【『都心大震災』発生1時間前】

 トークショーが行われるタワータウンの地下へと続く階段の前には、美食探偵のファンと思しき人々がちらほら、入口付近で談笑していた。


 客層は二十代から三十代の女性がほとんどだが、中には若い男性客やセーラー服の女学生の姿まで見える。


 一探偵のトークショーにこれだけ幅広い観客が集まることに、ナージャは驚きを隠せない。


「美食探偵さんって本当に人気なのね」


「ああ、まあ……かなり有能な上に顔も性格もいいもんだから、テレビでも引っ張りだこだよ。ガッポリ儲けてるだろうねぇ」


 群青寺が少し拗ねたように説明した。

 その様子を見て、ナージャは群青寺の心情を察する。


「いくら外見や能力が優れていても、性格が悪いと台無しってことね」


「……ナージャちゃん、なんで俺の顔を見て、それを言うのかな?」


「説明が必要?」


「いや……いいっす。自覚はあるんで」


 それからナージャと群青寺は、入口前に設けられたカウンターでチケットを購入し、地下への階段を降り始めた。


 その途中で群青寺が、周囲をキョロキョロと見渡して「異常無し」と呟く。


「群青寺くん、何を見ているの?」


「ん? ああ……いや、探偵の性分で、つい妙な何かが無いか探してしまうんだ。気にしないでくれ」


「そういうところは意外と真面目なのね」


「ガキの頃から、幼馴染と一緒に探偵ごっこで遊んでたくらいだからなぁ……ガキの頃に根づいたものは、消したくても消えないものだよ」


「……そうね。まったくもって同感だわ」


 そのまま階段を降りていき、扉を開いて中へ入ると、五十名を超えそうなほど多くの観客がパイプ椅子に座る、広い空間へとたどり着いた。


 椅子の他には空間の奥に演壇があるだけ。

 床も柱も真っ白で、天井は一面黒く、飾り気が一切ない。

 しかしパイプ椅子に座る人々の発する熱気で、空気に期待感が満ちている。


 ナージャと群青寺は自由席となっている後ろの列の席に早足で進み、席へと座って、大人しく講演の開始を待った。


 まだトークショーの開始前だというのに、二人を含め、雑談する者はほとんどいない。

 会場内にさり気なく流れる優雅なクラシック音楽が、少し耳に入る程度だ。

 

 トークショーの前から完全に空気が出来上がっている。

 美食探偵をろくに知らないナージャすら、空気に当てられて否応なく期待が膨らんだ。


「お嬢さん、お隣、よろしいですかな?」


 しわがれた声で話しかけられて振り向くと、そこにいたのは、焦げ茶色のポンチョコートに身を包む白髪の老夫。

 

