2 そんな常識知りません!


 あれから三日寝込んだ。


 風邪をひいたのはこれがうまれて初めてだった。

 そしてわたしは決めた。風邪ひいたことのある全人類を尊敬しよう。そしてこれから風邪をはじめて引く人たちにエールを送りたい。風邪、しんどいよって。だいぶがんばれって。


「いってきまーす」

 天気は晴れ。七月の朝はもう暑くなる気配を帯びている。

 土日を挟んだせいで余計に、とても久し振りに学校へ行くような気がした。通学路もどこか目新しく映る。

 校舎に入ろうとするときちょっとだけ足がすくんだ。

 小学校に入学してすぐのころ、校舎に入るのが怖かったことを思い出した。巨大で、四角くて、灰色の建物は、全体的にポップでかわいかった幼稚園に比べるとなんだか恐ろしい場所のように見えたのだ。

 その時の気持ちを思い出したわけではない、けど、なんだかいつもの学校が、知らない場所みたいに見えて戸惑う。

 頬を自分でばちんとやって勇気づけた。

 失恋して、風邪で三日寝込んでも、学校はなんにも変わってない。かわったのは校舎でも、ましてや世界でもなく、わたしだ。そう、わたしは失恋をして、風邪もひいて、一皮むけたのだ。そのせいで、妙にいろんなものに繊細になっているのだ。

 そうやって自分を納得させて下駄箱で靴を履き替える。

 おはよー、とあっちこっちで朝の挨拶が交わされている。わたしは昇降口を抜けて二階にあがった。一年生は二階に教室がかたまっている。だから廊下には顔見知りくらいの子たちもいて、挨拶したりちょっと心配されたりしながら教室に入った。


「おはよ、お?」

 声がひっくり返った。

「あ、こがねおはよ」

「風邪治った?」

 クラスメイトたちがさっき廊下ですれ違った子たちと同じような言葉をかけてくれる。

 それにわたしは違和感を抱いた。

 さっき校舎に入るときにもなんだか変な感じがしたけど、あれは雰囲気であって本当に何かが変だったわけじゃない。

 今は変だ。だって、クラスメイトの……ブラジャーが丸出しだったからだ。

「ええ……?」

「どしたん? まだ体調悪いの?」

 朝のホームルームまであと二十分ほどある教室はまだ机が埋まりきってはいない。それでも半分近くはすでに登校しているようでめいめいに予習に励んでいたり、ともだちとしゃべってたり、スマホでゲームしたりして時間を潰している。だけど、みんなセーラー服がたくしあげられていたり前ボタンが外されていたりして、下着が丸みえになっていた。

 男子のほうはといえば、もっとひどい。半袖シャツを前開きにしてるだけならまだしも、そもそも上裸だったりする。

 男子も女子も、大事な部分は隠れている。でも、こんな格好で大通りを歩いたらうっかり通報されても変じゃない。

「みんな服どうしたの!? 暑くてあたま変になった!?」

「急にテンション上がって草」

「服? なんか変?」

「変だよ、いや……変だよ!」

 不思議なことに、クラスメイトはわたしが言ってることを本気でとらえていないみたいだった。むしろ、騒いでるわたしがおかしい、みたいに呆れて顔を見合わせてる始末だ。ひどい。

「むしろこがねこそ熱で頭おかしくなった?」

「四十度くらいまであがると、脳細胞死ぬんだって」

「そ、そうなのかな……?」

 額を押さえる。もしかしたら、クラスメイトが言う通りわたしの脳がおかしいのかもしれない。見えてるものは全部幻覚で、みんなきちんと服を着てるのかもしれない。

 何度か唱えていると、なんかそんな気がしてきた。

 わたしやっと人生ではじめて風邪ひいたから今まで知らなかったけど、風邪ひいたあとはみんなこうなるものなのかも。

「そうかも……」

「え、そんな熱やばかったの?」

「うん、一番高かったとき三十九度八分だから、ぎりぎり四十まではいってないけど」

「脳みそ沸騰してる!」

「してない! ……と思う。生まれてはじめて風邪ひいたから、こんなに熱出るんだってびっくりした」

「生まれてはじめてとか強すぎん?」

 そのまま、みんなの一番やばかった体調不良のはなしに流れていった。

 話の間、わたしはずっと気もそぞろだった。だって、ブラジャー丸出しである。ひとさまのブラジャーをそんなにまじまじと見ることなんてなかなかない。それに、固い生地の制服とちがって下着だとしっかり胸のサイズが分かる。大竹さん、でっか……とまじまじ見てしまいそうになって気合いで我慢する。

 だって、男子ですらぜんぜん女子の下着を見たりしない。そんな中でわたしが女の子のブラジャーをガン見するのはよくない。

 ん? おかしいな、と首を傾げた。

 年頃の弟がいるからわかるが、男子ってこういうの見られるならありがたく見ると思う。それなのに誰一人として下着を見てない。なんならわたしのほうが見てる。いやだって無理だよ我慢できないよ。

 やっぱりわたし、頭が熱でおかしくなったのかも……とぐらぐらしていると、「おはよーっす」「おはよ~」とアイリちゃんと夕夏の声がした。

 二人とも、制服はふつうだ。半袖のセーラー服の前はきちんと閉じられており、下着はつつましく隠されている。なんとなくほっとした。

 それもつかの間だった。二人は自分の席につくなり、がばっと制服をまくりあげたのだ。アイリの大人っぽい下着も、夕夏の大きすぎる下着も、全部丸出しだ。

「ひゃああああ!」

 そうか、下着が丸出しになっているということは、どこかでわざわざ丸出しにするってことだ。みんなそのまま登校したわけではなく、アイリちゃんたちと同じように教室についてから脱いだのだろう。

 納得しつつ、もっと混乱した。え、結局わたしの目が見せてる幻覚ってわけじゃないの、これ?

