トワの湯物語
岡田遥@書籍発売中
プロローグ
ウミガメの吐く泡になって、のぼっていきたい。
「
あの父が取り乱してる。
だからひどく驚いて、私は状況も忘れ、まじまじとその顔を見つめてしまった。
「真白! い、今救急車、救急車呼んだから」
ぴんと皴一つないワイシャツは、出勤前、スチームアイロンを丁寧にかけて出勤する父の謹直さをよくあらわしている。それがまだらな血の色に染まってしまったので、私は申し訳なくなって、ごめんなさいと謝った。
ワイシャツのことなのに。
父が悲しみに頬をぶたれたような顔をしたので、また間違えたと思った。
「……どうして、真白」
どうして?
――たしかに、どうしてだっけ。なんで私、
物を隠されて、服を汚されて、水をかけられなければいけなかったんだっけ。
考えようとすると、やるせなさと悔しさで、うまく息が吸えなくなる。怨みで胸がいっぱいになる。
だから私、感情の小瓶に
手のひらが痛むほどきつく固く閉めた。そうすればだんだん苦しくなくなる。悲しいのも嬉しいのも分からなくなって、無気力に支配される。
そうだ。だから私、もう死んでしまおうと思ったんだ。
何にも心を動かさないようにするにも、それをするために「無」を意識する必要があって、それでも隙あらば込み上げてくる――――不安を、もっと色濃くして、さらにそこに焦燥感を取り混ぜたような、言いようもなく暗く重たい感情に支配されるのに、ほとほと疲れてしまったから。逃げ出したかったから。
それは、心臓と肺の隙間に、しっかりとした弾力をもってみっちり詰まる臓器として、確かに存在を感じられるほどに、私の呼吸を苦しくさせて、胃を圧迫して食欲を失くさせた。
私が死んで、紗希がすこしでも後悔すればいいと思った。
お父さんがこんなに狼狽するだなんて、すこしも考えなかった。
「……お父さん……」
意味もなくただ呼ぶと、父の震えた手が私の手を痛いほど握り込んだ。
パパと呼ぶのをやめた時も、「もう授業参観に来なくていいよ」と言った時も、こんな顔はしなかったのに。ただ「そうか」と言っただけだったのに。
(お父さんって、私が死んだら嫌なんだ)
そんなことを思って、意識を手放した。
気が付くとベッドの上に居た。
私の横には知らない男の人が立っている。
深い藍染のはっぴを着た、父と同じくらいの歳の、すこし怖そうな雰囲気の人。けれど不思議な光彩の瞳は野心的にきらめいて、それがどことなく父に似ている。
その父はといえば、男の人の後ろでやつれた顔で立っていた。
私は目が合わせられなかった。
「はじめまして」
男の人の声はかたい。けれど威圧的ではない。
まるで緊張しながら、ひとつひとつ、ていねいに言葉を選んでくれているみたい。
「俺は、日光の山奥で〝トワの湯〟という温泉旅館の主をしている、
「…………おん、せん」
口の中が渇いて、呟いた声は上手く音になっていない。
馬鹿みたいに繰り返した私を見て、一瞬だけ、伊賀さんの目が潤んだ気がした。
しかし次の瞬間にはもう、迷いのない声と、強い瞳が、真っすぐに私を射抜いていた。
「真白ちゃん」
伊賀さんは言った。
「君さえよければ、俺たちの宿に来ないか」
私はこの日、ただ逃げ出したくて。
誰も私を知らないところへ行きたくて。
たったそれだけの理由で、気付けば彼の誘いを受けていたけど、まさか逃げ出した先で鬼に会うとは思わなかった。
鬼のように怖い人、という意味でも、仕事の鬼とか、職人的な意味の比喩でもない。
妖怪や神様は自然現象に名前を付けただけの存在で、実際には存在しないけど、鬼というのは実は人種の一つで、ちゃんと実在するんだよ。そんな説明を誰かにしたってかまわないほど、はっきりと、実体験として、私は鬼に会ったのだ。
その鬼は、自らをアギと名乗ると、木々の葉擦れのような声で私に言った。
まだ何一つ仕事を覚えていない、半人前にすら到底いたらない、役立たずの私に向かって。
「おれと一緒に、この宿を日本一の宿にしよう」
と。
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