 その匂いに何か違和感を覚えつつも、ナージャが笑顔で「どうぞ」と返した。


 老夫はお礼を述べて、曲がった腰を痛そうに叩きながら着席する。

 どこからどう見ても普通の老人なため、ナージャは違和感を気にせず、演壇の方へと向き直った。


〈本日はご来場をいただきまして、ありがとうございます〉


 会場の照明が薄暗くなり、スピーカーからアナウンスが流れ出す。

 録画や飲食物の持ち込みの禁止など、鑑賞に当たっての注意事項が簡単に説明されたあと、パッと入口の上の照明だけが点灯した。



〈大変お待たせいたしました。これより『美食探偵』によるトークショー、根室漆ねむろうるしが語る、超味覚の世界を始めます〉


 アナウンスが終わると同時に、入口の扉が勢いよく開いた。

 観客たちがみな揃って扉の方に視線を向けるが、美食探偵の姿は無い。


 かと思えば――ナージャのすぐそばから、美しいハスキーボイスが聞こえた。


「あらあら、美食探偵の姿が見られないわね♪ 一体どこにいるのかしらぁ?」


 会場がざわつく。それも当然。

 女性の声がしたのは、観客席からだからだ。


 そしてナージャの隣の老夫が、曲がっていたはずの腰を真っ直ぐに伸ばし、照明に照らされた扉の前へと跳躍する。


「見た目はおじいちゃん――」


 しわがれた声で言いながら、老夫が自らの首に触れ、勢いよく手を振り上げた。


 ビリッと紙の破れたような音が響き、老夫の顔がめくれ、下から溢れ出したのは美しい黒髪。


 先ほどポスターで見た美女――美食探偵が照らし出され、若々しいハスキーボイスで語る。


「中身は美魔女――その名は美食探偵、根室漆~♪ プロの探偵の変装技術はいかがだったかしら?」


 美食探偵はポンチョを脱いで、近くのスタッフに手渡した。


 ポンチョの下からは漆黒のスーツが露わとなって、先ほどまでの老いた印象から一転、とても華々しく、エネルギッシュな姿となる。


 先ほどナージャが老夫に覚えた違和感は――匂い。

 老夫とは思えない、年若い女性の匂いに感じたため、訝しんだのだ。


 ただ、それでも正体を疑うまでには至らず、すぐ間近で見ても普通の老夫にしか思えなかった。


 プロの探偵の凄さにナージャは感動すら覚えてしまう。


「驚かちゃってごめんなさいね。ほら、このスペースって舞台裏とか無いし、登場の仕方を工夫したかったの」


 マイクを片手に語りながら演壇へと歩いていく美食探偵。

 それから、照明に照らされた演壇へと登り、観客席に向かってお辞儀をした。


「改めまして、こんにちは。来てくれたことに心から感謝するわ。本日は、ここでしか聞けないような話をたくさん話すから、楽しんでね。あっ、業界的にグレーな話も多いと思うし、オフレコでお願い♪」


 美食探偵が少しおどけてみせたことで、客席で笑いが漏れる。

 トークショー開始前の張り詰めた空気感が、いい意味で緩んだようだ。

 それが狙いだったのかもしれないと、ナージャは一人考える。


 それから美食探偵は、まず自らの過去を簡単に語った。


 生まれつき味覚が優れていて、幼い頃はコンプレックスに思っていたこと。しかし学校で起きた給食泥棒の事件を、味覚を活かして解決に導き、コンプレックスを長所に変えようと思えたこと。


 その後『始祖探偵』と呼ばれる国内最高峰の探偵と出会い、探偵を志し始めたこと。


 他人事とは思えないその話に、ナージャは集中して耳を傾け続ける。


「味覚を推理に活かすってどうするのって思う人もいるわよね? そう思って今日は簡単な実演もしてみせるわ」


 美食探偵の隣にスタッフがやってきて、A・B・Cの三種類の文字が書かれたコップを三組、合計九つ乗せたトレーを、演壇の上へと置く。


 それから観客から有志を募り、ジャンケンを促して、代表者三名を壇上へと呼んだ。


 一人はセーラー服姿の女子中学生、もう一人はストリート系ファッションを着た色黒の男、そしてナージャだ。


「来てくれてありがとう。あなたたち三人には、そのコップの中の水を飲んで、古い順番に並べてみて欲しいの」


「ええっ!? どれも一緒じゃん、無理だって!」


 色黒の男が驚きの声をあげ、コップの中の水をマジマジと見つめる。

 それから全ての水を順番に飲んでいき、「わからねぇー!」とうなだれた。


 セーラー服の少女も頑張って飲み比べているが、首をかしげるばかりで、とても正解を当てられそうにない。


「……面白い趣向ね。燃えてきたわ」


 ナージャは神経を集中させ、Aのコップに口をつけた。それから、噛むようにしてしっかりと味わいつつ、Bのコップ、Cのコップと順々に味わっていく。


 空気に触れた水は意外なほど劣化が早い。

 見た目こそ変わらないものの、風味は確実に変化する。

 その変化を、ナージャの超味覚はしっかりと感じ取った。


「Aが一番古くて、Bが一番新しいわ。Cはその中間ってところね」


 ナージャが言いつつコップを並べ替えると、会場内を一瞬静寂が包みこんだ。


 それから美食探偵が「正解! はい、拍手!」と言うと、パチパチと拍手が起こり始め、徐々に全体に広がっていく。


 美食探偵はマイクをナージャへと向け、判断した要因を訊ねた。


「Bはまだカルキの味が残っていたの。恐らく水道から出して数時間といったところね。AとCは判断が難しかったけど、Aにはほんの少し酸味を覚えたから、酸化しているのだと思ったわ」