「うわ、何サイレン? こがね? まだ体調悪いの?」

「こがねちゃんおはよ~」

「ふた、ふたりとも、下着!」

 下着を出してどうしたのか、と聞きたかったのだが、焦って言葉がうまく出てこない。夕夏がこてんと首を傾げてから、

「あら、こがねちゃん。服装が乱れてるよ~」

 と言ってわたしの服を掴んだ。そのままぐいっと持ち上げられる。ブラジャーが丸出しにされた。

「うひょおおお、なにしてるの夕夏!」

「何って、服なおしてあげてるんだよ~、あれ、引っ掛からない」

 ……残念ながら二人と違ってわたしはまだ今後の成長が見込まれるので、裾をひっかけておける場所がない。夕夏はたくしあげるのは諦めて前ボタンを開く方向にしたらしい。今更だが、セーラーの着崩し方がなぜ二通りあるのかの理由が分かってしまった。この世のあらゆる問題はつきつめていくと全部の元凶が格差社会に収束する。

「これでよし、と」

「服くらいちゃんと着られないの?」

「いや、え、さっきまでわたしちゃんと服着てたよね!?」

 せめてもの抵抗として両腕で前を隠しながら言い返す。

 今崩されたほうだよね、おかしいこと言ってないよね、と二人に縋るが、二人は何か困惑したように顔を見合わせた。

「『教室入ったら制服の前を開きおっぱいを見せる』もんじゃん」

「廊下までだったらさっきの恰好でいいけどね~」

 なにそのルール! 知らない!

 でも二人の目が、冗談を言ってるようなものじゃなくて何も言えなくなった。というかクラスメイトを巻き込んだドッキリにしても、規模が大きすぎるし、意味が分からなさすぎるし、みんなの失うものが大きすぎる。

 ──熱を出してる間に、わたしの常識がほんとに欠落してしまったのかもしれない。そう考えると、全部説明がつく。

「ほら、腕で隠したらだめじゃん。もう大人でしょ」

「う、うう……」

 いつもはぶっきらぼうなアイリちゃんが、心なしか優しくわたしの手を取って胸から剥がそうとする。眼差しがいつになく気遣いに満ちている、やさしい、うれしい、でもできれば今日じゃない時がよかった。

「う~ん、病み上がりだし寒い?」

「そ、そう! ごめん、まだちょっと本調子じゃないの! 熱も下がりきってなくって頭も痛くてごほっごほっ」

 夕夏の言葉に全力で乗っかって、咳真似をする。勢いが良すぎて本気でちょっと咽た。そうするとアイリちゃんも「あー、病み上がりに体冷やすのはね……それならいいんかな」と首を傾げた。とりあえず納得してくれたならなんでもいい。わたしは急いでセーラーのボタンをとめなおした。


 遅刻ギリギリに駆け込んできたクラスメイトたちは、暑い暑いと騒ぎながらなんの躊躇いもなく服を脱いだり着崩したりした。みんな恥じらいのはの字もない。

 やっぱり自分のほうがおかしいのだ。不思議なことに何回でもびっくりするし、何度でも絶望できる。しんどすぎる。こんな生活つづけたら体変になる。

 おかしいのは自分、おかしいのは自分と言い聞かせていると、

「ほら~、みんな席につけ~」

 担任の青木先生が教室に入ってきた。青木先生はまだ若くきさくな二十代の先生なので、みんなちょっと先生のことを舐めている。だからなかなか朝のホームルームが始まらない。点呼がてらクラスのお調子者なんかを名指しで注意して、それからいつもホームルームがはじまる。

「北園~、は今日も来てないな。……鳩ケ谷! どうした、制服はきちんと着ろ」

「き、きちんと着ろ……」

 このクラス内で唯一、制服の前を閉めているわたしだけが注意されてしまった。みんなの視線が集まっているのを感じてかああと顔が赤くなる。

 いや、わたしからするとみんなのほうが制服が変なんだけど、たぶん変なのはわたしだ。えっと、つまりなにが変なんだ?

 パニックになっているとアイリちゃんが「シゲちゃん、こがね病み上がりで寒いんだって」と助け船を出してくれた。シゲちゃんというのは青木先生のあだ名だ。

「先生をつけろ先生を。……そういえば先週休んでたな。なら仕方ないか。治ったらきちんとしろ~」

「は、はい……」

「次、坂下」と点呼が無事に続いて安堵の溜め息がもれた。



 たぶん、人生のなかでいちばん長い一日だったんじゃないかと思う。

 っていうか、実際長かったはずだ。やっと家に帰りついたとたん、このあいだとは別の意味で玄関に倒れ込んだ。もう五日も歩き続けたんじゃないかってくらい、くたくただった。


 三百回くらい、これが悪い夢なんじゃないかと思った。

 ブラジャーを丸出しにしたり上裸だったりするクラスメイトがいっぱいの悪夢、なんなら見たことがあった気がする。

 授業にやってきた先生たちはみんな揃いも揃って青木先生と同じ態度で、クラスメイトを見ても何にも言わないくせにわたしの服装には注意をしたり、そうでなくても不良を見るような咎める視線を向けてきた。この一日で身の置き所がないきもち、っていうのを完全に理解した。

 みんな服を脱ぐのは教室の中でだけだった。移動教室や昼休みに購買に行こうというときは、みないそいそと服をただすのだ。その逆で、昼休みのときに別のクラスの子が教室に入ってきたときも律儀……といっていいのか分からないが、服をはだけていた。

 もう昼くらいになると、羞恥心とかは感じなくなっていた。なんの感情もなくお母さんが作ってくれたお弁当を食べた。病み上がりなのにアジフライって平気なのかな、とそっちのほうが気になったくらいだった。

 慣れたからといって、疲労がないわけではなかった。

 クラスメイトたちはそんなに体調が悪いのかと心配してきてものすごく罪悪感があったし、なにより、だんだん感覚が麻痺してきたからこそ今度は自分もブラジャーを出さないといけない気がしてきたのだ。

 でも勇気が持てない。今日は中学校のときに買ったやつで、ありていに言ってダサいのだ。このクラスでいまブラジャーに注目してるやつなんていないって分かっていても、いかにも女児向けみたいないちごプリントフロントホックは見せられない。結局わたしは午後の授業中制服の上から自分の胸を隠していた。そうすれば、制服の前が開いているかどうか見られないと思ったのだ。

