第五話 結末

 教頭先生が消えてから数日して、今度は柚木野先生が行方不明となった。柚木野先生は独身で両親もいなかった。そのため家族からの連絡はなかったのだが、何日も無断で欠勤したことで、学校が不審に思い調べると、柚木野先生は自宅にもその他どこにもいないことが判明した。つまり失踪したわけだ。しかし教頭先生のときのような大騒ぎとはならず、邪魔者が消えたといった感じで、美術の授業は他の先生が受け持つこととなった。

 柚木野先生がなぜ行方不明となったのかは、もちろん私には分からないが、しかし美術室の片隅にいつも置いてある例のオブジェがないことで、なんとなく先生の居場所が特定できた。で私は休みの日にそこへ行ったのだ。言うまでもなくあの里山の小屋である。

 小屋の周りにはやはり特殊な雰囲気が漂っていた。それはこの前と同じで、静寂の中に、凛としたものが感じられた。

 先生がいるな、と私は直観したのだが、残念ながら小屋の中には誰もいなかった。その代わり畳の上に理科室にあるような大きな瓶が置いてあった。透明な瓶で、あの目がギロリとした蜘蛛がその中に入っていた。蜘蛛はやはりじっとしていたが、死んではいないようだった。

 この蜘蛛が教頭先生の変身した姿であると私は認識している。ならば私は瓶の中から先生を助け出さなければいけないのだが、外に出したところで先生が人間に戻るわけではない。魔法によって変身したものは、その魔法を解くしか元に戻る術はないのだ。ただ、これだけ長く生きているということは、死ぬこともないのだろう。

 それよりも私は柚木野先生のことが気になった。私はてっきり先生はこの小屋にいて、あの作り物の蝸牛の中に入っているとばかり思っていたのだが、その模型も小屋にはなかった。

 ということは、先生は蜘蛛の入った瓶だけをわざわざここに置きに来たのだろうか。いや、そんなことはない。大瓶の横に一冊の大学ノートが置かれていた。表紙に○○君へ、と私の名前が書いてある。私は感動し、さっそくそのノートを開いた。


 ──君がここに来るだろうと予想して、私はこのノートを置いて行くよ。そう行くのだ。私は間もなくかねてから計画していたことを実行に移す予定だ。以前私は君に、私の弟はすでに蝸牛の体となって、異世界とこちらの世界を行き来している、という話をしたと思うが、私も同じように蝸牛となって、人間界の苦から逃避するつもりだ。異世界は永遠の世界で、死というものが存在しない。結局私たちは、この世に適合しない人間だった。兄弟そろって子供の頃から異常に蝸牛に関心があったが、それはつまり無意識のうちに蝸牛に対して理想郷を見出していたからだ。自分の殻の中に閉じ籠って暮らす。それは私たちの理想とする生き方なのだ。

 さてここで、行方不明となっている教頭先生のことを話そう。あれは本当にアクシデントだった。あの日の午後、私は黒魔術の実験をするために、美術室の床に白のチョークでサークルを描いた。この日は部活動が休みだから誰も来ないと私は思っていたのだ。だが、放課後の遅い時間となって教頭先生が一人でやってきた。教頭先生は私を叱ることを日課としているような人だから、当然床のサークルを見て、烈火のごとく怒りだした。まあいつもの私なら、そんなこと平気の平左なのだが、どういうわけかこのときの私は、今までにない精神状態になっていた。おそらく教頭先生に対する鬱憤が積もり積もって、爆発寸前になっていたのだろう。と言って、暴力をふるったわけではないよ。よこしまな考えを抱いたのだ。それはこの教頭先生を黒魔術の実験台にするというものだ。幸か不幸か教頭先生はサークルの中央に立っていた。私はここがチャンスとばかり、ある呪文をとなえた。その呪文は悪魔を呼び出す呪文ではなくて、サークルの中央にいる者をまったく別のものに変身させる呪文だ。何に変身させるかは、そのとき頭に念じたものによって決まってくる。私はとっさに蜘蛛を頭に描いた。すると教頭先生は雷鳴とともに一瞬にして蜘蛛に変身した。最初、それは犬の大きさだったが、さらに呪文で掌にのる大きさにした。もちろん私はまだこのときは教頭先生を元の姿に戻すつもりでいた。しかし、いったん変身させたものを再び元の姿に戻すのは大変難しいことが後になって分かった。文献を紐解いても、そういう呪文がまったく無いのだ。しかしよく考えれば、教頭先生を元の姿に戻せば、私はもう学校に行けなくなる。

