炙りサーモンマヨが食べたいのに

紫鳥コウ

炙りサーモンマヨが食べたいのに

 勤め先の琥珀紋学院こはくもんがくいん大学のある大砂浜からそう遠くない、東大砂浜に引っ越してきた、中世哲学を教えている藤棚扇ふじだなおうぎは、同じ新任の教員である躑躅柚子つつじゆずことお寿司を食べにきた。柚子も大学からそう遠くないところにきょを構えている。偶然にも、夫の生家が大砂浜市の日本海を臨む高台にあり、バスで出勤をすることが可能だった。一方の扇も、夫の実家が東大砂浜にあるという僥倖ぎょうこうに恵まれた。


 適地に転勤することになった二人は、いまの大学で教鞭きょうべんることに不満をひとつも抱いていなかった。よく参照される評価では「Fラン」に分類される、偏差値も低ければ知名度も少ない大学ではあるけれど、マジメな学生も少なくないし、賑やかなキャンパスの光景を見ていると、落ちこんだ気持ちがすっと消えてしまう。教員としてやりがいがあるだけではなく、居心地もすごく良い。


 同僚の藍染兎花あいぞめうかに教えてもらった、大砂浜市の中で、群を抜いて美味しいお寿司屋さんである『やよゐ寿司』は、子供が好きなメニュー(サラダ、コーン、タマゴなど)ならば、安いといえなくもないが、イカ、ブリ、ハマチ……など定番の魚にいたっては、三百円くらいの値段がする。それらの値段は皿の色によって分けられており、最も高級なのは紅色のもので、二貫で八百円の大トロだ。


 大人の財力で……といきたいところだが、大学教員はそれほど給料がいいわけではない。大トロを二皿、三皿と頼むほどのお金はない。二百円から四百円のネタを中心に、レーンから手に取っていく。流れていないお寿司は、板前さんにお願いして握ってもらう。そして二人には、どうしても食べたいお寿司があった。別に恥ずかしいことではない。だけどこの新しい同僚の前で頼むのは、少し気後れしてしまう。


 炙りサーモンマヨと、炙りタマゴマヨと、炙り一本穴子。炙りとマヨネーズが好きな二人が、まず、メニュー表の「炙り」の欄を確認したのは言うまでもない。そして写真を見て、この三つを頼まずして、帰ることができるものかと即断した。しかしこの年になって、これらのお寿司の名を連呼するのには、どこか抵抗がある。


 ふたりの隣の席に家族連れが座ろうとして、お母さんは、「あなたはそっち、健は真ん中に」と、暗黙の了解のように柚子の横にさっと着席した。カウンター席も埋まりはじめている。扇も柚子も、家族以外とは親しく話ないたちのため、ぽつぽつと交わしていた会話も喧騒のなかに飲み込まれてしまう。黙々と流れてくるお寿司を食べている。イカ、ブリ、ハマチ……と。


 と、そのとき、向こうのレーンから流れてきたのは、炙りサーモンマヨだった。家族連れが増えたということもあり、握られたのかもしれない。真っ先にそれに気付いた柚子は、手前で取られてしまわないかじーっと見入っている。「柚子?」その様子を不思議に思った扇も、炙りサーモンマヨの存在に気付いた。サーモンにマヨネーズをかけて刻み海苔を乗せて、ほどよく炙ったあの二貫に最も近いのは、柚子だ。


 それにしても男連中は、レーンに流れているお寿司よりも、カウンターに座るこのふたりにちらちらと視線を送っている。というのはもちろん、柚子と扇の見た目に理由がある。


 アームカバーを脱いで、きめ細かい美麗な肌をさらしている柚子。紺のニットワンピースは、森の奥の清冽な湖のような、透き通った彼女の雰囲気を引き立てている。長い漆のような黒髪は、冬の滝のように清らかだ。ときに扇情的と言われるコーデをすることもある柚子だが、今日も色っぽさを隠しきれていない。


 一方の扇は、濃淡のあるブラウンの寝ぐせのようなウルフヘア。クールな表情を崩さず、震えることを知らないハスキーな声で、五月に近所である「皐月さつき祭り」のことを話している。黒のトップスはあまり派手な印象を与えないが、ボトムスは丈の長い薄めのレーススカートで、ところどころ素肌をのぞかせている。


 それはともかく、扇は柚子が炙りサーモンマヨの皿を取るとは思っていない。目の前にきたら、そっと手にしようと考えて、残り一貫のハマチを平らげる。子供を回転寿司に連れて行ったときに食べてからというもの、お寿司屋さんに入れば、炙りサーモンマヨを探すようになった。「そういうところもかわいい」と、夫は言ってくれる。しかし今日は同僚の柚子とふたりなのだから、ガツガツするわけにはいかない。


 危なげなく家族連れの前を通過した炙りサーモンマヨに手を伸ばそうとしたとき、すっと柚子に取られてしまった。

「えっ」

「……うん?」

 同僚の新たな一面を知ったふたりは、なにも言い合わせることもなく、炙りサーモンマヨを一貫ずつ分け合うことにした。先にクスッと笑ったのは、柚子だった。



 〈了〉

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