいぶすぎていた。

 産業道路から交差点一つ奥にはいった湿地帯ぞいの小道で、保安に立ってからそろそろ五時間がたつが、誰も、なにも通らない。時々風がやむと、産業道路の向こうにたつ閉店間際のドンキホーテから、にぎやかな店内放送が微かに聞こえて来る。

 

 「何度言わせんだヒトシ。まったくてめえはいつも下むいてぼそぼそしゃべりやがって」

  

 きらわれ者のロートル各務かがみは、不気味なほど丈高く繁茂した雑草の群落にぺっ、とつばを吐き乱暴にライターを点けた。ぼっ、と灯った炎にてらされ、無精髭に覆われた仏頂面がうっとうしい位間近に浮き上がる。ライターの調子をみたはいいが肝心のタバコが見つからないらしく、体のあちこちを探りはじめた各務にここでタバコを吸うのはまずい、と言おうとして僕は口をつぐんだ。


 「こんな人も通らねえ海っぺたの、しかも夜中の脇道だからいいけどお前よ。そんな気合いのはいらねえ声で昼日中に本通りでダンプやら重機が誘導できるか? 警備の基本ははっきりした合図だって現任研修じゃ毎度言われてるだろうが。もっと腹から声だせ腹から!」


 各務のおっさんは威嚇するように誘導棒を目のまえにかざした。むろん警備用の誘導棒は徹底的に軽量化され、武器になどならない。

 僕はこたえず空を見上げた。

 台風になりそこねた温帯性低気圧がびしゃびしゃした雨を撒き散らしながら日本海へ抜けていったあと、行く先をなくした無数の風が蝙蝠のようにしめった夜空を行き交っている。


 「んでヒトシ。なんか変わったことは?」

 「ないス。そっちはどうスか」

 「ねえ。――それにしても、まったくろくでもねえ場所だな。ここは」


 各務は安全靴の底で、さきほど舗道に落とした吸い殻を思い切り踏みにじった。額の赤いバンダナに滲んだ汗が鈍く光ってる。

 立哨中にタバコを吸いしかも吸い殻をポイ捨てするなど、あきらかに重大な業務規定違反だ。だが各務は僕を舐めきっている。そして僕のほうでもこのいい年をした渡世人きどりとは、できるだけ関わりたくない。

 

 「林の奧からえらくイヤな臭いがしやがる。おまけに1時回ったってえのにこの薄汚ねえ林の向こうじゃ、まだガサガサうろつき回ってるガキどもがいるんだぞ。親はいったい何してやがるんだ」

 「笹健の土方も言ってましたよ。ここいらはさびれてるくせに妙にガラが悪くて困るって」

 「あいつらに言われるんじゃあ、おしめえだな」


 蛍光チョッキの下からやっとなけなしの煙草を取り出し、各務はようやくだまった

 対岸の切り立った崖を、黒い水ががぷがぷ音をたて噛んでいる。河口がちかく、ゆっくり潮が上がってきているせいで、この時間の川はほとんど海だ。

 頭のすぐうえで鴎が一羽、大きな声で鳴いた。

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