雪の日、鬼と

     1章 雪の日、鬼と



 栃木県日光市の山深くに、奥鬼怒温泉郷、トワの湯はあった。

 標高千四百メートル。鬼怒沼山の懐に抱かれ、四季折々の情景と、滝を真横に見ることのできる混浴露天風呂が売りの、まさしく秘湯の宿である。

 下界ではもう春も目と鼻の先。そろそろ桜の蕾も開かれようかという三月の下旬。

 真白は厚手のコートを着込み、ちらちら雪の舞う中を一人、宿に向かって歩いていた。

 ほ、と息を吐く。

 空気が白く揺れる。

(……さむい)

 真白が腕に抱える段ボールにはデザートに使われるオレンジが入っていた。

 食材の備蓄用に設けられた食糧庫から宿の厨房へは、この極寒の雪道を十分ほど歩かなければならない。


「――真白ちゃんにはまず、この土地に慣れてもらわないとな」


 退院後すぐ、真白はほとんど着の身着のままでここへ来た。

 荷物は父が後日送ってくれることになっている。

 最寄り駅まで迎えに来てくれた伊賀がそう呟いたのは、そのの「鬼怒川温泉駅」から宿までのの道中で、真白が呆気なく酔ってさっそく迷惑をかけた時のことだった。

 曲がりくねった山道は途中から舗装さえもなくなり、都会育ちの真白には耐えられるはずもなかった。


 どうにか宿に辿り着いた時、真白は、そこは人の暮らす世界ではないと思った。

 おそろしいまでに山深い場所だったこともある。

 しかしそれ以上に、ぽってりと厚みのある雪に覆われながら、どこか暖かい明かりの灯るその宿は、雪の中にぽっと灯った幽世の提灯ちょうちんのようだったのだ。


「皆、ちょっと集まってくれ」

 宿につくと伊賀はまず従業員たちに真白を紹介した。


 集められたのは四人。

 がらんと天井の高い厨房に、白髪のおじさんが一人と、ナマズひげのおじさんが一人。腰の曲がったおばあちゃんが一人。お母さんくらいの歳の女の人が一人。

 真白は、その女の人が伊賀の奥さんだろうと思ったが、胸元の名札には「吉野」と違う苗字が書かれていた。


「彼女は歩坂真白さん。昔務めてた銀行の同僚の娘さんだ。復学するまでうちで働くことになった。皆よろしく」


 伊賀の説明はこれだけだった。

 ばくんばくんと痛いほど脈打つ心臓を胸の中に感じながら、彼らの前でどうにか頭を下げた。自分がどんな目で見られているか、確認する勇気はとてもなかった。




「君の部屋はここだ。鬼怒川の夜は寒いから押し入れにある毛布はいくらでも使っていい」


 真白に与えられた部屋は山側の使われていない客室のひとつだった。

 天井からは昔ながらのランプがつり下がっており、部屋を暖かみのあるオレンジ色に照らしていた。


「トワの湯に寮はないんだ。従業員たちは皆、お客さんと同じ屋根の下で暮らす。風呂はいつでも入っていい。昼食は各自だが、夜と朝は皆で揃って食べる。休館は火曜。買い物はその時に済ますか、宅配で頼むことになる」


 ここまで言って、伊賀は「……大丈夫か?」 と真白に尋ねた。

 真白は頷くしかなかった。

 本当のところ、こんな場所で暮らせるとはとても思えない。けれど真白にはもう帰る場所もない。東京に戻り、またあの地獄で過ごすよりは、こちらのほうがずっとましだと思った。

 父だってきっと、なるべく人と関わらず済むように、真白をこの場所に送ってくれたのだから。


「真白ちゃんに一つだけ言っとくぞ」


 伊賀の真面目な声に、真白はどきりとして顔を上げた。

 トワの湯と書かれた白い手拭いで前髪を掻き上げた伊賀は、気合を入れ直すようにそれを頭の後ろに結び付けた。


「俺が君をここに連れてきたのは、こういう場所が今の君には必要だと思ったからだ」


 彼はいつも真っすぐに真白を見る。

 父はたいてい、真白と話すときは何かの片手間だった。だからこんなふうに正面きって言葉を口にされると、何を言われるのかと身構えてしまう。

 思った通り、伊賀の言葉は厳しかった。


「だからといって俺は、君の居心地を守るために手取り足取り皆に働きかけたりはしない」


 真白は頷きながら、込み上げてくる羞恥心に耐えた。しかし伊賀は彼女が自分から目をそらすことを許さない。


「君の居場所は君が自分でつくることだ。そのために君が努力するなら、俺はそれを全力で援けるから」


 伊賀の言葉に真白は「はい」 と小さな声で頷くことしかできなかった。

 心のどこかではうらめしいような感情さえ抱いていた。

(居場所を作るなんて、簡単に言わないでよ)

 だって真白は、それができなかったから、こんな山奥まで逃げて来ているんだから。




(……あ)

