第6話

 誰も寄らない棟の薄暗い廊下。

 誰も気にしないから劣化していてもそのままの照明。

 すべてをかき消すような雨が打ち付ける音。

 

 ぽつんと一つだけ、またあの部屋にだけ明かりがついていた。


 誰かいる。

 体が引き返そうとする。

 

 光が漏れているということはそういうことだ。

 でも、引き返すわけにはいかない。

 惰性に任せて僕は足を前に動かす。


「おはよう、ございます」


「おはよう」


 部屋には、やはり彼女がいた。

 静かに目線を逸らしつづけながら、自分の席に着く。

 机の上のガラスに反射する光。黙々と僕は手を動かした。


 ――分かっている。言わないといけない。分かっている。


 手を――止めた。視界の外から彼女の物音が聞こえる。


「ミネルバさん……昨日は」


 言葉が喉に戻ろうとするのを必死に堪え、僕は続ける。


「本当にすみませんでした。ミネルバさんは何も悪くないのにあんな事を言ってしまって……」


「えっ?」


 会話は一方的。続ける言葉もない。


 あとは、何を言えばいい?

 僕は、どうすれば、いいんだ。


「……エレン君。月は好きですか?」


「はい?」


 月……?

 思わず僕は視線の先を彼女の方に向けた。


 その時見た彼女はちょっと困っているような表情をしていた。

 迷っているような、悩んでいるような微妙な表情。


「昨日、私は変わったって、エレン君言いましたよね。でもそれは違います。私は……月、なんですよ」


 何度も感じた彼女が話す時のこの不思議な空気感。


 ――月。遠く届かない存在。

 夜の暗闇を照らし続ける光。ああ。確かにこの人はそういう人だ。


「あ、そうか……これじゃあ、いつもと同じですね」


 彼女は僕の表情を見てそう言うと、何かを決心したように後ろを振り返る。コトっと音がした。

 そして、もう一度彼女が振り返ると、その手にとある液体が握られていた。


 ――見覚えがある。


 それは、彼女の研究を手伝う中で何度も目にした液体とよく似ていた。

 そう、彼女が賞を獲った薬と、だ。


 それを彼女は今、飲もうとしている。


「ま、待って下さい!」


 僕がそう声をあげた次の瞬間にはもう、空になっていた。

 薬が彼女の胃に入っていくのが喉の動きで分かる。


「ああ……」


「……ねぇ、エレン君。……私は。本当は、怖かったんです」


 えっ。


 僕が唖然としている間に、真実の薬を飲んだ彼女はそう言った。

 妙に間があく話し方。喉から言葉を引きずりだそうとしているような喋り方。


「私は、小さい頃からずっと魔法薬学にしか興味がなくて。

 気付けば周りは私の能力しか見ていない大人ばかりでした。……でも、私は、期待されているほど出来た人間でもなくて。自分が期待外れな存在であることを必死に隠している人間。それが私でした。

 だから眠り姫の薬を私は死ぬ気で作りました。あの時、あれが自分の存在価値すべてでした。

 だけど、作り終えてから数日経って気付きました。もうそれしか自分に残っていないことに。

 より加速させていたんです。自分の存在価値と自分の才能をイコールで結ぶのを。私には薬の才能しかなかった。

 それだけあれば十分と思われるかもしれませんが、多くの人を敵に回すかもしれませんが、違うんです。私には本当にそれしかなかった。研究結果が私の価値全てだった。

 ……だから、嬉しかったんです。君が現れて。結果を出すために頑張った日も頑張れなかった日も、隣にいてくれる人がいるなんて初めてだったから。

 だけど、長い期間会えなくなって……そう。私は、怖かったんです。会えなかった間にエレン君は変わってしまったんじゃないかって。エレン君が私に言ったように」


「…………」


 そんな……


「本当はこう最初から言うべきでしたよね。、ただいまって」


 後輩、君……?


 胸の奥の鎖が壊れた。

 閉じ込めていた檻が壊された。


 胸の苦しさが増していく。

 一体、この気持ちはなんなのだろうか。辛くて、でも嬉しくもあって。


 目の前の景色がキラキラと鳴り始めた。


 あの日見た景色だ。

 そうだ。目の前に広がる空間は先輩に出逢った時見た、あの研究室だ。


 先輩は――生き返った。


 そっか。僕は勘違いしてた。勘違いしていた。

 世界が違うって思ってた。でも、そうじゃ……


 ミネルバ先輩はこんなことに関しても僕の先を行っていた。

 ああ、そう……そうだ。僕は先輩の背中をいつも追いかけていた。


「流石ですね、先輩」


 そう僕が言うと、先輩はなんだか嬉しそうな表情を浮かべていた。


 ミネルバ先輩はすごい人だった。僕が何回もやって、やっと出来たことを先輩はいつも数回で出来てみせる。

 そう。時計で喩えれば僕は長針で先輩は短針だった。いつも先に彼女がいた。

 

 きっとこれからもそうだろう。

 でも、それでいい。多分、大事なのはそこじゃない。


 ずっと夢の中にはいられない。夢は醒めた。魔法は解けた。

 でも、それでいい。


「不思議な先輩じゃいられなくなりましたかね」


「……先輩、昨日の」


「あっ、やっぱり気になってましたか? この魔法雑貨」


 彼女は笑ってそう言う。


「いやその冗談、なんて反応したらいいんですか……まあ、興味ないわけじゃないですけど」


 困っている僕の姿を見て、彼女はまた笑っていた。

 本音で話した後も先輩は面白い人のままだ。いや、もしつまらない人になっても先輩は僕が好きな先輩のままだ。


「後輩君、魔法薬学は好きになれましたか?」


「好きじゃなきゃ……いや。それはもう少し未来の僕に聞いてください」


 僕は先輩の机の上に視線を落とす。今日はカモミールティーの代わりにコーヒーが置かれていた。

 

 朝から降っていた雨は止み、時刻はもう十時過ぎ。


 僕らは正午を回っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

僕らは未だ十一時 柑月渚乃 @_nano_

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る