「うふふ、見事な推理ね。これは私も、少しは良いところを見せないと格好がつきそうにないわ」


 そう言って、美食探偵が演壇上に三人分――合計九つのコップを集め、黒い布を取り出して目隠しを装着。


 それからナージャにコップを適当に並べ替えるよう頼んできたので、ナージャは意図を掴めず困惑しつつも、言われた通りにコップを並べ替えた。


 その作業が終わると美食探偵はなんと――目隠しをしたままコップの水を飲むこともなく、コップをアルファベット順に並べ替え始めた。しかも早い。迷うことなくA・B・Cと、古いコップ同士を取りまとめてしまう。


「はい、仕分け完了。私レベルになると、水の鮮度くらいなら匂いでわかるのよン♪ この目隠しを近くで見れば、タネも仕掛けも無いってわかると思うわ」


 目隠しを取って、観客席の最前列に座る女性へと手渡す美食探偵。

 

 どうやら言葉に嘘や誤魔化しは無いらしい。

 つまり彼女は本当に、匂いだけで水の鮮度を言い当てたようだ。


 ナージャは同じ超味覚の持ち主であっても、美食探偵は自身よりずっと正確なのだと理解する。


「さっきも話した通り、私はこの味覚がずっとコンプレックスだったわ。怪しい原材料が混じっていたら気付いちゃうし、お茶のカテキンなんかにも過剰に反応して、すっごく苦いしね。だけど……私が初めて解決に導いた事件では、この水の鮮度が決定的な証拠になったの」


「水の鮮度が……?」


 思わずナージャが問いかけると、美食探偵は微笑みかけ、説明を続けた。


「ええ、『高円寺屋内溺死事件』と言ってね……浴槽で女性が溺死した事件だったのだけど、遺体の死亡時刻より、浴槽の水の鮮度が新しかったの。その意味が分かるかしら?」


「それってつまり……溺死したのは浴槽ではないってこと……? まさか犯人は、溺死した死体を浴槽まで運んだあと、浴槽に水を満たしたんじゃ?」


「本当に勘が鋭いわね。ええ、その通り……事故死に見せかけた殺人事件だったの。水の鮮度なんて普通は気にされないし、その家を偶然訪れた私が気付かなかったら、事故死として処理されていたかもしれないわ」