 雪の中。

 ほっと微笑んで、真白は足元を見た。知らずに寄ってしまっていた眉間の皴が自然とほぐれる。

 くむ、くむ、と一歩進むたびに奇妙な音がするのだ。

 人に踏み固められた歩道に、新たに二十センチほど雪が積もった時。その上を歩くとこんな不思議な音がすることを真白は最近知った。


 くむ、きゅむ。

 くむ、くむ、きゅむ。


 しばらく下ばかり向いて歩いていた真白は、ふと顔を上げて自分が宿への道を逸れてしまっていることに気が付いた。まずい、と慌てて方向転換した時、視界の隅で何かが動く。

 ――まさか、と真白は息をのんだ。

 このあたりには、なんと熊が出るらしい。


 じっと動かずに目を凝らしていた真白は、木立の影に動いて見えたのが人影だと分かり、ほっと息を吐いた。人影はトワの湯の薄青い浴衣に、首元にはマフラーを巻いている。体格から見て、男性だろう。

 ほっとしたのも束の間、真白は今度は別の意味で困った。

 あそこにある衝立より先は『鬼怒沼』と呼ばれる高層湿原につながる登山道になっている。

 しかし冬場は滑落の危険があるため通行禁止となっているのだ。伊賀からも冬の山へ登ろうとする客はなんとしても引き留めろと言い付けられている。

 人影はすでに木々と重なって見えなくなってしまった。

 真白はしばらくその場で二の足踏んでいたが、意を決してその背中を追いかけた。



「あ……あのう……!」



 大きな声を出すのが、ずいぶん苦手になった。

 真白は必死で足を進めた。

「あ、あの! お、お客さま……!」

 このあたりはもう雪が深く、慎重にならなければ長靴ごと雪にもっていかれてしまう。オレンジの段ボールを抱えながら、真白は必死で宿泊客の背中を追いかけた。

「はぁ、はぁ……お、お客さま!」

 五十メートル程先で、男性がようやく足を止めた。

 真白はこれ幸いと雪を踏み越えて宿泊客との距離を縮める。


「あの、もうじき暗くなりますから、宿へ……」


 顔を上げる。そこから先の言葉は、続かなかった。

(――え)

 男の異様さに、真白はこの距離になってようやく気付いた。


 男のまとう浴衣は肩から背にかけて赤黒く変色している。血のようにどす黒い赤に。裾はボロ布のように破けて膝下あたりでほつれ、そこから伸びる足は赤く、むき出しのまま雪の中に突き刺さっていた。


 真白がマフラーだと思い込んでいたものは、マフラーではなかった。男が足を止めた拍子に片側がずり落ち、得体の知れない動物の死骸であると分かったのだ。


 真白は全身青ざめて震えながら、ある一点から目が離せずにいる。

 男の背中だ。

 そこに、とうてい人間の骨格とは思えない突起が二つ。浴衣を押し上げて突き出している。

「あ、あ……」

 逃げ出そうとした途端、ソレは振り返り、熟れたザクロのような瞳が真白を捉えた。


(人じゃない)


 そう気付いた時には、雪の中に押し倒されていた。狼のように一息に詰められた距離を前にどうすることもできなかった。

 真っ赤な肌。上唇を押し上げる牙。額には、黒々と光るツノ。ザクロの目に、縦長の瞳孔。


 おにだ。見紛みまがいようもなく。


 真白の肩を掴み、雪の中に留めるのは、鬼。

 不意に胃を蹴り上げられるような激しい嘔吐感に襲われ、真白は横を向いてそれを堪えた。

 視線の先に自分の肩を押さえつける赤黒い手が目に入る。

 太く節くれだった指一本一本に、人の喉など簡単に押し潰せてしまえそうな筋肉がある。厚みのある爪は黒ずんで尖り、腕には大きな数珠の腕輪が巻かれていた。

 子供の頃、母がしてくれた昔話の鬼。あれはニセモノだった。

 本物はきっと己を描かせることを許さない。


(――私、今から、食べられるんだ!)


 恐怖でうまく息が吸えず、はっはっ、と呼吸が荒くなる。

 鬼は動かない。きっと今、どこから食おうかと考えているのだろう。このあとすぐにでも足を引きちぎられたり、頭からバリバリ食われたりする。

 恐怖でぼろぼろ涙が溢れた。

 真白はたしかに一度死のうとした。けれど、こんな痛い死に際なんか望んでない。

 とうとう鬼の手が肩から離れ、真白は痛みに備えて歯を食いしばった。

 そして、何も起こらない数秒間が訪れた。

(……?)

 困惑しながら、おそるおそる、うっすら目を開ける。

 すると真白は、今度は眼球がそこに縫い付けられてしまったように動けなくなった。


 鬼が泣いていた。

 真白よりもっと大粒の涙を目の縁に溜めては、こぼし、溜めては、溢し続けた。

 鬼が、やっと口を開く。


「――人の言葉は、話せる」


 この世の邪悪を詰め込んだかに見えた鬼の声は、まるで春の木々の葉擦れのように、静かで寂しげだった。


「おれは、おまえを食わないから。傷つけないから。だからお願いだから……、聞いてくれ」


 鬼の乞うような言葉を聞いて、真白の中の鬼を恐ろしいと思う気持ちは消えてしまった。

 半身を起こして鬼を見つめる。

 そして迷子の子供のように泣きじゃくる鬼を前に、

 わかった――、

 と、気付けばごく当たり前のように、そう返してしまっていたのだった。

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