8

 私たちは落ち続けた。建物がひとつひとつ判別できるくらい大きく見えてきた。空気との摩擦で肌が熱い。

 死にたかったのかもしれない、と私は思った。〈救済派〉たちに殺された天使たちと同じく、私も死を求めていたのかもしれない。そしてそれは兄さんも同じだった。私の目から、熱い涙がこみ上げてきたが、すぐに上の方へ飛んで行ってしまった。

 突然、生臭い冷気が私を包み込んだ。死神のお迎えだ、と気付いた。当然だ、私たちはこれから死ぬのだから。

 瞬きをする一瞬の間に、黒々とした犬が現れた。それは、(あり得ないことに)地面に四つん這いになっている姿勢のまま、私たちと同じスピードで落下していた。

 地面が近づいていた。下は中央教会の広場だ。

 私は、恐怖よりも安堵を覚えた。これで全てが終わる、と。

 しかしそれは裏切られた。

 地面に叩き付けられる一瞬前に私は兄の腕からすりぬけて、中空に静止した。何の反動もなかった。黒い犬が、私を乗せていた。兄さんが、こぼれ落ちそうなほどに目を開いて、こちらに腕を伸ばしてきた。

 そして、兄さんはそのまま地に堕ちた。

 すこし遅れて、その横に軟着陸した。犬の姿はもうなかった。きゃん、と吠える声が耳の中で聞こえたような気がした。

 私のお迎えはまだだ。そういう事らしかった。

 妙に冷静な気持ちで、兄さんの死体を眺めた。どこもかしこもぼろぼろになって中身をぶちまけていたけれど、皮膚に浮かぶ血栓だけが、天使の死体であることを物語っていた。 横に、翼が落ちていた。私はそれを拾い上げて観察した。黒い結晶は、光を通さなかった。

 結局私は兄と死ぬことも叶わなかった。いや、それだけではない。兄を殺したのは紛れもなく私だった。

 すべてが忌まわしかった。

 建物から人が出てくる気配を感じて、私は路地へと走った。

 彷徨っているうちに夜になった。あちこちで怒号が聴こえ、たいまつを持った人々が走り回っていた。

 気付けば、男の家に戻ってきていた。一番危険な場所だ、引き返せ、と理性が引き止めていたけれど、あまりに疲れていた。もう、どうでもよかった。

 灯りは点いていなかった。足音を立てないように食堂へ入ると、無事か、と声を掛けられた。反射的に刃を構えた。食堂の椅子の一つに、男が座っていた。顔の上半分を包帯で覆っている。

 言葉を失っていると、男は飄々とした様子で肩をすくめた。

「お前のおかげで死に損ねたよ。絵描きはもう廃業だな」

 男は何ともないように笑って、傍らから把手のついたケースを取り出した。

「これを持っていけ」

 それを受け取って、机の上で開けた。たくさんの絵が入っていた。天使の〈血〉で書いたものだと、すぐに気付いた。

「これを……どうしたらいいのですか」

「どこかに飾ってくれ。目立つようにな」

 椅子から立ち上がって、私の頬に手を添えた。

「生きろ。どんな手段を使ってもいいから……硝子になんか、なるなよ」

 窓硝子に、血細工師の女が戸口に現れるのが映った。私たちの話が終わるのを待っていたらしい。

「時間だな。しばしのお別れだ」

 男は私の胸を指でトンと押した。操り人形になったような心地でケースを掴み、女に連れられて食堂を出た。「たまには会いにきてくれよ」と言うのが背中越しに聞こえた。

 裏口が開くと同時に馬車が来て、中へと押し込められた。窓から後ろを見ると、黒衣の男が何人か路地から現れて、館へ入っていくのが見えた。乾いた銃声が、頭の中で響いたような気がした。

「私は何をすればいいのですか」

 乾いた舌をどうにか動かして尋ねた。女は面倒そうに首を傾げた。

「特には何も」

「何も……」

「『せめて何もさせないでやってくれ』って言われてるしね」

 

 隠れ家を与えられた私は、しばらく本当に何もしないで過ごした。退屈はしなかった。時間が瞬く間に溶け去って、いつも気付くと寝る時間になっているのだった。

 数日経ったある昼下がり、預けられた絵のひとつを取り出して、机に広げた。

 誰か、あの家を訪れたらしい天使の絵だった。食堂で読書をしている。傍らには食べ掛けのオレンジと紅茶。

 次々に、絵を広げて行った。会ったこともなければ、もう生きているかも定かでない天使たち。そして、最後の一枚が私だった。アトリエが西陽に輝くあの時間が、そのまま切り取られたような絵だった。私の背中のあたりに翼が木炭で描き込まれているのが下絵から透けていた。

 私は手の皮膚を噛み切って、〈血〉を編んだ。ある程度の厚さのある一枚の布。それを絵の上に被せると、色とりどりの〈血〉が布の方に遊離した。そのまま静かに〈血〉を切ると、小さなステンドグラスになった。

 支えがわりになるものを持ってきて、窓の方に向けて立てた。机の上に、かすかに伸びた像が映った。今にも動き出しそうに見えた。

 私は、ほとんど空っぽになったキャンバスを取り上げた。

 黒ずんだ赤だけが、キャンバスの上に残っていた。

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斑の末裔 暴力と破滅の運び手 @violence_ruin

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