焦燥に憑かれて
「うちはね、毎週こうなんだよ。平日は二、三人なんて日もざらだってのに、土曜になるとどっから湧いて来んのか……毎週八十人近い客がどかどか押し寄せてくる。あんたも来る時通ったろ? あの駐車場の――そう、
真白に話し掛けているのかと思えば、深井の台詞のほとんどは愚痴だった。
対する真白も、相槌をうつ余裕がない。
宿泊客が食事を終え、食事処の清掃や食器洗いなどもろもろの雑事が済んだのはついさっき。時刻は既に午後十時を回っていた。
「ああ、真白ちゃん、お疲れさま」
手を拭きながら厨房へ入ってきたのはこの旅館の三代目である
歳は六十前後というふうで。頭にはなぜかいつもグレーのフライトキャップをのせている。飛行機が大好きらしい。
「疲れたろう、週末はいつもこうでね。平日との差が激しくって困っちゃうよなぁ」
「……」
「ほらあんた、皿まわしとくれ」
そう言って背後を通り過ぎたのは仲居歴四十年の滝だ。
その小さな体でチャキチャキと動き回り、真白が五人居てもとうてい敵わないような仕事量をこなしていた。
厨房のステンレス製のテーブルの上には、あの優しそうな女性、吉野が用意したまかないの夕食が並んでいる。今日は麻婆豆腐と山盛りのサラダだった。
真白は厨房の片隅に重ねられていた丸椅子を、人数分食卓へと運んだ。
「皆、お疲れ」
皆が食事をはじめて間もなく、分厚い紙の束を脇にはさんだ伊賀が現れた。
伊賀は普段二階の事務室にこもり、経理や発注、電話対応などありとあらゆる事務処理に追われているらしい。昨日の昼頃「また俺の大嫌いな月末がきたか……」 と呟いて階上に上がったきり姿を見ていなかったが、やはり忙殺されていたらしい。目の下にくっきり隈ができている。
つまり現在のトワの湯は、
厨房の業務全般は深井が。
フロントと宿泊客の送迎は福雄が。
掃除や配膳などのサービス全般は滝と吉野が。
それ以外は伊賀が。
というように、今いるこの人数だけでどうにかこうにかやりくりをしているらしい。無謀だ、というのが正直な感想だ。
「クレームが四件」
伊賀はテーブルに紙の束を置き、どっかり椅子に腰を下ろした。
厨房に糸を張ったような空気が流れる。
「深井さん、岩魚の焼き始めの時間、もう少し早められないか?」
「そりゃできるが、どうしてだい」
「今の焼き上がりだと魚の配膳だけが遅れる」
「そりゃそうだが、焼き立ての岩魚を提供した方がお客さんは喜ぶんじゃないか?」
「もちろんそうだ。だが、席で客が手持無沙汰になってるのが一番まずい。待ってる間に腹も膨れるしな」
深井が頷くと、伊賀は次に吉野に顔を向けた。
「吉野さん」
吉野は緊張した面持ちで茶碗を置いた。
「あんたは一人の客に時間をかけ過ぎだ。客を大切にする心構えは大事だが、今日みたいな日は人手が足りてないんだから、もっと効率を考えて動いてくれ」
「……はい、すみません」
吉野が目を伏せて謝った。
「それと滝さん、明日の掃除は吉野さんと真白ちゃんと三人で、何部屋いけそうなんだ?」
滝は真白をちらっと見ると「せいぜい十部屋だね」 と言い切った。
トワの湯の総客室数は二十部屋で、今日は満室。
「夕食の仕込みもあるから、遅くても昼には切り上げないと間に合わなくなる」
「そうか……。まあ、明日は五部屋しか埋まってないから客は迎えられるが、なるべく翌日には持ち越したくねえな」
「男手が足りないんだからしかたないよ。アンタが手伝ってくれりゃ早いがね」
「雑務が忙しくなきゃ俺だってそうするが、明日は無理だ」
なら諦めるしかないね。とお茶をすする滝。