 ただそのせいで、授業はこれっぽっちも頭に入らなかった。板書もできてない。

「は~……学校、いきたくない……」

 苦手な持久走の時期だって、こんなに学校が憂鬱だった時期はなかった。

「どうすればいいんだろ……やっぱわたしが慣れるしかないのかな……」

 今日一日の様子を見る限り、おかしいのはわたしだ。結局放課後までドッキリ大成功の看板を見ることはなかったし、クラスメイトたちもふつうだった。

 でもスマホのカメラロールを確認しても、そこに写ったみんなはふつうに服を着ている。もしかして、先週わたしが休んでいる間にルールが変わったのかもしれない。

「うう……」

「……何してんの」

 玄関の扉が前触れもなく開いた。上から冷たい声が降って来たので、首だけを上げる。弟の大地がいやそうに顔を顰めて立っていた。

「おかえり大地」

「また夏風邪? 知ってる、夏風邪って馬鹿がひくんだよ」

「それ、暗にお姉ちゃんのこと馬鹿だって言ってる?」

「……」

 わたしを無視して、雑にスニーカーを脱いだ大地はテニスラケットを傘立ての横に立てると通りすぎようとする。その足を掴んだ。

「うわ! 何すんの離して」

 そうだ、わたしには弟がいる! 友達やクラスメイトには聞けないけど、血のつながった弟になら恥もなにもない。

「大地、ちょっと聞いていい?」

「足離せって」

「教室に入ったらみんな服まくって下着とかおっぱいとか出してたらどう思う?」

「は? 何? 熱で頭おかしくなったの」

 手を振りほどこうとして強めに足を振っていた大地の動きが止まった。今は絶賛反抗期中だが、根はいい子なのだ。口はよろしくないがきちんと姉の心配をしてくれる。

「そうじゃなくて、今日学校言って教室入ってきたら、みんなそうするのがふつうって顔で服がばーって脱いでたの。ふざけてるって感じじゃないし、先生たちもなんなら服ちゃんと着てるわたしのほうがおかしいって目で見てくるの!」

「もっかい病院行けよマジ……」

「助けて大地ー!」

「寝込んでる間に催眠もののエロ漫画でも読み過ぎたんじゃないの。……手うざいマジで! 離せ!」

「ああ~」

 サッカーのシュートでもするみたいに足を振り上げられたら流石にすがりついていられない。泣く泣く大地の足首を解放すると、足音荒く二階にあがっていってしまった。

 やれやれ、反抗期ってやりにくい。

 お母さんには比較的マシだが、お父さんとわたしに相手ではずっとあんな感じだ。昔はかわいかったのに。かなしい。

 ともあれ大地のおかげで、やっぱりわたしのクラスが変ということが分かった。……分かったところで、結局明日も学校に行かなきゃいけないのはおんなじだ。

「はあ~~~~……」

 大地と騒いだせいで、エアコンの利いたリビングのほうからもくたがやってきた。

 ゴールデンレトリーバーのもくたはでっかい図体をしており、暑さにも弱い。わたしのまわりをうろうろして遊んでもらえないと分かると、またリビングのほうに戻っていった。

「うわ~ん、おまえまでどっかいかないでよもくた~」

「ただい……きゃあ! 玄関に娘が落ちてる!」

 這ったままリビングに手を伸ばしていたら買い物から帰ってきたらしいお母さんに玄関入るなり悲鳴をあげさせてしまった。ちょっとはずかしい。のそのそ起き上がる。

「こがねちゃんまだ体調悪い? もう一回病院行く?」

「ううん……体調悪いようなそうじゃないような……」

 今日はとにかくみんなに頭の心配をされた。いっそ頭の病院に行ったほうが、ほんとうにいいのかもしれないなと思った。




 夜、布団に入ってからふと気づいた。

「いろいろショックすぎて……石神先輩のこと全然思い出さなかったな」

 ただの風邪と診断されたのに全然熱が引かずに三日も寝込んだのはたぶん、その間石神先輩のことでずっとうじうじしていたせいだ。

 不思議なもので、失恋って日が経っても全然悲しみって薄くならない。むしろどんどん鮮明になってくるのだ。

 まるで心の柔らかいところをスパイクで踏みしめて歩く悪魔が棲み付いたみたい。今日痛くなかった場所が明日痛み、昨日痛かった場所が今日なんともないなんて感じだった。

 正直、学校に行くときもまだちょっと悲しかったし怖かった。今でさえこんななのに、石神先輩を直接見たらまた泣き崩れちゃう気がした。それがちょっと、だいぶ怖かった。わたしがわたしじゃなくなるみたいで。鳩ケ谷こがねが、わたしじゃなくなるみたいに。

 でも、今日はほんとにもうそれどころじゃなかった。

「……悪いことばっかりでもないのかも」

 すごく疲れたし恥ずかしかったけど、心がバラバラになったまま戻らない、みたいなあの状態よりは周りに振り回されておろおろしてるほうが精神的には健康。

 ……なのかもしれない。不幸中の幸い。せめてそう思いたい。


 恋ってやっぱり、体に悪い。

 少なくとも世界がおっぱい丸出しになるほうが、わたしにとってはマシみたいだ。





 今日のブラジャーはお気に入りのレモンイエロー。

 レースの飾りも大人っぽくて気に入っている。これをお母さんに買ってもらうのは少し勇気がいったけれど、お小遣いでこっそり買えるほど下着って安くはないので背に腹は代えられなかった。

 見せるつもりはない、つもりはないが、見せてもいいように。いやほんとに見せたくはないんだけどね。

 登校したわたしは、クラスの前でふん、と気合いを入れなおした。さすがに昨日一日でだいぶ慣れた。はずだ。わたしは平気だ。いける。

 いざ、とドアに手をかけた。

「おはよ、お……」

 一日ぶり二度目の絶句だった。

 おはよ、おはよ~、といつも通りに挨拶をしてくれるクラスメイトたち。そこまではいい。

 昨日とは違って、彼らはふつうにセーラーを着ているし、半袖シャツの前を止めていた。驚くべきことじゃない。これがただしい。

 問題は下半身だった。

 みんなスカートもズボンもはいてない。パンツが丸出しなのである。

 ブラジャーなんか目じゃないくらいのショックで、後ろにぶっ倒れないようにするので精一杯だった。白目をむいてたかもしれない。

「こがね、後ろつかえてるよ」

「ご、ごめん」

「さんきゅ。おはよ~」

「お、おはよう……」

 クラスメイトたちは何事もないように教室に入ってきて、自分の席に荷物を置くとおもむろにズボンやスカートを脱ぎだした。

 昨日はおっぱい、今日はパンツ。

 さすがにパンツの圧勝だ。まったく直視できなくて自席に座るとじっと足元を見る。でもみんな、やっぱりちっとも恥ずかしがってない。ズボンを脱ぐのだって、玄関で靴を履き替えるのとそう変わらないみたいな態度だ。っていうか、パンツ一枚で寒くないんだろうか。いや絶対寒い! 廊下はまだしも、教室はクーラーが利いてるんだぞ! 

