4

 兄さんが〈温室〉から追放されたのは、ひとえに私のせいだ。

 私の〈血〉は透明だ。透明な〈血〉を持つ天使が生まれる事はめったにない。数十年に一度だといわれている。その時双子の一人は父母両方の〈血〉を受け継ぎ、もう一人が透明な〈血〉を持つ。

 そして、透明な〈血〉を持つ天使は〈血〉の量が最大になる成人の日に全ての〈血〉を抜かれて列聖される。

 〈温室〉の壁に張られる硝子は、透明な〈血〉を編んだもので出来ている。この都市国家を覆っている〈温室〉の全ての硝子がそうである訳ではなく、新しい〈血〉の硝子を得るたびに嵌め変えている。 そして、全ての硝子を嵌めかえた時、この〈温室〉はその硝子を通した光に満たされて祝福され、神が戻ってくるのだと信じられている。 

 兄さんは私を待つ運命を知っていた。

 私が物心つく頃から兄さんは、血編みの訓練や翼の構造についての勉強にすべての時間を捧げていた。理由を知らない私はどうして遊んでくれないのかと怒った。いちど施設を出てしまえば天使は散り散りだ。だから、兄さんはとても焦っていた。

 時々、あの期間にどうして兄さんのことを手伝わなかったのだろうと悔やむ。そうでなくとも、自分一人で飛べるようになればあんなことにはならなかったのだ。

 施設を出て仕事に行かされる少し前のことだった。兄さんが、準備が出来た、と言って、私を連れて宿舎を抜け出した。

 星のきれいな夜だった。食堂から盗んだ最低限の食料と水を携えて、庭で一番高い木に登った。施設の中でも会うことがなかなかなかった兄さんは、間近で見ると人間のものとは思われないほどに筋骨が隆起していた。血糸で増強を施しているのだ、と言った。飛ぶために必要な処置だったらしい。

 兄さんはそのまま、翼を編み始めた。

 まず肩甲骨のあたりにある背中の血栓を二つ抜いた。あらかじめ抜いて改造したものだった。すぐにそこから糸が迸り出た。

 糸を縒り合せて編み、骨組を作り上げた。そこから筋肉らしき構造体を発生させていき、皮膚がぴっちりと外側をカバーする。そして最後に羽毛が生えた。

 宗教画でしか見たことの無い、翼の生えた天使がそこにいた。

 ――飛ぶぞ。

 私は兄の背中にしがみついた。腕の下で、背中の筋肉が音を立てて膨らんだ。

 翼が押しだした空気で、周りの木がたわんで枝が折れた。一回、二回、と羽ばたきを繰り返すうちに、周りに乱気流が発生した。死神みたいだ、と言ったら兄さんが昔みたいに笑ってくれた。

 そして、身体が浮き上がった。羽ばたくたびにどんどん高度が上がっていく。私は思わず歓声を上げた。顔を上げて後ろを見ると、施設の職員や天使たちが顔色を変えて出て来るのが見えた。大人たちの手で何かが光っている。

 ――銃だ。

 ――撃たれる心配はないさ。この風でまともに狙えるもんか。

 すぐに人々は豆粒くらいの大きさになってしまった。マズルフラッシュが遠くでひらめいたけれど、私の目には祝砲のように見えていた。

 快適な空の旅だった。星ぼしが段々と近づいてくる。このまま飛び続けて一番上の方まで行き、それを破って逃げるんだ、と兄さんは言っていた。施設の外の建物を見るのは初めてだった。私はそれに見とれていた。

 鉄道が走っていることをはじめて知った。中央教会はそれだけでとても大きかった。人がこんなにも沢山住んでいる事を知り、こんな時間でも町からは明かりが絶えないのだと知った。温室の壁面に近い方には畑や果樹園、牧場があり、普段私たちが食べているものがどこで出来ているかを知った。

 そして、温室の巨大さを知った。

 ――ねえ兄さん。神様はどうやってこの温室を作ったのかな。

 ――さあな。……外も見てみろよ。

 言われるがままに外へ目を向けた。

 そこには、何も無かった。いちめん、砂漠が広がっているのが見えた。砂と、枯れ木、それ以外のものは何も無かった。

 ――何もないだろ?

 私は呆然としながら頷いた。

 ――でもな、外に出て三日三晩以上飛んだ先に〈温室〉を追放された天使たちの村があるらしいんだ。そこで二人で一緒に暮らそう。

 天使だけの村。そいつは素晴らしい。いいね、と私は無邪気に喜んだ。でも。

 ――どうしてそんなこと知ってるの?