「猫の手でも借りたい気分だな」
伊賀は紙の束を手元で整え、疲労感で満ちた長いため息を吐き出した。
「ごちそうさまです」
自分の皿を洗い終えた真白は、一言断って厨房を後にした。伊賀と福雄はすでに、来週の連休をどう乗り切るかという打ち合わせをはじめている。
「真白ちゃん」
廊下で吉野に呼び止められ、真白は慌てて振り返った。
「今日はよくがんばったわね」
「吉野さん」
「これ、ごほうび」
吉野に握らせられたのは、カラフルな包装紙に包まれた飴玉だった。
「まだ慣れないことばっかりだと思うけど、困ったことがあったらいつでも言ってね」
何度も頷く真白を見て、吉野はやわらかく笑う。
部屋に戻るなり、引きっぱなしの布団に突っ伏した真白は、しばらくぼんやりと過ごした。
滝や吉野にあれこれ指示されるまま動き回ったので身体はこれまでになく疲れていたが、不思議と心は、現実味のない充足感で満ちている。
(ここでなら、やれるかも)
そんなふうに思えたことが久しぶりで、嬉しくて、真白は満ち足りた気持ちで目を閉じた。
**
(いけない、寝ちゃった)
はっと目が覚めると時刻はすでに深夜を回っていた。
真白は着替えとバスタオルを持ってのろのろ部屋を出る。本当のところこのまま寝てしまえば楽なのだが、汗だくになって動き回ったことを思い出すとどうしてもそういう気になれない。
宿泊客の寝静まった館内は、急に生き物の気配が消えてひっそりとする。
まるで夜の山にだけ現れる怪物の王に、気付かれないよう息でも潜めているかのようだ。
どれだけ気をつけても軋む床板。廊下を照らすランプの灯に導かれるように廊下を進んだ先に、赤いのれんが見えてくる。
真白はほっと顔を
真白が一番好きなのは、このトワの湯の女内湯だ。
露天風呂にはまだ入っていないが、混浴などという
もう一般の宿泊客はいないだろうな。と思ってのれんをくぐったところ、思いがけず中から話し声が聞こえてきた。
「それにしても今日は久々の入れ込みだったね。腰が曲がっちまったよ」
棚に並ぶ二つの脱衣カゴからは赤と黄色の見慣れた作務衣が覗いている。
滝と、声はしないが吉野もいるのだろう。
入るべきか部屋に戻るか、真白が迷うことはなかった。
(お風呂は明日)
一緒にお湯をいただけるほど二人とはまだ親密ではないし、なにより、真白には人に見られたくない秘密もある。
さっと体を反転させた彼女が、滝の囁くような低い声を聞きとってしまったのはただ運が悪かったからではない。
真白はその嫌な囁きに、人より幾分敏感だったのだ。
「そういやあの子、自分でここ……かーっと、やっちまったんだろ?」
ばくん、と心臓が飛び跳ねた。
真白の足は地面に縫い付けられたように動かない。
「伊賀さんもまた厄介な子を連れて来たもんだよ」
「そんなの言ったらかわいそうよ。真白ちゃん、すごく辛い思いをしたんでしょうから」
「辛い思いったって、そんな子、何が地雷になるかわかりゃしないだろ」
そうだ。真白はいつかも、教室の壁の外で、こんなふうに息をひそめたことがある。
あの子の周りで、仲の良かった子たちまでくすくすと自分の悪口に花を咲かせているのを聞いた時だ。
真白の心はぐしゃぐしゃになった。
「こっちが何か言ってまた自殺でもされたらどうすんだい。悪者になるのはあたしらのほうじゃないか。だいたい今の子は心が弱いんだよねえ。心が」
真白は、必死で足を動かした。
音をたてないよう静かにのれんをくぐり、小走りで内湯を離れる。は、は、とうまく呼吸ができない。吸っても、吐けない。部屋に戻らず無人のフロントを横切って、真白は玄関を飛び出した。