「さ、寒くない……?」

 隣の席の芝くんに声をかける。芝くんは「えー、むしろクーラーの温度もっと下げてほしいんだけど俺」と全く同意してくれなかった。

「前まで鳩ケ谷も暑いって言ってなかった?」

「いや~……こ、こないだ風邪ひいたでしょ。そこからちょっと寒がりになっちゃったかも!」

「風邪長引いてたもんな~」

 そう心配げに見つめてくる芝くんも、真っ白な半袖シャツの下はパンツ一枚である。視線が首から下に下げられない。

 ああもう、なんでこんなことに。人のパンツを一生分、いや人生四回ぶんくらいもう見てしまった気がする。助けてほしい。誰でもいいから助けてほしい!

「……て……げようか?」

「え? あ、うん! なに?」

 芝くんが何か言っていたようだが正直気が散って一切耳に入っていなかった。なんにも考えずに頷くと、芝くんがゆっくり立ち上がっておもむろにわたしを抱きしめた。それだけならまだしも、芝くんの手がわたしの胸の上に置かれた。

「うひょおおおぉぉぉ!?」

「なにその声ウケる」

「いや、芝くんこそ何してんの!?」

「え? だって鳩ケ谷寒いんだろ」

「寒いって言ったけど……それがどうしてこんなことに!?」

 わたしの反論のあいだも、芝くんの手は胸の上をいったりきたりしている。何か探すみたいに。……わたしの胸は探さないと見つからないくらいささやかってことか。怒りとへこみが同時にくる。

「なに騒いでんだよ。別に、『クラスメイトにハグしておっぱい揉むくらい普通』だろ?」

「えええ……なにそれえ……」

 芝くんがおっぱいって言うの、なんかキモいな……とドン引きした。

 芝くんはふつうの元気な爽やかサッカー少年なのだが、サッカー少年だからといっておっぱいと言っていいわけじゃないみたいだ。

「あったまった? もうちょっとやろうか」

「いやいや全然大丈夫平気もうぽかぽか! あはは!」

 ぽかぽかなのは本当だ。顔は真っ赤になっているだろう。ハグのせいではなく、羞恥でだけど。

 大げさに腕をぶんぶん振ると、胸の上を行ったり来たりしていた芝くんの手がぱっと離れる。ほっとした。芝くんの顔を見るが、いたっていつも通りだ。わたしとちがって顔が赤くなっていない。本人が言ったとおり、クラスメイトに触るくらいは普通のことだと思っているのだろう。

「ならよかった。女子って体冷やしたらダメなんだろ? 姉ちゃんがこの前クーラーかけながら毛布にくるまっててさ~、俺にポテチとってこいとかいうわけ。毛布から出ると体冷えるからって!」

「あはは、でた芝くんのお姉ちゃん話」

「笑いごとじゃないよほんとさ~……」

 芝くんのいつもの愚痴がはじまったので、わたしは笑ってるふりをしながら教室内に目を走らせた。

 確かに言われてみれば、クラスのあちこちでハグしあってたりおっぱいをもんでたりする。男子が女子に、というのもあるがその逆も、男子同士女子同士でもおかまいなしだ。……前川くん、わたしよりおっぱいないか。かなしい。もう考えるのはやめよう。

「おはよ、こがね」

「こがねちゃんおはよ~、芝くんも」

「アイリちゃん。夕夏おはよ」

「はよ~」

 アイリちゃんと夕夏が揃って登校してきた。二人とも席につくと、ためらいなくスカートを落とす。友達といえど……いや友達だからこそこれを見るのは恥ずかしい。

「こがね、まだ体調悪い?」

「ほんとだ、スカート履いてる。『教室内は下着以外の下衣(かい)禁止』でしょ?」

「そ、そだね……」

 体調はいいけど、スカート脱いだら逆に体壊すでしょ絶対。

 ……言いたいけど言えない。心配げにしてるアイリちゃんなんてレアすぎて、なんかこっちが嘘ついてるみたいで心苦しくなってきた。スカートのホックに指をかける。ブラジャーに合わせて、パンツもレモンイエローの揃いのやつだ。見られても恥ずかしくないやつ。恥ずかしいけど。このことを見越していたわけではないが、運がよかった。

 でも結局、わたしはスカートを下ろせなかった。

「まだお腹ちょっと痛いかも……冷えちゃったらよくないし」

「夏風邪は長引くっていうもんね~」

「そんなの言う? 適当じゃないそれ」

「ええ、言うよ~。こがねちゃんも聞いたことあるでしょ?」

「……わかんない!」

 わたしは笑ってごまかした。ふたりが気遣ってくれるなら、それにのっかったままでいよう。……そんな小狡い誘惑にわたしは負けてしまった。

「こがねに聞いても仕方ないっしょ、ついこないだまで風邪ひとつ引いたことなかったんだもん」

「でも~……」

 夕夏とアイリちゃんが楽しそうにおしゃべりをしてる。でもなんだか、その輪に入る資格が今のわたしにはないような気がしてしまった。




「……クラスメイトにおっぱいを揉んでもらうのって、ふつう?」

 昼やすみ、アイリちゃんが軽音部のほうで呼び出されて夕夏と二人になったのでここぞと訊ねてみた。

 夕夏は……すくなくとも先週までの夕夏は、自分の胸がでっかいことをコンプレックスに思っているみたいだった。五月のとき、一年生はコミュニケーション合宿という意味不明な合宿で山奥に三日放り込まれる謎の行事がこの学校にはあるのだけれど、夕夏はその合宿中のお風呂の時間、いつも最後に入って最初に出ていた。体育の着替えのときも、春は隅っこのほうで隠れるようにしていた。

