7

 意識を取り戻したときにはもう、私は兄さんに背負われて空を飛んでいた。もうだいぶ高い所まで来ていたが、てっぺんの方まではまだ時間があった。

「……いつから天使を殺していたの?」

 兄さんの身体がびくりと強張ったけれど、返ってきたのは優しい嘘で包まれた言葉だった。

「もう起きたか」

「答えて」

 兄さんの身体は冷たくなっていく。私はそれにそっと触れて、兄さんの方を見た。

「……俺がここを追放された時、俺はしばらくした所で〈エッグ・スタンド〉の者に迎えられた。そういう手はずになっていたからな。

 そいつと村に向かって歩きながら、それからの話をした。組織の事、仕事の事、待遇の事……俺は村に入れてもらう引き換えに、〈エッグ・スタンド〉の構成員になることになっていた。

 俺はそれでもいいと思っていたが、不安だった。何せ、〈血〉がないんだ。組織に行ったとしても、何もできない。そう言ったら、〈血〉は輸血することが出来ると使者が言った。

 普通の村人たちから血を分けてもらい、保存している。似た色の血なら体内に入れても拒絶反応が起こらない。殆ど空っぽになったお前なら何の色でも入れることがある。

 なるほどそれなら大丈夫だろう。俺は安心して、他の話をしていた。

 それからも色々な話をした。その中で、使者がこんなことを言った。

 お前の兄弟がここにいなくて、残念だよ。〈透明な血〉がこちらにあれば、教会との交渉も有利に進んだだろうに。

 どういうことだ、と俺は訊いた。

 決まってるだろ、とそいつは答えた。

 何でお前に目をつけたと思ってる。〈透明な血〉を得る為さ。……まあお前は幸せだよ。もし二人で村に来てたら、二人とも血を抜いて殺されてたさ。

 使者は前を歩きながらヘラヘラと笑っていた。俺は少し考えてから、トンネルってのはどこにあるんだ、と訊いた。

 ああ、知りたいか? ここから一日くらい歩いたところに、灌木があるんだ。そこの根元だよ。

 そうか。

 そして俺は背中の血栓を引き抜いて、そいつの心臓に刺した。燃え上がる前に〈血〉を奪い、身ぐるみ剥いで俺のものにした。

 それが最初だった。

 それから俺は翼を編んでトンネルの所まで飛んでいって、〈温室〉に入った。後は身を隠しながら、〈血〉を集め続けた」

「……どうして、一人だけで済まさなかったの?」

「大きな翼が欲しかったんだ。この砂漠を渡りきれるくらい。

 一つだけ弁解をさせてくれ。俺は、そう望んだ天使以外からは、〈血〉を取らなかった」 

 私は顔を上げて、外の世界を見た。

 夕陽が地の底に溶けていこうとしていた。その下には、一面の熱砂があった。赤くひび割れた大地に生きるものは何もない。ただ、燃えるように赤い砂が、どこまでも果てしなく続いている。

〈温室〉のようなものや集落はどこにもなかった。四方八方を見回してみても、どこにもなかった。

「本当に、向こう側には何かがあると思ってる?」

「思ってるさ」

 私は何も返せなかった。

 この世界は〈温室〉と無限の砂漠で出来ている。神話ではそう言われている。私はそう聞いた。

 もしかしたら無限の果てには違う〈温室〉があるかもしれない。天使のいない世界もあるかもしれない。

 兄さんの翼は、昔見た時とはくらべものにならないほど大きかった。図版でみた、原初の黒天使を思い出した。このままなら本当にこの砂漠を渡りきれてしまうかもしれない。

 それでも、と思う。

 私は鱗のはがれた爬虫類で、兄さんは翼を身体に格納できなくなった化け物だ。新天地に行ったところで、まともな生活が出来るわけがないじゃないか。

 なんて愚かな兄さん。そんな事を考えもしなかった訳もないだろうに。

「何を笑ってるんだ」

「ううん、別に」

 私たちは天井に近付いていた。そろそろ天使の硝子が張られた区域も終わるころだ、と思った。ふと横を見れば、少しひび割れた硝子があった。それはきっと、あの時に傷を付けた硝子だろう、と思った。私の頭に、

 私は翼から羽毛を一本抜いて、右の掌を切り裂いた。そして、斧を編んだ。 

「兄さん」

「ん? どうした?」

 兄さんは上だけを見ていた。私は斧を握りしめた。

「許して」

 右の翼の根元に、刃を思い切り叩きつけた。それは驚くほどあっけなく切れてしまった。重力に従って、それは下へと落ちていき、同時に兄さんの身体は左へと傾いだ。

 しばらくの間は私たちは慣性の法則どおりに上昇を続けていた。兄さんは身体を捩って止めようとしたけれど、私は左の翼も切り落とした。

 それが合図だったかのように、私たちの身体は落下をはじめた。最初はゆっくりと。次第に加速をつけて。視界の枠に窓枠が写る頻度が、どんどん早くなっていく。

 兄さんは茫然としていた。

「どうして……どうしてこんな事に……」

 私は斧をほどいて、兄さんの顔を両手で包んだ。

 兄さんは私の顔をしばらくどうしていいかわからないように見ていたが、やがて私を抱きしめてくれた。

「……一緒に死ぬのが最後の望みだったんだ。だから許す。……許すよ」 

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