全ての音を吸い込むような雪が、また降り始めている。
遠い山影が浮かんで見える。
薄雲の向こうに月が出ている。
「――ア……ア、アギ!!!!!」
ひっくり返った声で叫んだ。
真白はあの鬼を探していた。
雪の深みに足をとられて転んでも、指先や爪先が痛いくらいに凍っても、真白は「アギ」を呼びながら、夜のなかをさ迷い歩き続けた。
「…………真白!!」
その時。昼間彼と出会った山道の入り口付近で、人影が動いた。
そこには昼間と同じ汚れた浴衣一枚で、裸足の足を雪の中に突っ込んで佇むアギの姿があった。
ああよかった。夢じゃなかった。
真白は安堵のために崩れ落ちそうになりながら、ふらふらとアギに近寄った。
「お前、お前なんで、ここにいる!」
アギは目を釣り上げながら真白に怒鳴った。しかしその瞳には、隠しきれない動揺と困惑が浮かんでいる。
「夜の山がどれだけ危ないか、」
「アギ、アギ、手」
「え……?」
「手を、貸して」
真白は夢中でアギの手を掴み、引き寄せた――が、その端からはっきり落胆した。
(……ああ、何で……ちがう)
差し出されたその手は、爪も尖っていなければ指も太くない。ごくふつうの人間の手。ありふれた、自分と同じ、人間の手。
真白の脳裏に焼き付いて離れない、あの命を摘む鬼の手じゃない。
「うわ!?」
アギが悲鳴を上げる。真白が勢いをつけて彼に飛び掛かったせいだ。
呆気なく尻もちをついたアギの顔めがけ、真白は何度も拳を振り下ろした。
「えっ、なんだ……!? なんだよいきなり、何すんだ!!」
滅茶苦茶な攻撃はたびたび彼の顔や頭に当たり、アギは混乱したままわめきたてていたが、何度目かでようやく真白の腕を掴んで攻撃を止めさせた。
「いいかげんにしろ!」
真白はアギに捕まったまま、悲鳴をあげるように、
「鬼になってよ!!」
と叫んだ。
「――は?」
アギは一瞬ぽかんとしたあと、みるみる怖い顔になって、真白を睨みつけた。
「なんだ、それ。おまえ、鬼のおれを怖がったくせに」
ああ、そうだ。自分はアギに酷いことを言った。
真白はきつく唇を噛んで俯いた。
あなたは人じゃないから。危ないかもしれないものを宿には入れられないからと、冷たい言葉で、人が好きだという彼の誠意を踏みにじった。
「ごめんなさい」
なのに今、もっとひどいことを彼に頼もうとしている。
真白は指先を襟もとにかけて引き下ろした。
「――――……」
枯れ草のような前髪から覗く、アギの柘榴の両目がゆっくりと見開かれていく。
「おねがい、アギ」
白い喉が月明かりにさらされた。
彼にもはっきり見えただろう。
ハイネックを着てようやく隠しきれるくらい、大きくて醜い、横一文字の傷痕が。
真白が自分の手で、全て終わらせるために入れた、この生々しい傷跡が。
「自分じゃ、うまくできないの。怖くなって、途中で力が抜けちゃうの」
壊れた蛇口から水が溢れるように、真白の目からは涙が溢れる。けれど胸は少しも痛くない。頭と体がチグハグだ。それでも焦燥感だけは彼女の体を突き動かし続けている。早くしないと。早く。アギ、おねがい、おねがい。
真白は必死で願い、すがるように、アギを見上げた。
「わたしを、食べて、骨ごとぜんぶ」
伊賀や宿に迷惑が及ぶことなどどうでもいいと思えるくらい、真白はもうとっくに、この世界から消えてなくなってしまいたかった。
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