「ど、どうしたの急に」

「気になっちゃって……」

 夕夏のおっぱいはどーんとでっかい。昨日見た下着も、なんていうかランジェリーというより何かのスポーツ用の補正器具みたいで飾り気はなく、レースやリボンのひとつもついてないやつだった。

「触りたいの? もう……しょうがないなあ」

「あ、別にわたしが夕夏に触りたいってことじゃ……」

「いいからいいから」

 夕夏は嫌な顔ひとつせずハグしてくれた。ふわふわで気持ちがいい。夕夏の恋人になるひとはきっと幸せだ。こんなふかふかを独り占めできるんだから。頭がぼんやりしそうになって、本題を思い出す。おっぱいのことについて聞かなくては。

「おっぱい触られて嫌じゃない?」

「なんで? 『クラスメイトに揉んでもらうのはふつう』じゃない」

「んん~……でも、夕夏、前の彼氏おっぱいのことで別れたって言ってたよね」

 夕夏は中学校の卒業式に告白されて、六月入るくらいまで付き合っていた。でも、結局三か月で別れることになった。彼氏が胸を触りたいと言って、夕夏がそれを断ったからだ。最初その話を聞いた時はそんなことで男女関係って壊れてしまうのか、はかないなあと思ったので印象に残っていた。

「だって彼はクラスメイトじゃなかったもの」

「そ、それはそうだけどぉ」

 ……当時はそもそも、クラスメイトならおっぱいを揉むことは普通、と思ってなかった気がする。気がするっていうか、絶対そう。指摘していいのかな。

 直接的ではなく、間接的に聞いてみることにした。

 だって、あとで自分が変だったことに気づいて嫌な気分になるかもしれないのは夕夏だ。いや、ブラジャーやパンツだってあとあと考えたらめちゃくちゃ嫌だとは思うけど、所詮見られるだけだ。

 見られることと触れられることの間には、天と地くらいの差がある。

「なんでクラスメイトならよくて、彼氏はだめなの? 好きなひとなんだよ」

「……? 今日のこがねちゃん、なぜなぜ期なのかな~? おかしなこと聞くねえ」

「答えてよ~」

「じゃあ逆に聞くけど。なんで好きなひとなら触っていいのかな?」

「え?」

 そんなの当たり前すぎて、考えたことがなかった。

 そういうことは好きなひととしかしちゃいけないって、誰から教わらなくてもいつの間にか知ってたからだ。でも言われてみれば、理由らしい理由が思いつかなかった。

「あ、あかちゃんできちゃうから……」

「昔はそりゃあ、こどもができちゃうかもっていうのもあったかもしれないよね。でも、今はみんな定期接種受けてるから万が一も起こらないよ」

「で、でも……好きなひと以外嫌じゃない?」

「嫌いなひとだったら、確かにそれは嫌かもしれないけど……」

 夕夏は本気でぴんときていないみたいだった。ショックだ。なにがそんなにショックなのか分からないけど、持久走一緒に走ろうねって約束してた子が先に行っちゃったみたいな気持ちに襲われた。

「ゆうかぁ……」

「ぐずってるな~。ほらほら、今日のこがねちゃんは特別に甘やかしてあげよう」

 いつも割と夕夏は甘やかしてくれていると思う。おとなしくハグされていると、不思議と安心する。背中をぽんぽんと叩かれた。寝かしつけられているみたいだ。

「触るっていうのは一番重要で効果的なコミュニケーション方法なんだよ、こがねちゃん」

 抱きしめられているからこそ、それは分かる。ぎゅー、ってしてると楽しい気分、うれしい気分になる。言葉にするのが難しいけど、誰かと一緒にこんな気持ちを抱けたら素敵だと思う。

「そのためにルールがあるんだよ。クラスをひとつにまとめるために、クラスのみんなのことを好きになるために、クラスメイトのことは触っていいの。最初から好きなひととしかコミュニケーションできなかったら、クラス内にどんどん亀裂ができちゃうじゃない」

「う、う~ん? そ、そうかも……」

 夕夏の落ち着いた声音で説明されると、なんだか納得させられてしまう。

 好きなひとしか触りたくない。触ってほしくない。

 それがひどい我が儘のような気がしてきた。ぐるぐる考えこんでいると、アイリちゃんが帰ってきたので話はそこでお開きになった。




 触ること、っていうから難しくなる。

 例えば、おしゃべりすることに置き換えてみよう。

 そこでは好きなひととしかおしゃべりできない。好きじゃないひととは目線を交わすだけ。それではいつまで経っても好きになることはできないし仲良くもなれない。

 今は好きではない人とでも、積極的に話をしてみれば変わるかもしれない。クラスメイトという、嫌でも一年一緒にいなくてはならない相手なら努力をして損はない。クラスメイトが仲良しなのはとてもいいことだ。

「でも、でもお……それとこれとは話が違うっていうかあ……」

 放課後、わたしは部室にいかず、かといって家にも帰らずに体育館前の渡り廊下の影でしゃがみこんでいた。

 心臓がばくばくいっている。足ががくがく震えてる。体中がいますぐバラバラになりそうだ。この感覚を、わたしはよく覚えている。忘れたりしない。

 あのときと違うのは、わたしは石神先輩に告白するんじゃなくて、お願いをしようとしているってことだ。

 告白よりはるかに恥ずかしいことをしようとしている。告白する前から頭が沸騰しそうだ。あの時とは違う、嫌な汗をいっぱいかいていて、口がやけに渇く。


 ――石神先輩に、触ってほしいってお願いするんだ。


 そういうわけで、バスケ部の石神先輩をここで張っている、というわけだった。石神先輩は今年三年生ではあるがスタメンには選ばれておらず、自主練はあまりしないで顔を出したらすぐに帰ることが多い。二時間も三時間も待たなくても、捕まえられるはずだ。

 本音を言うなら、こんなことしたくない。

 でも、どんどんクラスは変になっていってる。昨日はブラ。今日はパンツ。そのうえ、胸を触っていいことになってた。

 じゃあ、明日は?