 ナージャの背筋がゾクリとする。

 もちろん、事故死に見せかけようとした犯人も怖いが、人が死んだ現場で水の鮮度の違和感に気付けた美食探偵が何より恐ろしい。


「これが、プロの探偵……」


 人当たりがよく、話していて落ち着くが、常人とは明らかに一線を画した存在。

 今まで出会ったことが無いタイプとの出会いに、否応なくナージャの胸が高鳴る。


 ――この人ともっと話したい。

 もっと多くの話を聞きたいと、思わずにはいられなかった。


「あの、美食探偵さん、私――」


 バシャッと演壇上から紙コップが転がり落ちた。

 一瞬、演壇の後ろに立つ美食探偵の手に当たったのかと思ったが、違う。


 演壇が――いや、会場全体が揺れているのだ。

 最初は少し演壇が震える程度だったが、揺れはどんどん大きくなり、立つことすらままならない揺れとなった。


 観客席で響く大きな悲鳴。

 混乱した観客たちが、床を這って出口の扉へと向かっていく。


「――扉には近づくなッ! 行ったら死ぬぞ!」


 床に膝を着く群青寺が叫んだが、観客たちは止まらない。

 数十人がナメクジの群れのごとく床を這って進み、扉へと到達。


 そのまま扉を開け、その先の階段へと進んでいった。

 しかし次の瞬間――扉の奥から強烈な爆発音と悲鳴が響き渡る。

 それから扉を突き破り、雪崩のごとく大量の瓦礫が転がってきた。


 その瓦礫で扉の周囲にいた人々が生き埋めに。

 たった数十秒で大勢の人々が犠牲となり、ますます揺れは大きくなるばかり。


 ナージャの脳裏に死の光景がよぎり、頭の中が真っ白となってしまう。


「ナージャちゃん、俺の近くへ来てくれ! そこにいるとヤバい!」


 遠くから群青寺に呼び掛けられてハッとした。

 近くにいたセーラー服の少女の手を握り、先導するようにして、群青寺の元へと向かう。


 少女は一瞬驚いた顔を見せたが、ナージャを信頼したのか、何も問わない。


 二人で一緒に、群青寺の近くへ移動。

 群青寺を見ると、その目が青く、地球のような美しい色に輝いている。

 群青寺は揺れに耐えながら膝立ちとなって、手を上げ、声を張り上げた。


「聞いてくれ! もうすぐ天井から大量の瓦礫が降ってくる! 俺の周り以外はほとんど埋まっちまうから、この声が聞こえたら俺のそばへ集まってほしい! 頼む……! とにかく信じてくれ!」


 震動音や悲鳴でほとんど声は掻き消されたようだが、ナージャ以外にも何人かが群青寺のそばへと向かっていく。


 その中には、先ほど演壇上に上がっていた色黒の男性や、金髪の女性の肩を支える美食探偵の姿もあった。

 

 群青寺の言葉通り、天井から次々と落ちてくる蛍光灯の破片や瓦礫。

 揺れ動く視界に、それら落下物の下敷きとなる人々の姿が映り込む。


 どこかで爆発音のようなものまで聞こえてきて、世界大会ですら平常心を保てる『氷の女王』ですら、恐怖を抑え切れない。


 救いを求めるように群青寺の元まで必死で這って歩き、懸命に手を伸ばした。


「群青寺くん……!」


「ナージャちゃん、よく頑張ったな!」


 群青寺はナージャの手を掴んで自分のそばまで引き寄せると、手を離し、別の者へと手を伸ばす。


 ナージャはその間、近くのパイプ椅子を折りたたみ、「これで頭を守って!」と集まった者たちに手渡していく。


 その時――視界が真っ暗となった。

 電源が落ちたのか、全ての蛍光灯が割れたのか、わからない。

 激しい揺れが続くので、そんなことを気にしている余裕も無い。


 ナージャはとにかく、パイプ椅子を頭上に抱え、身体を小さくし、揺れに耐え続ける。


 何も見えない中、パイプ椅子を通して伝わる振動、瓦礫の直撃、死の気配。

 

 これまで生きてきて初めて、ナージャは死を予感した。

 心の底から、死にたくないと願った。

 

 そして永遠にも思える時間は過ぎていき――


「ナージャちゃん、怪我はない? もう揺れは止まったよ」


 群青寺に声をかけられてハッと我に返った。

 無我夢中なあまり、揺れが止まったことにも気付かなかったらしい。


 群青寺が手に持つ小型のライトで照らされた暗がりの中には、美食探偵を始め、九名の生存者の姿が見える。


 周囲は瓦礫やガラスの破片まみれで、ほんの少し前までとは別世界のようだ。


「群青寺くん……さっきは、その、ありがとう……おかげで助かったわ」


「ははっ、依頼者を守るのは探偵の義務だからな。でも、本当に助かったかは、これから次第だよ」


 そう言って、群青寺はライトを出口の方へ向けた。

 出入り口の扉は震動の間にも見えた通り、大量の瓦礫で埋まっている。


 人間が通れるような隙間など一切見えない。


「完全に閉じ込められちまったみたいだ。この空間には、水も食糧も無いってのに、どうしようねぇ」


 口調こそ普段通り飄々としているが、群青寺の顔には僅かに緊張の色が見える。


 食糧も水も光もない。

 絶望的な閉鎖空間でのサバイバルを、ナージャたちは強いられたのだ。

 

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