6

 彼は、私に宿題を出した。それは、翼を出してみろ、というものだった。

「お前が部屋で血を編んでいるところを見たからな」

「覗いていたのですか」

「いや、茶でも持っていこうと思ったら、ちょうど……」

 私は呆れ返った。剣も見ていたに違いない。

 食堂に紙束が山と積まれた。人間が翼で飛行することに関する仮説や、鳥の翼の構造についての論文だった──もちろん、どれも禁書だ。彼にどうやって集めたのかと訊くと、絵の資料として集めた、と嘯いた。

 どうせ他にやることもなかった私は、ピアノ(再開した)と絵のモデルをする合間に、あるだけの本を読み進めた。たまに男が食堂にやってきて、茶々を入れてきた。

「こんなやつでどうだ」

 木炭で描かれたデッサンを論文の上に置かれる。筋骨隆々たる背中から蝙蝠のような巨大な翼が生えている。ご丁寧に尻尾付きだ。

「ドラゴンじゃないですか」

「強そうでいいだろうが。兄貴に負けんなよ。このくらいのもん作ったらどうだ」

「一体あなたはあの論文から何を学んだのです」 

 そんなこんなで日々が過ぎた。

 骨格や羽根の構造を学び、その通りに〈血〉を織った。見た目上は、翼と呼んでもさしつかえないものを作れるようになった。かなりの集中を要する作業であるため、織った後は泥のような眠りに就いてしまうのだが。

 絵に最後に書き足すために翼を作らせようとしているのだろう、と私は思っていた。だから、アトリエでモデルをしている時に、翼を出せるようになったことを伝えた。

 男から返ってきたのは詰問だった。

「飛ぶ練習をしようとは思わなかったのか?」

「しませんよ。見られたらどうするんです」

「そんなことはどうでもいいだろう」

 筆を投げ捨てて詰め寄られた。私はベッドの中で後退った。

 するまでもない、というのが私の結論だった。やはり、私がいま持っている〈血〉だけでは、とても私の身体を浮かばせるほどの浮力を得ることはできない。そのことについては本を読むにつけても自分で試すにつけても確信が深まってゆくだけだった。

「無理です。私には飛べません」

「試したことがあるのか?」

「でも本には」

 肩を掴んで引きずり起こされた。爪が肩に食い込んだ。

「お前のバカ兄貴以外に、試した奴を知ってるのか。あの紙屑を書いた奴らに、実際に天使の翼を見て書いた奴が一人でも居たと思うか。

 誰がお前たちから翼を奪ったと思う。奴らはお前たちから翼の編み図を不当に奪って、慰み者にしているとは思わないのか。

 俺に、お前は救えないのか……」

 私は身じろぎひとつできぬまま、嗚咽を聞いていた。

 壁にかけられた一枚の絵と目が合った。

 天使の肖像画だった。天使の上半身が淡い菫色の単色で描かれている。全体的には水彩画のように薄い色調だったが、斑状結晶は油彩のように濃く塗られていた。析出が大分進行してた天使で、下は腹から上は頬骨の辺りまでいびつな象嵌が連なっている。見ているとほんものの眼が沢山あるような錯覚に陥る。それは醜い生き物だった。宗教画に描かれるような悲劇性も、崇高も、何一つ含まれていない。精密に、現実の生き物としての有様を映している。

 だからこそ美しいものだと思えた。

 私は両手を背中に回して、血栓を引き抜いた。

 少しの間をおいて、糸が奔流のように流れだす。皮膚感覚が外界に拡張されるこの瞬間は、いつもめまいを起こしそうになる。糸に触れる外気の冷たさに震える。部屋に漂う煙草や血の匂いを嗅ぎ、味わう。一本一本が空気と触れ、摩擦を起こすのを聴く。それらのざわめきはいつも耳障りだったけれど、今日は心地良い。

 限界まで大きな翼を作ろうと思った。この小部屋いっぱいに広がるような所まで骨を伸ばした。重さに背中が悲鳴を上げたけれど、構わなかった。筋肉を〈血〉で補強し、皮は金属よりも硬くなめし、羽根でそれを覆った。

 流石に制御がしきれない。透明な羽毛が部屋中に飛び散って、夕陽の中で金色に輝きながら落ちてゆく。男の脇に置いてある姿見に私が映っていた。貧相な上半身を、相変わらず透明な斑状結晶が螺鈿のように覆っている。翼が橙色に燃え上がっている。部屋中が反射光で満たされている。

 男が音を立ててベッドから降りた。涙を流しながら笑っていた。

「やればできるじゃねえか。なあ、飛んでみろって」

「でも……」

「お前だけだよ。飛べないって思い込んでるのは」

 部屋が暗くなった。窓の前に何か巨大で黒い物が現れたのが見えた。

 私は反射的にしゃがみ込み、男の身体を翼で包み込んだ。

 爆発的な風が、硝子を突き破って入ってきた。砥いだナイフのように鋭い風が踊り狂い、幾千回も翼の表面をなでた。透明な翼越しに、部屋中の物が千々に切り裂かれていくのを見ていた。ベッド。壁に掛かった絵。彼は額から血を流して倒れた。血が翼を汚した。私はそれを遠く隔たった世界のできごとのように見ていた。

 風が収まると兄さんが現れ、血の海を踏んで私の前に立った。

「殺すことはなかった」

 私は震えながら翼の〈血編み〉を解き、身体の中に〈血〉を戻した。

ほだされたのか?」

「何を……」

「迎えに来た」

 私は後ずさった。その拍子に、足の裏に何かが刺さった。

「昔は失敗した」

 兄さんが私の肩を掴む。兄さんの荒い息が掛かる。私は顔を背け、足元を見た。

「でも今は違う。俺は力を手に入れた」 

 〈血〉が入っていた小瓶の破片が、たくさん転がっていた。男の血の海の中に、〈血〉が沈んでいた。翡翠、菫、藍色――様々な色の〈血〉があったが、それらが混ざり合った部分は黒ずんで見えた。

 電撃が走ったような気がした。

 血を失った天使の死体。兄さんは黒い血を貰ったわけではない。

 兄さんが生き返った訳。それはきっと。

「〈血〉を奪ったの?」 

 口に出してしまってから、それが言ってはならぬ言葉だったことに気付いた。兄さんの顔が歪んだ、と思うか思わないかの間に、首に強い衝撃を受けた。

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