 そう考えちゃうのは当然だろう。少なくとも、わたしは考えた。その結果とても嫌な想像ができた。っていうか、遅かれ早かれな気がする。今想像したことが明日現実にならなくても、いつかは絶対になる。百パーセントなる。

 困る。とても困る。

 夕夏の言ってたことは、理解できたはずだ。ほんとのところ、よく考えてみたら全然納得できない気がするが理屈は通っていると分かる、それくらいのレベルだけれど。

 こどもを作る危険は、わたしたちにはない。百パーセントない。

 五十年くらい前は違ったらしい。ぺらぺらのゴムでできた風船を使っていた、と男子がふざけているのを聞いたことがある。聞きなれないカタカナ語は、すぐには思い出せそうにない。

 今は中学生から定期接種が行われ、各種伝染病のワクチンと共に不用意な妊娠を避けるための避妊薬が投与されている。大人になると自分で受けにいかなくてはいけないらしいから全員そう、ってわけじゃないらしいけど。逆にいうと高校生はみんな大丈夫なのだ。

 定期接種について、若者なのだからみんな大いに間違っていい、と言ってものすごく怒られた政治家が昔いたらしい。

「この薬は、ずっと昔、今よりもっと治安が悪かった時代っていうのがあって、そのときに大人になるみんなの体を守るために開発されて広げられた。安全になった今もそれが続いてるのは、それがけ多くのひとたちが、きみたちの未来を大切にしたいと思っているから」

 中学生のときの保健体育で、わたしはそう教わった。だから、その政治家はとても怒られなくちゃいけなかったんだ。定期接種の意味を変えてしまうかもしれなかったから。

 夕夏の言ってたことは、怒られた政治家の言ってたことに近い、とわたしは思う。

 わたしは夕夏のように頭が良くないので、きちんと言葉にして説明ができない。ただ、とにかくこれだけは本当だ。好きなひとにしか触られたくなくて、好きなひとにしか触りたくないってことだけは。

 服の上からとはいえ芝くんに触られて、正直に言うと、だいぶ嫌だった。

 おっぱい探されて怒りもへこみもしたけど、それよりずっと嫌だなって気持ちがあった。ぞわぞわして気持ち悪かった。

 でもたぶん、明日似たようなことになると思う。学校を休んでも根本的な解決にはならない。高校も卒業できないなんてお先真っ暗だし、将来のことがなくてもアイリちゃんや夕夏たちと卒業したい。

 わたしの頭がおかしくなったのか世界が変になったのかはともあれ、現実として立ちふさがってくるならわたしは受け入れて進むしかないのだと思う。

 だから妥協点を設けた。

 触られるのは仕方ない……でもせめて最初は好きなひとがいい!




 シューズがきゅっきゅっと体育館の床を鳴らす音、ドリブルの音、サーブの音なんかが突然ベールを剥がれたみたいに大きく鮮明に聞こえた。体育館の扉が開いたのだ。

 ちょうど誰かが出てくるところだった。

 ひょこっと頭を出して渡り廊下を覗き込んだ。

 石神先輩がいた。心臓が、形容しがたい感じになった。捻り潰されたみたいな、冷たい水をぶっかけられたみたいな。お腹の奥のほうがふわっとする。

 でもすぐに気分が落っこちた。失恋したことを思い出したのもあるし、なにより、先輩の隣を親しげな女子生徒が歩いてたからだ。

 肺の中から酸素が消えてなくなったような気がした。

「あ~、だるい。疲れた。キャプテン張り切りすぎてて無理なんだけど」

「とか言ってふつうにサボってんじゃない。……モトキ今日うちよってく?」

「どうしよかな~模試近いし勉強しないと」

「うちで勉強してけばいいじゃん」

「お前んちで勉強できたことないだろ」

 モトキという名前が誰をさしているのか、すぐにつながらなかった。石神先輩。石神元基先輩。フルネームは知っている。知ってるのに、知らない声で紡がれたそれは全然聞いたことがない響きで、どこか遠くの人の名前みたいだった。

 あの女の人は、石神先輩を下の名前で呼んで、家に行く間柄なんだ。

 そう理解するのに、一分くらいかかった。

 はっと気が付くと石神先輩たちはもうどこにもいなかった。わたしがぼんやりしている間に体育館に戻ったのか、部室棟に戻ったのか。

 追いかける気にならなくて、わたしは立ち上がってスカートのお尻をぱんぱんはたいた。荷物を持って、歩き始めた。熱を出していたときみたいに、あれよりずっと、体の節々に力が入らなかった。


 そっか先輩、彼女いたのか。

 すとん、と何かが落っこちてきて、わたしの胸に大きな穴を開けた。

 いないほうが変か。先輩、かっこいいし。迷子の新入生を案内してくれるくらい優しいし。告白しても断られるわけだ。彼女がいたら、ふつう断る。っていうか、告白されて迷惑だったかもしれない。それなのにわざわざ、昼休みに校舎裏なんて来てくれたんだ。やっぱり優しい。

「あ~……」

 また失恋しちゃった。

 不思議なことに、涙は出なかった。

 体じゅうがくたくたでボロボロで、体の底のほうに穴が開いて血がどんどん流れて行っているみたいだった。体のなかにあるべきものがぼたぼたと地面に落ちていくのに、わたしの手じゃそれを掬いきれないから諦めて歩き続けるしかない。

 家に帰りつくのに、いつもの三倍くらい時間がかかったと思う。ひとりで事故にあうこともなく帰宅できたことが、快挙のような気がした。

「……ただいまあ」

 お母さんも大地もいないみたいだ。たすかった、と思う。靴をぬいで玄関にあがり、そのままごろんと転がりたいのをこらえて二階の自室にむかう。横になったらたぶん、二度と起き上がれないと思った。

 部屋に入って、制服を脱いで椅子の背もたれにかけるだけかけて、下着のままベッドにダイブする。パジャマを着る体力が、体のどこを探しても見当たらなかった。芋虫みたいに布団にくるまって、頭まで覆った。

 失恋って、少なくとも二種類あるみたいだった。

 この間のは、体も心も燃えてるみたいだった。走り回って転げまわって、何もかもを壊したかった。今回のは、世界の底が抜けたみたいだった。立っていることさえ途方もなく疲れる。歩くたびに、体のどこかを落っことしたみたいに脱力した。

 ひとりのひとに二種類の失恋をしたひとって、わたし以外にもいるのかな。

 いるんだろうな。

 すごいなあ、と思った。

 こんなにつらいことを、大変なことを、みんな平気な顔してやっている。このつらいのを我慢できるようになるのが大人? このつらいのをつらいと思わなくなったら大人?

