阿多羅の木
鬼は名前を、アギ、というらしい。
「おまえは、なんて名なんだ?」
「……真白」
答えながらも、真白はまったく別のことを考えていた。
(さっきと姿がちがう)
先ほどまで鬼はどこからどう見ても鬼だったのに、今はどうしてか人間の、それも青年に近い顔つきに変わっている。
赤黒く見えた肌はやや赤みを帯びただけで、額から突き出す角や上唇を持ち上げる鋭い八重歯も、気のせいでなければ一回りほど小さくなっている。髪の毛だけは、あいかわらず鳥の巣のようにボサボサだったが。
「いいな。冬の巣ごもりの時の、陽だまりみたいな名前だ」
よくわからないことを言いながら、鬼は嬉しそうににっこり笑った。
どこかで真白の名を呼ぶ声がする。
真白ははっとして、周囲に散らばるオレンジをかき集め始めた。宿を出てからずいぶん時間が経ってしまった。きっと誰かが心配して探しに来てくれたのだろう。
「真白」
鬼、アギが、真白の傍に来て言う。
「あのな、あの……おれ、そこで働きたいんだ」
「そこ?」
「そこの、温泉宿で」
真白は思わずオレンジを拾う手を止めて、まじまじとアギの顔を見つめてしまった。
アギは恥じらうように口早に続ける。
「実は、おまえが宿から出てくるのが見えて、こっそりつけてきたんだ。おれを働かせてほしいって、話しかけようと思ったけどできなくて……。しかたなく山へ戻ろうとしたら、真白が追いかけてきてくれた」
真白は頭を抱えたくなった。あの時、ほうっておけばよかったんだ。
「……無理だよ」
「どうしてだ?」
「どうしてって……」
真白は再び腕を伸ばし、オレンジを拾い始めた。アギはなおも話し続けていた。
「ツノなら髪で隠せば平気だろ! それに、おれちゃんと勘定もできるんだ。いち、に、さん」
「無理なものは、無理なの」
箱の中のオレンジを数え始めたアギを、上目がちに見ながら言う。
理由は簡単。アギが鬼だからだ。鬼と人は、どう考えても一緒に働けない。お願いしたところで伊賀がいいと言うとも思えないし、頭の心配をされるのが先だろう。
そう。鬼は、ふつう実在しないんだから。
「アギはどうしてトワの湯で働きたいの」
無理な理由をそのまま伝えて逆上されても嫌なので、真白は言葉を選んでアギに尋ねた。
もしかしたら、アギの働きたい理由によってはもっとやんわり断れるかもしれない。この現代社会で本物の鬼が出たら大騒ぎなのだ。研究者たちがこぞって押し寄せて、この山の自然を壊してしまうかも、などと伝えたら、諦めて帰ってくれないだろうか。
そんな思惑で問いかけたのに、アギの返答は思いもよらぬものだった。
「人がすきだから」
がつんと頭を殴られたような気がした。
「俺は人間が好きだから、ここにいたい」
真白は咄嗟にアギから顔を背けた。
オレンジの段ボールを抱えてさっと立ち上がる。
「私、あなたの力になれない」
はっきり告げると空気でアギがたじろいたのが分かった。
「真白」 と、まだ何か言おうとしているアギの声を遮る。
「だって、ここは人間の世界だから。あなたは人じゃないでしょ。だから、無理なの。危ないかもしれないものを宿の中へは入れられないから」
真白は、アギが怒って飛び掛かってくるかもしれないと思った。
しかしアギはその場に立ち尽くしたまま動かない。
真白は彼が、深く傷ついたように、黙りこくっているような気がした。
「……ごめんなさい」
それだけ言って踵を返す。
――じくじくと、また痛み始めた傷痕をおさえて足を速めた。
嫌悪感でどうにかなってしまいそう。
ひどいことを言った。アギは鬼だけど、きっと危ない鬼じゃない。分かっているのに真白には言葉を選ばなかった。
だって、真白は人間がイヤで、きらいできらいで、ここまで逃げて来たんだから。
真白が厨房に戻ると、ナマズひげのおじさん――板前の深井が、慌てたように駆け寄ってきて一体どこまで取りに行ってきたのかと尋ねた。探しに来てくれたのは彼だったのだろう。
「ごめんなさい。お客さんにつかまってしまって」
真白は謝り、そう答えた。
オレンジの段ボールは冷え切り、身体じゅう雪で濡れていたので嘘はすぐばれたはずだが、深井は訝しげにするだけでそれ以上は聞かないでくれた。
それもそのはず。
今日は土曜日。
夕方ごろ宿の前に着いた二台のバスに、入るだけ詰め込まれてきたのは、五十人近くもの宿泊客だった。
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