第4話 蜘蛛
その日から私と柚木野先生とは、ちょっと特別な関係となった。別に変な意味ではなくて、互いに意識し合う関係になったということだ。
私としては、多感な年ごろであり、柚木野先生のような不思議な人間を近くで観察(言葉は悪いが)できることを幸運に思った。おそらく私の生涯でもっとも不可解な人間となるであろう柚木野先生を、私は誰よりも興味を持って毎日見ていた。そして、より深く観察するために、私は先生が顧問をしている美術部に卒業まであと数か月というときに入部したのだ。
そうして分かったことは、美術室にいるときの柚木野先生は、とても幸せそうにしているのだが、いったん外に出て校舎の廊下を歩くときは、まるで誰かに命を狙われているかのようにびくびくしているということだ。とくに他の先生とすれ違うときは、滑稽なほど廊下の片側に寄っていた。
柚木野先生は、生徒だけではなく他の先生たちともほとんど会話をしなかったが、それはもちろん他の先生が柚木野先生を軽視していたからであり、それで先生は、美術室を自分の隠れ家のようにしていたのだ。
いつの頃か美術室の隅に、里山の小屋で見たあの蝸牛の模型がオブジェのように置かれていたが、ある夕暮れ時、私は先生がその蝸牛の中に隠れているのを見て、蝸牛は先生にとって避難場所ではないかと思った。
というのも、この日先生は教頭先生からこっぴどく叱られていたからだ。なぜ叱られていたかは分からないが、こういうことはよくあることで、目のぎょろりとした教頭先生が、顔を真っ赤にして怒るのだ。先生が同じ立場の先生を叱るというのは、教育上、好ましくないと私は思うのだが、どうも教頭先生は柚木野先生をまともな教師と見ていないところがあった。
温和な柚木野先生は、そんなときも、ただ耐えているだけであった。
一人ぼっちでいつもいる柚木野先生は、暇があれば絵を描いていた。本を読むことも多く、その本は中世ヨーロッパの錬金術や黒魔術に関するものがほとんどであった。とりわけ精霊や悪魔などの召喚方法を詳しく勉強されているようであった。英文字の分厚い本もあり、そういった本の中からさまざまなサークル模様を図画帳に描き移す、という手間のかかることをされていた。
ある放課後、この日は部活動が全面休止で生徒は帰宅する必要があったのだが、私は柚木野先生の様子を見に美術室に入った。いや正確に言うと、入る直前で立ち止まった。というのは、教室の後方の机や椅子が片側に寄せられていて、その床に先生はしゃがんで一心不乱に白チョークでサークルを描いていたからだ。今まで見たこともないような文字や記号が、その直径二メートルほどのサークルの中に記されていた。とても私が近づく雰囲気ではなかった。
そのサークルは翌日には消されていたが、おかしなことに教頭先生も姿を消した。
教頭先生はその夜、家に帰らなかったのだ。宿直でもないし、教頭先生は今まで連絡なしに外泊することはなかったので家族は心配して翌朝、学校に電話をいれた。
教員たちはあわてて教頭先生を探した。校内放送もした。
教頭先生の車は学校の駐車場にあった。だから校内のどこかにいるはずであったが、どこにもいなかった。そしてそれ以来、教頭先生の姿を見た者は一人もいないのだ。
しかし私だけは、教頭先生がどこにいるかなんとなく気づいていた。というのは、私は美術室の天井に目玉がぎろりとした大きな蜘蛛が一匹張り付いているのを目にしていたからだ。ぎろりとした目、それは正しくあの教頭先生の目ではないか。確証というほどでもないが、私はあの放課後、教頭先生が一人で美術室に入るのを目撃していたのだ。
もっとも、私もそれ以降のことは知らないので断言できないがしかし、柚木野先生が日頃の鬱憤を晴らすために得意の魔法を使って教頭先生を蜘蛛に変えたのではないか、という想像が容易につくのである。
この天井の蜘蛛の存在を知っている者は、私一人だったと思う。美術室はめったに使用されないし、そもそも視野の狭い中学生が天井でじっとしている蜘蛛を見つけるはずがないのだ。私は美術部の部員だから、気がついただけだ。
それで私は、面白半分にその蜘蛛の絵を図画帳に描いた。
と、柚木野先生はそれを見て、
「ほほう。君は面白い絵を描くね」と言った。
「先生こそ蝸牛の絵をよく描かれていますが」
「まあそうだね。私にとって蝸牛は分身であり、実際、私の双子の弟は今ではすっかり蝸牛となって、この世と異世界とを行ったり来たりしているよ」
「土蔵の中にいた人ですか。二階の窓に上半身が見えましたが」
「そう。人魚のように上半身は人間のままだ」
そう言って先生は、にやっと笑った。冗談などはまず言わない先生なので、私はどきっとした。だから天井の蜘蛛のことも聞けなかった。
翌日、天井の蜘蛛は教室からいなくなっていた。
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