 どちらにせよ、わたしはまだ大人になれそうにないみたいだった。


「……すきなひとにしか、さわってほしくない」

 そんな願い事、すべきじゃなかった。

 はっと気づく。

 そうだ、わたしは石神先輩のことが好きだけど、石神先輩はわたしのことが好きじゃない。石神先輩には彼女が、好きなひとがいるのだ。

 頭をぶん殴られたみたいって、きっとこういうことだった。

 好きなひとに、好きでもなんでもないひとを触らせることになっていたかもしれない。好きじゃないひとに触られるのが嫌だって、自分であんなに思ったのに、自分の我が儘でそれを先輩に押し付けるところだった。

 なんでそんな簡単なことが分からなくなっていたんだろう。

 ほんとのほんとに、本当に、自分のことが嫌いで仕方なくなってきた。

 自分のことしか見えていない、自分ばかりがかわいい、そんな性格の悪い子にいつの間にかなってしまっていた。自分のことを性格がいいと思っていたわけじゃないけれど、でも、こんなふうに人に嫌なことを押し付けて、自分ばっかり甘い汁を吸うようなやつだとは思わなかった。

 石神先輩は、見る目がある。少なくとも、こんなダメな女の子を選ばなかったんだから。

「自分を嫌いになるの、つらぁい……」

 いくらでも、自分の悪口が言えてしまう。これならまだ、脳みそが熱でぐつぐつになって泣きじゃくってるほうがよかった。このままだとわたしはじめじめめそめそしまくって、ベッドに黴を生やしてしまう。

「前向きに……そう、前向きに考えるべき!」

 今日あそこで待っていてよかった。見かけたのが彼女と一緒に歩いてるところでよかった。万が一にも、先輩に変なことさせなくてよかった。

 おかげで、思い余って、変なお願いはせずに済んだ。

 よかった。

 これでたぶん、よかった。

 布団の中で小さくなりながら、大丈夫、明日からわたしはいい子になる、と唱える。だってもう失恋したから。失恋して、自分の悪いところに気づけたから。運よくほんとうにひどいことをする前に踏みとどまれたから。まだ大丈夫。まだ平気。

 恋って、たぶん性格を悪くする。恋って、きっと自分を嫌いになる。

 やっぱり恋って悪なんだ。




「こがねちゃん、こがねちゃん?」

 扉の向こうからお母さんの声がして目が覚めた。

 いつの間にか寝ちゃってたみたいだ。変な時間に寝たからか頭がガンガンする。

 ノックに返事してないのにお母さんが入ってきた。まあいいけど。

「また体調悪い? おかゆ作ろうか」

「ううん……」

「元気ないねえ。大丈夫なの?」

「明日になったら大丈夫になると思う……」

 だから今日は寝かせてほしい。でもお母さんという生き物は空気を読まないので、ベッドの脇に腰を下ろした。

「別に大丈夫になるのはいつでもいいから。早くよくなってほしいけどそれで無理したらダメだもの」

「……うん」

「おかゆ作って冷蔵庫にいれとくからね」

「おかゆじゃなくていい……」

「そう? 今日のお夕飯チンジャオロースだけど」

「チンジャオロースでいい」

「オッケー、ごはんは冷凍のやつチンしてね」

 お母さんは言いたいことだけ言って部屋を出て行った。

 隠してるけど大地は未だにピーマン嫌いだからたくさん余るんだろうな。お母さんはそれをよく知ってるくせに自分が好きだからってこうやってたまに強行して大地を怒らせている。

 こんなお母さんでも、結婚したってことはお父さんが好きってことだよなあ。……やめよう、両親のそういうことを考えるのはちょっと年頃の娘としてはしんどすぎる。友達の恋バナは楽しいのになんで身内の話はいたたまれないんだろう。不思議だ。


「……寝れない」

 完全に目が冴えてしまった。なんで帰ってきてからすぐ寝ちゃったんだろう。

 そこらへんに放り出されてたスマートフォンを見たら八時だった。帰ってきて二時間ちょっと寝ていたらしい。寝すぎだ。なんか若干冷静になってきて、くよくよしてた自分が馬鹿みたいに思えてきた。くよくよしたって今晩はチンジャオロースなんである。お母さんはノックしないし大地は怒って部屋にこもるしチンジャオロースはきっと山盛りだし、この家でナイーブになってると自分がばからしくなってくる。

 もくたの散歩にでも行こう。それがいい。

 ここのところ体調が悪かったからお母さんに全部任せてしまっていたし。

 決めてからの動きは早かった。わたしは動きやすい服に着替えて玄関におり、散歩用のリフレクターバンドとリードを手にした。その音で準備しているのが分かったのか、てってってっと軽い足取りでもくたがやってくる。首輪にリードをつけてやっていると、リビングからお母さんが顔を出した。

「あら、もっくんの散歩行ってくれるの?」

「うん。行ってきます」

「気を付けてね。迷子になったらおしえてね」

「はーい」

 もくたに引きずられるようにして家を出た。というか、わたしは散歩ルートをろくに覚えていないのでもくたに任せるしかないのだ。

 もくたを飼いはじめたのは五年前、わたしは小学校五年生だった。大地がどうしても犬が飼いたいと言い出したのがきっかけで、父が健康診断でメタボ傾向が指摘されたのが後押しだった。

 でも結局大地は反抗期で散歩をさぼるし、父は仕事が遅いと言い訳してやっぱりサボるので大体お母さんかわたしの仕事になっている。

 なのになぜ五年も散歩ルートを覚えてないかというと、単純だ。

 ──わたしがとんでもない方向音痴なせいだった。

 いまの学校に進学を決めたのだって、理由はとにかく「家から一番近い」こと。ただそれだけだった。それだけのために偏差値を二十もあげた。死ぬかと思ったけど人間やればなんとかなった。だって死活問題だったのだ。もしもこれでバスや電車を使わないといけないような学校に行くことになっていたら、わたしは出席日数不足で退学を余儀なくされていただろう。

