炙りサーモンマヨが食べたいのに
紫鳥コウ
炙りサーモンマヨが食べたいのに
勤め先の
適地に転勤することになった二人は、いまの大学で
同僚の
大人の財力で……といきたいところだが、大学教員はそれほど給料がいいわけではない。大トロを二皿、三皿と頼むほどのお金はない。二百円から四百円のネタを中心に、レーンから手に取っていく。流れていないお寿司は、板前さんにお願いして握ってもらう。そして二人には、どうしても食べたいお寿司があった。別に恥ずかしいことではない。だけどこの新しい同僚の前で頼むのは、少し気後れしてしまう。
炙りサーモンマヨと、炙りタマゴマヨと、炙り一本穴子。炙りとマヨネーズが好きな二人が、まず、メニュー表の「炙り」の欄を確認したのは言うまでもない。そして写真を見て、この三つを頼まずして、帰ることができるものかと即断した。しかしこの年になって、これらのお寿司の名を連呼するのには、どこか抵抗がある。
ふたりの隣の席に家族連れが座ろうとして、お母さんは、「あなたはそっち、健は真ん中に」と、暗黙の了解のように柚子の横にさっと着席した。カウンター席も埋まりはじめている。扇も柚子も、家族以外とは親しく話せない
と、そのとき、向こうのレーンから流れてきたのは、炙りサーモンマヨだった。家族連れが増えたということもあり、握られたのかもしれない。真っ先にそれに気付いた柚子は、手前で取られてしまわないかじーっと見入っている。「柚子?」その様子を不思議に思った扇も、炙りサーモンマヨの存在に気付いた。サーモンにマヨネーズをかけて刻み海苔を乗せて、ほどよく炙ったあの二貫に最も近いのは、柚子だ。
それにしても男連中は、レーンに流れているお寿司よりも、カウンターに座るこのふたりにちらちらと視線を送っている。というのはもちろん、柚子と扇の見た目に理由がある。
アームカバーを脱いで、きめ細かい美麗な肌をさらしている柚子。紺のニットワンピースは、森の奥の清冽な湖のような、透き通った彼女の雰囲気を引き立てている。長い漆のような黒髪は、冬の滝のように清らかだ。ときに扇情的と言われるコーデをすることもある柚子だが、今日も色っぽさを隠しきれていない。
一方の扇は、濃淡のあるブラウンの寝ぐせのようなウルフヘア。クールな表情を崩さず、震えることを知らないハスキーな声で、五月に近所である「
それはともかく、扇は柚子が炙りサーモンマヨの皿を取るとは思っていない。目の前にきたら、そっと手にしようと考えて、残り一貫のハマチを平らげる。子供を回転寿司に連れて行ったときに食べてからというもの、お寿司屋さんに入れば、炙りサーモンマヨを探すようになった。「そういうところもかわいい」と、夫は言ってくれる。しかし今日は同僚の柚子とふたりなのだから、ガツガツするわけにはいかない。
危なげなく家族連れの前を通過した炙りサーモンマヨに手を伸ばそうとしたとき、すっと柚子に取られてしまった。
「えっ」
「……うん?」
同僚の新たな一面を知ったふたりは、なにも言い合わせることもなく、炙りサーモンマヨを一貫ずつ分け合うことにした。先にクスッと笑ったのは、柚子だった。
〈了〉
炙りサーモンマヨが食べたいのに 紫鳥コウ @Smilitary
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