 ――……どうでもいいだろ、そんなこと。 

 ――ふうん。まあいいよ。村に着いたらまた訊くから。

 私たちはそのまま飛び続けて、やがて一番上のほうにたどり着いた。

 ――この辺はきっと、ただの硝子だ。

 枠の上に着陸して、硝子を叩いた。拳で叩き割ったりは出来なさそうだった。

 ――おれは翼をしまえないから、切ってくれないか。出来るだろ?

 そう言うなり兄さんは枠に座り込んでしまった。だいぶ息が荒い――だいぶ無理をしているのだろう。私は頷いて懐からナイフを取り出し、掌を切った。

 鋸を編み、硝子に刃を突き立てていく。刃は確実に硝子を抉っていくけれど、そうすぐに向こう側へ突き通りそうにはなかった。それに兄さんは明らかに休憩が必要そうな状態だったので、急がず切ることにした。

 半分くらいまで刃が通ったころだった。

 何か、なまぐさいにおいが鼻をついた。違和感を抱く間もなく、冷たい空気が首筋をちくちくと粟立たせた。氷なんかとは違う、有機質で湿っぽい冷たさだった。

 私はゆっくりと後ろを振り向いた。

 夜闇の中に、一際黒々とした何かが浮かんでいた。何かが存在しているわけではなかった。ただ、影があった。厚みのない影が、そこにぽっかり浮かんでいる。そしてそれは四肢をもった生き物の形をしていた。

 それは、お伽話で聞いた通りの死神だった。

 皮膚がかすかに向こう側に引っ張られるような感覚があった。きっと今、犬の方に周りの空気が吸い込まれている。――かまいたちがやってくる。

 ――伏せろ!

 兄さんが翼を広げて、私を後ろに庇った。私のわめき声は風が立てる獣じみた咆哮にかき消された。

 そして次の瞬間、兄さんの身体は無数の切り傷が開き、大きく傾いだ。

 ――兄さん!

 手を伸ばすことも叶わず、兄さんは視界から消えた。私は絶叫することしかできなかった。呆然と見下ろすと、根本から断ち切られた翼とともに、力を失った身体が下へ下へと落ちて行くのが見えた。冗談みたいだった。見る間に小さくなっていき、すぐに暗闇の中で判別できなくなった。

 私はそのまま気を失った。

 しかし兄さんは死ななかった。落ちる寸前で意識を取り戻し、身体に残っていた血でエアークッションを作って地面と身体の緩衝材にしたのだそうだ。しかし大きく跳ね上がった身体は建物の壁に思い切りぶつかり、全身の骨を折った。

 兄さんはほとんどの〈血〉を失った。天使の〈血〉は、固体化した状態で身体から離れると死んでしまう。全身の〈血〉を殆ど使った翼を兄さんの身体に戻すことはできなかった。

〈血〉を失った天使は死ぬか、意識もろくに保てない半死人のような状態になる。そもそも血編みは重罪だ。神が私たちから隠した翼を取り戻そうとする業に他ならないからだ。

 兄さんは歩くこともままならぬような状態で〈温室〉から追放されたと聞いた。砂漠を渡りきったものは居ないと聞いている。追放天使の村には辿りつけなかったに違いない。

 そしてそれから、私は自分の待つ運命を聞かされた。ようやく兄さんがどうしてあれほど私を連れて逃げようとしたのかを理解した。後になって、兄さんは〈エッグ・スタンド〉と内通しているシスターに血編みの手ほどきを受けていたのだと聞いた。

 追放された天使たちがいるという村は、〈エッグ・スタンド〉の手の者が率いているものだった。彼らの村は砂漠を移動しつづけているという。教会は血眼になってそれを探しているが、いたちごっこが続いている。彼らは秘密のトンネルを掘って、〈温室〉の中と外とを移動している。

 すべてどうでもよかった。きっともう兄さんは死んでいる。ならば私もあの時死んだのだ。そう思っていた。

 しかし、兄さんは生きていた。

 どうやって? 〈エッグ・スタンド〉なら、兄さんが追放される日を入手して保護するくらいのことはできるのかもしれない。でも、〈血〉を失った天使を長く生かす術があるとは思えなかった。

 そして、あの黒い〈血〉。

 原初の天使は黒い翼を持っていたと言われているが、今は失われた色だとされている。

 兄さんは、どうやってその〈血〉を得たのだろうか。 

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