 正直入学から三か月経った今もたまに道を間違って遅刻しかける。書道部のわたしが始業の三十分も前に学校につくように早めに登校しているのはそれが理由だ。本来ならぎりぎりまで寝ていたいのに。

「もくた~……ここどこ?」

 そしてわたしは迷子になっていた。

 いや、もくたがいるから迷子にはなってない。でも見慣れない住宅街から、見慣れない土手に来てしまった。

 もくたはわたしを一瞥して、でもふいっと視線を逸らしてしまった。黙ってついてくればいい、とでもいうみたいに背中を見せているが、しっぽをふりふり楽しそうに歩いてるので威厳はない。

「もくた、また冒険してない? してるでしょ! も~」

 犬ってみんないつも笑ってるような顔だけど、もくたはその中でもきりっとしてる方だと思う。見た目通りもくたは賢いので、わたしが散歩ルートを分かってないのをいいことに絶対いつもの道じゃない方にわたしを誘導することもあるのだが、たぶんそれだ。

 もくたは賢いだけじゃなく、思いやりのある偉い子だ。なので一時間もせずに満足して家の方向に帰ってくれる。わたしは一応お母さんに迷子である旨をメッセージした。いつものことなのでうさぎの了解スタンプが帰って来た。

 迷子だけど、気分がよかった。

 もくたがつれてきてくれた土手からは広い川が見下ろせ、遠くの鉄橋をちょうど電車が渡っているところだった。両岸にはマンションが立ち並んでいて、藍色の空にはそれより少し淡い色の雲がちょこっとだけ浮いている。風は生ぬるくて正直汗ばむけれど、川が近いおかげで吹き抜ける風は気持ちがよかった。

 ぽてぽて歩いていると、何人かとすれ違った。犬を連れてる人もいれば、がっつりとスポーツウェアを着込んでジョギングしてる人もいる。何人か手や腕を組んでる二人組もいたのでそれはちょっと視線を外した。

 ふと顔をそらした時、ふと視界の端にひとが映った。知ってる人だ。北園(きたぞの)くんだった。

 北園くんは、クラスメイトだ。でも、ゴールデンウイークをすぎたあたりから休みがちになり、ここのところはめっきり学校にこなくなってしまった。せっかく高校に受かったのに。六月に席替えをしてからわたしの前の席になったのだが、北園くんの背中を見ながら授業を受けたのはこれまで片手の数もないと思う。

 それでもわたしがこの暗がりのなかで北園くんと気が付けたのは、散歩の途中で会うのはこれが初めてではなかったからだ。北園くんは学校にこないからといって家に引きこもってるわけではないらしく、家が近いのかこうしてすれ違うことがたまにあった。

 ぺこ、と頭を下げる。

 北園くんも軽く会釈してくれた。

「こ、こんばんは」

「こんばんは。散歩中?」

「うん。もくたがこっち来たいっていうからついてきたの」

「また犬に振り回されてる……」

 たぶん、っていうかほぼ確実に、北園くんはわたしのことをクラスメイトだと認識してない。なんかたまに話す犬連れのご近所さんだと思ってるふうなのだ。気づいた時には訂正できなくなっており今も話に合わせてしまっている。

「もくた、ご主人困らせたらだめだぞ」

「困ってないから平気だよ」

「でもこんな時間に遠くまで連れてかれたら大変だろ。前、三時間連れまわされたって言ってたし」

「あ、あれは動物病院に連れてったあとでもくたが機嫌悪くて」

「犬にお仕置きされてる……」

「もくたのストレス発散に付き合ってあげたの!」

 北園くんはおかしそうに笑った。そのまま「じゃあ」と通り過ぎようとするので、思わず肘を掴んだ。

「どうかした?」

「えっと……」

 今週に入ってからクラスがどうにも変みたい。そう伝えようかと思ったけれど怯んでしまった。だっていきなり「教室でパンツとかブラを出すことについてどう思う」なんて聞いたら痴女だし、痴女がクラスにいるって思ったら北園くんは余計に学校来なくなるかもしれない。それはかなしい。

 しどろもどろになりながら、なんとか言葉をひねり出す。

「が、学校行きたくないときってどうすればいいと思う……」

「行かなければいいんじゃないの?」

 北園くんはけろりと言った。まるで、明日の天気は雨だから傘でも持っていけば、というくらいの自然さだ。それが当たり前だと思ってるひとの態度。最近こういう態度ばっかりたくさん見たのでわかる。

「そ、そうかなあ……?」

「別に学校行かなくても死なないし」

「う、うーん」

「俺はあんまり学校行ってないよ」

 存じております。心の中で返事をしながら、北園くんが学校に来てないことをあんまり気にしてないことにほっとした。よくよく考えたら、学校を休みがちな事情がある人に聞くことじゃなかった。自分が浅慮で嫌になる。

「深く考えないで、一日だけサボってみたら。自分のなかに、学校を休むって選択肢を作るために」

「選択肢を作る?」

「避難訓練みたいな。自分はいつでもこんなところから逃げ出せるんだぞ、って確認しておく。実際使うことがなかったとしても、退路が確保してあるかどうかで心の持ちようは全然違う」

 逃げる、ということを、北園くんは悪いことだと思っていないみたいだった。わたしはそのことにびっくりした。逃げていいのか。よく考えたら、誰かに逃げたらだめなんて言われたことはない気がする。

 考え直してみると意外と、世の中っていうのは思い込みが多いみたいだった。

 北園くんはそのことに、わたしよりすこし、あるいはずっと早く気づいていた。すごいと思う。同い年なのに。

「北園くんって人生何回目?」

「なにそれ。ふつうに一回目だけど」

「哲学持っててすごいなって」

「待って何その言い方。馬鹿にしてる?」

「してないよ!」

 そこで話が終わって、北園くんとばいばいした。もくたは早く早くとリードを引っ張り、引かれるがままよたよたとそのあとについていく。

 川べりの散歩は気分がいい。帰ったときには汗だくだったけれど、体のなかみをどこかにこぼし続けてるみたいな感覚は、少なくとも歩いてる間は忘れていられるようにはなっていた。

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催眠アプリが効きません! 塗木恵良 @OtypeAlkali

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