 その事実に気づいた私は、いよいよ蝸牛になる決心を固めたのだ。教頭先生に対する懺悔の気持ちもあってね。

 はやる心で私は家の隅にある土蔵の床にサークルを描いた。この土蔵の中で私は誰にも知られずに蝸牛になるのだ。しかし、その前に、君にだけは事情を知らせたかった。なぜなら君は、私の心の奥に唯一入り込んだ人間だからだ。  

 それで私は、このノートをしたためて、君と私だけが知っているこの小屋に置くことにしたのだ。その際、教頭先生が入っている瓶も一緒に置くことにしたが、それはもしも君が将来黒魔術に興味があって研究して、教頭先生を元の姿に戻す方法を見つけたならば、私の代わりに君が教頭先生を人間に戻してほしい、という願いがあるからだ。しかしそれは君の自由だ。強制ではない。教頭先生はすでに死なない存在となっている。瓶の中でこの地球が存在するかぎり生き続けるだろう。しかし、そんな生き方に意味があるのか。私も永遠の命を得ることになるが、いつか生きるのが嫌になるかもしれない。そのときはまた私は黒魔術を研究して、死ぬ方法を見つけ出するつもりさ。それができなければ、永遠に眠るよ。眠ることは蝸牛の一番の特技だからな。殻の中で猫のように丸くなってね。まったく蝸牛は私にとって家なのだ。──では、この辺でおさらばしよう。君の健康と幸運を祈りながら。


 私は読み終わって、柚木野先生はあの土蔵の中に今もいるような気がした。なぜなら私は以前、先生の弟さんの姿を土蔵の二階の窓に認めたわけだから。

 で私はすぐに行った、柚木野先生の実家に。

 いつもながらひっそりとした屋敷だ。鬱蒼と茂った樹木の庭に私は入った。不法侵入ということになるが、もう誰も住んでいないのだ。かりに柚木野先生がいたとしても、とがめることはないだろう。


 亀裂の入った土蔵の分厚い観音開きの扉は、意外にもすんなりと開いた。

 一階はまったくの物置で雑然としていたが、木の階段を上がった二階には、ソファなどがある、ちゃんとしたリビングであった。

 しかし、中央の床に悪魔的なサークルが描かれていた。さらに正面の奥に大鏡が取り付けてあった。私はその大鏡に惹き込まれるように近づいた。

 古今東西、 鏡には魔性があると言う。神社では銅鏡などが神の依り代として祀られ、西洋では鏡の奥から悪魔がやって来るという言い伝えがある。

 私はふとこの大鏡が異世界との通路になっているのではないかと考えた。根拠はない。しかし、あの奇矯な柚木野先生が、わざわざ巨大な鏡を土蔵の中に取り付けるには、それなりの理由があったはずだ。

 私はしばらく鏡に見入っていた。すると鏡の表面が急にざわつき始めた。それはまるで静かな湖面に雨粒が落ちて波紋が広がるような感じで、何かが起こる気配があった。私は急に不安になった。しかし私は、この鏡の前を立ち去ろうとは思わなかった。柚木野先生に会えるような気がしたからだ。

 間もなく柚木野先生は登場したが、それは私が最初に図画帳で見た、あの人間と蝸牛が合体した姿であった。

「先生!」と私は感極まって、言葉を発した。

 しかし先生の目はうつろで、私を見ても何も言わなかった。先生はもう私のことを忘れているのだ。きっと先生は、この世とは次元が違う空間に生きているのだ。

 やがて先生は、再び鏡の中に静かに消えて行った。

 私は長い間、呆然とその場に立ちつくした。


             了

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蝸牛の家 有笛亭 @yuutekitei

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