5
兄さんのことを男に言おうか言うまいか、私は迷った。
天使の脱走はもちろん重罪だが、それを防げなかった聖職者にも同じくらい重い罪が課される。だから、話したら私を必死になって止めるだろう。〈教会〉の熾天使たちがやってきて、兄さんは殺されてしまうかもしれない。それは嫌だった。
だが、逆に私は外の世界に行きたいのかどうかわからなかった。私は〈温室〉の硝子になる以外の未来を考えてもいなかった。兄に連れられて外に出る、ということがどういうことなのか、私にはうまく想像できなかった。
私は部屋に篭ってずっと考えていたけれど、答えは出なかった。
扉をノックする音が聞こえた。この家にいるのは基本的に彼ひとりだけということが分かっていたから、私はドアを開けた。
「一日中部屋にいて楽しいか? アトリエに来いよ」
そう言うと、こちらの反応を見もせずに踵を返した。私は戸惑いながらもベッドから降りて、男の後についていった。
アトリエに入ると、男はキャンバスの前に座って画材を準備していた。
「お前の絵でも描こうと思ってな」
キャンバスと差し向かいになるように、椅子が置かれていた。後ろには窓があって、色の濃い夕陽が差し込んでいた。私はそれを見るなり硬直していたが、男は構わず準備を進めた。
「〈血〉が……」
私はそこまで言って、口をつぐんだ。自分から話しかけるなんて。男は顔を上げて、顎で続きを促しただけだった。
「私の〈血〉は、絵を描く役には立たないでしょう」
「色ならいっぱいある」
男は一顧だにせず小瓶の入った箱をガシャガシャと鳴らした。
「罰当たりだなんて申しなさんな。奴らも本望だろうよ」
調子のいいことを言うではないか、と呆れ返った。部屋に帰ろうかとも思ったが、さりとてどうせやることもない。私は渋々応じることにした。
言われたとおりにシャツを脱ぎ、腰に布を巻いて座った。夕陽が眩しい。顔がちりちりと熱くなった。男は煙草に火を付けてゆっくりと吸い込み、紫煙を深く吐き出した。それから、私を見据えて筆を滑らせはじめた。
私たちは、日没までそうしていた。キャンバスが見えなくなった、と言って男は筆を置き、私に服を投げて寄越した。
「お前がここを出る頃までには出来上がるだろうさ。夕飯を食おう」
通りすがりに、髪をぐしゃぐしゃにされた。なぜか、兄さんのことを思い出した。昨日の記憶ではなく、昔の記憶を。
起きて身支度をし、だいたい決まった時間に男と食事をする。たまに血細工師の女が訪問する。夕方から日が沈むまでの短い時間、絵のモデルをする。これが私の一日だった。
空いている時間にはピアノを弾いた。
最後にこんなにゆっくりとピアノと向き合ったのは、施設にいた時以来かもしれなかった。何回かは弾いただろうか。教会付きの天使として働きはじめてからの記憶は塗り潰されたような感じがして、はっきりと思い出せない。指は一番弾けていたころとは別人のように衰えていたが、毎日続けているうちに段々と勘が戻ってきた。
それで、ピアノを弾くのをやめた。
「おい、ピアノはどうした」
滅多に声を荒げない彼に詰問されて、面食らった。ちょうど食堂で読書をしていたところだった。私はつとめて平静な声で答えた。
「やめたんです。あまりに長く弾いていなかったから、何も思い出せなくて」
「もうじき死ぬのにこんなことをしたって虚しいだけだ、ってところだろ」
図星だった。本から目を上げずにいると、向かいの席に座ってきた。厳しい顔をしていた。私は目をそらした。
「〈血〉を寄越してきた天使たちは、なんて言ってたと思う」
「知りません」
「自分がいた痕跡が残らないのが怖い。死ぬのが怖い。……決まってそうだった」
「私はそんな恐れとは無縁です。壁面の硝子として、〈温室〉を祝福し続けるのだから」
「本気か?」
頭が真っ白になった。知らず、本を机に叩きつけて立ち上がっていた。
「好きでこんな〈血〉を持って生まれたわけじゃない! 色のついた〈血〉を、人間の赤い血をどれほど羨んだと思っている! 聖職者を殺して逃げようと何度考えたと思っている……」
その辺の聖職者に聞かれていたら、次の日にでも硝子にされていただろう。男は表情ひとつ変えなかった。台所のほうに行って、ナイフを手渡してきただけだった。
「好きにしろ」
彼は両手を広げ、目を閉じた。私は毒気を抜かれてしまった。
「別に、あなたを殺したいわけではない」
むしろ逆だ、とまでは言わなかった。
「それなら、それを持って出て行けばいい。止めはしない」
「でも、そんなことをしたら、あなたが……」
「くそ、お前まで最後までいるつもりか? どうして誰も逃げようとしないんだ」
それはそうだろう、と思った。笑おうとして、代わりに嗚咽が漏れた。男が慌てふためくのが滲む視界に映って愉快だったが、涙が止まらなかった。
肖像画ひとつ自分の〈血〉では描けないなんて、知りたくなかった。
私は兄さんのことを話した。彼は、玄関から来てくれるなら熨斗でも付けて返すけどな、と飄々と述べた。
「ドアベルを鳴らして行儀正しく入ってくるわけがないでしょう」
「勝手に入ろうとするなら追い出すさ」
打ち返すような仕草をしながら磊落に笑う姿を見ているうち、私の怒りはすっかり萎えてしまった。
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