第8話「早柚川鈴香の羞恥」
「やあ、大久保庵君はいるかな」
「大久保は自分ですが……どちら様ですか」
朝、登校したがやることもなくボーっとしていた大久保のもとに1人の2年生が現れた。その男は青いネクタイをしていなければ2年生とは思えぬほど小さく、中性的な顔立ちも相まって”高校生のお兄ちゃんの制服を着てみた妹”のような見た目であった。結果、ついたあだ名が親指姫。本人は非常に嫌がっているがそんな事はお構い無しにそう呼ぶ故にその名は一年生にも轟いていた
「ねぇ、あれって2年の親指姫先輩じゃない?」
「ほんとだ!小ちゃくてかわいぃ〜けどなんで大久保?」
クラスメイトの小声が聞こえたのか少し眉を
「僕は流星、小林流星だ。間違っても親指姫先輩なんて呼ばないように……っとそうではないな。君には柊琲色の恋人だと言った方が通じるだろうか」
「あぁ…りゅうちゃんとは先輩のことd「その呼び名を君に許した覚えはない。以後気をつけたまえ」……うす」
「分かったのならいい。本題に入ろうか……件の作品が完成した。今日にも早柚川さんが君のもとに持ってくるだろう」
「そうですか。わざわざありがとうございます」
「実は琲色から伝言を預かっててね、どうやらうちの部長がかなり熱のこもった指導をしたらしくかなり疲れているそうだ。是非労わってやってほしいとのことだ」
「そんなに疲れるんですね?」
「君も今度体験してみると良い。音量や吐息の量に気を使いながら声以外の音が入らないように動くというのは存外疲れるものだ」
「……体験は遠慮しますが琲色先輩の伝言は確かに預かりました。ありがとうございますとお伝えください」
小林は大久保の礼に軽く手を振ることで返事をし、そのまま2年生の教室へ戻っていった。丁寧な人だなぁと考えていた大久保とは裏腹にクラスメイト達は親指姫先輩があの大久保にガン飛ばしたことに驚き固まっていた。これが原因で1年生の多くが親指姫先輩と呼ばなくなったりするのだがそれは大久保や小林の耳に入ることはなかった
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「…………」
「お、来たな大久保」
「こんなところで何してるんですか堕落先生」
「私は
ソファーに寝転ぶ無精髭を生やした男、
「男の先生を虐めて悦ぶ趣味はありません。それにこのクッションを先生の懐から支払うことになったのは先生がゲームに負けたからですよね?」
「冷たいなぁ……」
「それと、校内は全域禁煙のはずですが?」
「まぁまぁ、そんな固いことを言わz」
大久保の方に振り返った多良玖の鼻先数センチを何かが通り抜けていった。数瞬遅れて加えていたタバコが床に転がる。タバコから目の前に視線を戻すと大久保が蹴りを放った姿勢のままこちらを見ていた
「校内は禁煙ですよ多良玖先生」
「……大久保、バトル漫画の世界と間違えてないかい?」
「ご心配なく。自分より強い人間は日本だけでも7人はいますから」
「そういうことじゃねぇよ……ま、元気そうなのは確認できたから良しとするか。早柚川にもよろしく伝えておいてくれ」
「わかりました」
大久保に睨まれながら煙草の火を消して吸い殻入れに入れるとあたかもクマと遭遇した時のようにゆっくりと後退していき、ドアノブを掴むと別れの挨拶も早々に部屋から逃げ出していった多良玖。大久保はしばらくそれを見つめていたが少しして興味を失うと多良玖が持ってきた“人を駄目にするクッション”に目を向けた
「これが人を駄目にするクッション……かなりのサイズなんだな……」
「せんぱ……大久保くん?来てたんだ」
窓の外をボーっと眺めること数分、早柚川が部室に入ってきた。挨拶をしようと大久保が振り返るとそこにはなぜか挙動不審の早柚川が立っていた。朝の小林の話を聞いて疲れた様子だとばかり思っていた大久保は肩透かしを食らったような気分になる
「……おはようございますセンパイ。収録お疲れさまでした」
「大久保くん」
「……はい」
「先に音源渡しとくね?」
