第9話「魅惑の全肯定ASMR」

「『天使様級に可愛い後輩にいつの間にか駄目人間にされていた件』……これ大丈夫なのか……?」


 家に帰り風呂やら洗濯物やらをを片付けたりとバタバタしている間に時計の短針が1を示し、辺りはシンと静まっていた。そろそろ寝ようかと考えた時に、音声作品のことを思い出しパソコンを立ち上げてUSBからWAVデータをスマホに移した。他に移すファイルがないかUSBのデータを見ていると「大久保後輩へ」と書かれたPDFがあった


「……『聞くときは周囲に人がいないことを確認し、イヤホンを付けて少し大きめの音量で聞くこと。余計なことは考えずに作品内の声に意識を集中させると尚良し』……なるほど。イヤホンは……接続できてる……すぅ……はぁ……よし、聞くか」


 部屋の隅に追いやっていた布団を敷き、大きく深呼吸をしてようやく覚悟を決めた俺は布団に寝転び目を瞑り再生ボタンを押した


◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「………っ!」


 目を開けるとそこは文化部棟の玄関だった。さっきまで寝ていたような気がするのは気のせいだろうか……?スマホを見ればいつもの特撮ヒーローの壁紙と16:00の数字。少しの間呆けていたようだった。少し遅めの時間に急かされ、リスのように膨れているだろうセンパイにどう話そうか考えながら速足で部室に向かった


『あっセンパイ!お疲れ様です♪』


 ……?部室のドアを開けた俺を出迎えたのは早柚川センパイだった。しかし、早柚川センパイは俺のことをセンパイと呼んでいる。不思議なことにネクタイは1年生の証である黄色、慌てて自分のネクタイを見ると黄色のはずのネクタイは青くなっている……え、どういうことだ?


『あぁお疲れ様』


 俺の困惑を他所に、俺の口は勝手に動き返事を返した。何が何だかわからない


『なんだかすごく疲れた顔してますね?わかりますよ〜だって私はセンパイだけの後輩ちゃんですから!』

『早柚川を俺専属に指名した覚えはないんだがなぁ』

『あっ……また早柚川って呼びましたね?もう、鈴香って呼んでくださいって言ったじゃないですか!』

『すまんすまん怒る早柚川が可愛くてな』

『…………またそうやって……いくら可愛いって言ったって……騙されてあげないんですからね!』


 混乱は加速した。わけわかんない。どうして俺の意志と無関係に俺の体動いてんの?!てかなんでセンパイがコウハイに?!というか何センパイのこと呼び捨てしてんだコイツ?!あとモジモジしてるセンパイ可愛いな


『というかセンパイ、本当に疲れてませんか?』

『ここのところ用事が立て込んでてな……疲れちゃいるが問題はない』

『ダメですよ?しっかり休まなきゃ』

『ひと段落ついたらゆっくり休むさ』

『……わかりました。センパイがその気なら私にも考えがあります!』

『お、おい早柚川?なぜこちらににじり寄って……ムグッ?!』


 早柚川センパイは不意に立ち上がるとジリジリと距離を詰めたと思った次の瞬間、確かな女性らしさを感じる柔らかい感触が眼前を覆った。突然のことに頭がかつてない高速回転を始めるが甘い香りが鼻腔から侵入して脳をドロドロに溶かしていくような錯覚に襲われ、すぐに空回りし始める。少し遅れてトクントクンと響くい音が鼓膜を震わせて蝸牛かぎゅうによって変換された電気信号が溶けた脳を心地よく刺激する。

 心地い甘い香りに包まれながら意識が輪郭を失い始め、脳がグズグズにされ、思考力が急速に失われていく。やがて、胸に抱かれているのだという現状を理解するが理解するのにどれほどの時間を要したのかも分からず、そんな思考さえもいっそ暴力的と形容出来そうなほどの心地良さに溶かされていく……


