第3話  里山の小屋で

 柚木野先生の家を尋ねた後、私は例の里山に足を踏み入れた。それはあの小屋が柚木野先生の家から非常に近く、そして日曜日だから、ひょっとして、という思いがあったからだ。そのひょっとして、という思いは、里山の入り口に柚木野先生の自転車が置いてあったことでほぼ的中したことになる。

 先生の自転車は近年ではほとんど見かけない、実用的なもので、荷台に米俵を積むような頑丈な作りであった。そのため、この自転車に乗っているときの柚木野先生は、生徒たちの格好の笑いの対象となっていた。というのも、先生は小柄で貧弱な体形をしていたから、まるで子供が乗っているように見えるのだ。

 さて、小屋に近づいた私は、その場の雰囲気がいつもと違っていることに気づいた。たとえば、あちらこちらで鳴いていた小鳥が、そこだけしーんと静まり返っているのだ。 

 静寂の中に怖ろしいものを感じた私はちょっと緊張して小屋に入った。

 畳の上に奇妙な物体が置いてある。皮革製なのか石油製品なのかよく分からないが、エナメルのようにてかてか光っていた。

 大きさは八十センチほどの円盤で、表面に渦が描かれていた。それでこれはアンモナイトあるいは蝸牛を模したものであるとすぐに分かったのだが、その渦の先端に穴が開いていて、顔を近づけると人間の頭髪が見えた。ハハーン、ここから首が出てくるのだろう、と見ていると、案の定、首が出てきた。柚木野先生の貧相な顔であった。

「せ、先生!」

 私は別に驚きはしなかったが、少しバツが悪かったので、わざと驚いた風をした。柚木野先生も生徒である私を見てバツが悪い思いをしたに違いないのだが、しかし意外にも平然と「やあ、こんなところで君に会うとは奇遇だね。それとも君は私の後をつけて来たのかね?」と言った。

 私はどう答えていいか迷った。つけて来たと言えば、たしかにつけて来たのだ。しかしそれはあくまでも憶測であって、はっきりとした根拠があったわけではない。

 そこで私は、

「この前僕は、先生が教室で蝸牛の絵を描いているの見て、あれれっと思ったのです。というのは、その絵が、この小屋にあった図画帳の蝸牛とそっくりだったからです。ならば、あの絵は先生が描き、そしてこの小屋にもよく来られるのではないかと。じつは僕はあの絵を見て以来、先生に興味を持ち、一度先生の家を尋ねてみたいと思い、そして今日、先生の家の前まで行ったのです。そのついでに、ここにやって来たというわけです」

「私の家を尋ねるとは尋常ではないね。それに君は、どうやってこの小屋の存在を知ったのかね?」

「じつは僕の家はとなりの村にありまして、この里山は昔から僕の遊び場なんですよ。もっとも最近になって、ようやくこの辺りまで来るようになったのですが」

「なるほど、それで君は最近、私の顔を凝視するようになったのだね。──そうか私に興味があったのか」

「ところでお聞きしますが、先程、先生の家の土蔵の二階の窓から先生とよく似た顔の人が見えましたが……」

「ああ、あれは私の双子の弟だ」

「そうでしたか」

 私には作り物の人形のように見えたのだが、そのことは黙っていた。

「それにしても先生は、ここで何をしているのですか?」

 「見てのとおり、蝸牛の中にすっぽり入っているところだ。この中にいると、とても心が落ち着くのだよ。山が好きな者は山に登る。私は蝸牛が好きだから、蝸牛の中に入る。ただそれだけのことだ」

 柚木野先生は、普段からちょっと哲学者のようなところがあったが、ぶつぶつ独り言を言う癖もあり、やはり独自の世界を持っているのだろう。

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