なにやら耳まで朱に染め、目線は合わない早柚川を不思議そうに見ていると早柚川は音源が入っているであろうUSBメモリを押し付けるように渡してきた
「……センパイ?」
「大久保くんって確か自分のパソコン持ってるんだよね?」
「はい。持ってますが……」
「じゃあそれは家で聞いて」
「?それだと活動にならないんじゃ「大久保くん」……はい」
いつになく強い圧力を発する早柚川にたじろぐ大久保。有無も言わせぬ圧力で大久保にUSBを押し付けると無言でクッションを開封。そのまま顔面からダイブして早柚川は動かなくなった。USBメモリを懐に仕舞うと大久保は居心地が悪そうに普段座る椅子に腰かけ、チラチラと早柚川を見るがダイブした姿勢のまま早柚川はピクリともしない
「……センパイ、それの具合はどんな感じですか?」
「……やわらかい」
「……そうですか」
会話など続くはずもなかった。なにやら大久保と話すのを避けているような早柚川に気を遣おうとするもそもそもが口下手すぎてうまくフォローが出来ない大久保。その膠着状態のような謎の時間は5分ほど続いた
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……センパイ……俺、なにかセンパイを傷つけるようなことしちゃいましたか……?」
「…………ふぇ?」
とうとう空気に耐えられなくなった大久保はいきなり切り込んだ。自分が無意識の間に何かやってしまったのかもしれないと大久保はそう考えていた。大久保の言葉に早柚川は伏せていた顔をあげ疑問が言葉にならず鳴き声のようなものが口の端から漏れ出る
「大久保くんが?私に嫌なこと?」
「今日、大久保先輩が目を合わせてくれないのって自分が何かやったからですよね……?」
「え……違うよ?」
「……え」
「……うん、ちゃんと説明しなきゃだよね……」
基本的に大久保は思考そのものがマイナス寄りだった。そして学校で事実無根のうわさ話をされ、やってもいないことで非難の目線を向けられる生活を送ってきた大久保は無意識に自分が何かやってしまった前提での思考回路が出来てしまっていた。それ故のこの発言である
阻止大久保の自己肯定感の低さを知っていた早柚川はそこに来て初めて大久保の顔を見て状況を把握した。そして羞恥で逃げたくなるのを必死に抑えて耳まで真っ赤にしながら事の顛末を話し始めた
「……えっとね、その音源なんだけど、40分くらいあるの。この前来た柊琲色ちゃんっていたでしょ?あの子がシナリオを描いてそれを私が読んだやつなの」
「シナリオ……?」
「その音源ね……所謂シチュエーションボイスなの」
「シチュエーションボイス?」
「あらかじめ決めたシチュエーションで撮るボイスドラマみたいなって言えば分かるかな?」
「ボイスドラマ……そうなんですね」
「それで……音源の中でお話が進んで行くボイスドラマと違ってこれは聞いてる人に語り掛けるタイプなの」
「……その場の空気とかを楽しむためのってことですか」
「そう。それでこれが本題なんだけど……その音源ね、……こ、ここ……」
「こ?」
「すぅ~ふぅ~……そのシチュエーションボイスのコンセプトはね……”疲れている主人公に同じ部活の後輩が母性たっぷりに甘やかして寝させる”なの」
「……後輩?」
「だからその……私今まで演劇とかしてなかったから今になってこういう……なりきってとかがすごく恥ずかしくてしかもそれを大久保くんが目の前で聞いてるとかもう恥ずかしすぎて……!だからね、決して大久保くんが悪いわけじゃ……」
そこまで一気に言うと赤い顔を更に真っ赤にしてそれじゃあそういうことだからぁぁぁぁと声をその場に残して早柚川は帰ってしまった。数秒間早柚川が消えた方を呆けた顔で見ていた大久保だったが安心やら羞恥やら申し訳ないやらで感情の収拾がつかなくなり30分ほど部室で呆然としているのだった
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