◇ ◇ ◇ ◇ ◇


『早柚川……何を……』

『少しハグしただけですよ?センパイってば大袈裟ですね〜?目がトロンとしてて可愛いです♪』


 それからどのくらいの時間がたっただろうか。刹那だったような永遠だったような時間が過ぎてようやく意識の輪郭がはっきりし始め、眼前を覆っていた温かな感触が消え頬に残った熱を風が流していき微かな名残惜しさを残して霧散していく。通常であれば目の前の小悪魔のような笑みを浮かべる早柚川センパイに違和感を覚えたかもしれないが、微かな違和感でさえ頬の熱と一緒に風に流され、たったの2語を呟くように出力するのが限界だった


『センパイ……私の前ではもっと……ダメダメになっちゃっていいんですよ?』

『ぁ……』

『よしよし……センパイはいつも頑張ってて偉いですよ〜……みんなの前ではカッコいいセンパイでも私の前では弱くて、可愛いセンパイでいてくださいね』


 聖母のような笑みを浮かべる早柚川センパイが再びコイツを優しく抱き、左耳に口を近づける。吐息の暖かさすら感じる距離で発された声は更に強く脳をビリビリと刺激してゆめうつつの境界線を曖昧にしていく…………。ほとんど零距離で聞こえる早柚川センパイの声がさっきよりも深く浸透していくのがどこか他人事のように感じる


『センパイはいつも私が欲しい言葉を欲しいタイミングでくれますよね。だから私も、今のセンパイが欲しいんじゃないかなって言葉をいっぱい囁いてあげます』


『私、センパイの事ずっと見てるんですよ?登校中に野良猫にすり寄られて満更でもなさそうな表情を浮かべるセンパイ、生活指導の先生のお仕事を手伝ってるセンパイ、昼休みにお友達と仲良さそうにお昼ご飯を食べてるセンパイ、放課後私のいない部室で活動記録を書いてるセンパイ……学校で流れてる噂とは似ても似つかない、優しくて穏やかでちょっぴり見栄っ張りな普通の高校生「大久保庵」を私はちゃんと見てるんですよ』


『だから、センパイは……大久保くんはもっと自分に優しくならなきゃだめだよ』


◇ ◇ ◇ ◇ ◇


『ふふっ……頭なでなでされるの、好きなんですか?』


 重い瞼を開け、未だに夢と現の境界を揺蕩たゆたっている意識をどうにかかき集めていると早柚川センパイの声が頭上から天使の梯子のように降り注いだ。さっきまで頭を包み込んでいた感覚は後頭部を除いてその名残を残すだけとなっていて後頭部には柔らかい感触があり、かなり遅れて膝枕をされていることを知覚した。正直、意識が飛ぶ直前のことを全く覚えていないが、何か俺の知ってる早柚川センパイのようなことを言っていた気がする。どうにも思い出せず考えようとするが先ほどから頭を撫でている早柚川センパイの掌の感触が柔らかすぎてまともに頭が回らない


『後輩に膝枕されながら頭なでなでされるの気持ちいいですね〜いい子……いい子……』

『さ……ゆか……ゎ……セン……パ』

『抵抗するのは「めっ!」ですよ?心地よさに逆らわず、もっともぉっと……ダメダメになってくださいね♪』


 早柚川センパイに駄目にされている影響かどうかは知らないが、コイツの意志で動いていた体が多少、自分の意志で動くようになってきた。と言っても状況に変化があるわけでもないが……


『いい子……いい子……だいぶ目がトロンとしてきましたね。それじゃあお布団に横になりますよ』

『ふと……ん……?』


 いつも部屋の隅に置いてあるはずの布団はいつの間にか敷いてあり椅子に座っていたはずなのに俺の体はいつの間にか布団に横たわっていた。さっきからまるで場面が切り替わったかのような感覚に襲われている。


『今から私が横でセンパイの快眠をサポートしてあげますね。センパイは私の声に合わせてゆっくりと呼吸をするだけで良いですからね』


『吸って──少し止めて──吐いて──』


 さっきまで少しとはいえ自分の意志で動かせていたはずの体は早柚川センパイの声につられて呼吸を始めた

 

『吸って──少し止めて──吐いて──』


 ハグをされた時と同じ自分の輪郭が解けていくような感覚が全身を覆い始める

 

『吸って──少し止めて───────』


 溶けた脳に早柚川センパイの声が浸透していき────そこで俺の意識は霧のように溶けていった

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