3
私は、聖職者殺しに遭ったことが一度ある。
暗い部屋から月がよく見えたから、聖交の間中ずっとそれを見ていた。 聖職者の興奮がそろそろ限界に達しようとしたころだった。〈画師〉は私から離れて窓に背を向ける形で膝立ちになり、私に口で奉仕活動を行うよう指示した。私は仕方なく月を眺めるのをやめ、聖職者の方に向き直った。
部屋が急に暗くなった。
窓に目を戻すと、 漆黒の影がそこに張りついて、月明かりを遮っているのがわかった。 私は死神のことを思い出していた。
硝子が降り注いだ。私は本能的に寝台においてあった燭台を手に取ったが、振り下ろす前に影が私の首を締め落とした。深い灰色の斑状結晶が目に焼き付いた。
目覚めた時にはもうすべてが過ぎ去った後だった。私は血肉の海に沈んでいた。部屋中のありとあらゆるものが切り裂かれ、原型を留めているのは私だけだった。
その後は大変だった。私がやったわけではないという釈明を数週間にわたってし続けなければならかったし、騒ぎがおさまった直後の仕事は血細工師の元へ行くことだった。聖職者を守れなかった罰だそうだ。
守れるわけがないだろうに。学校で基本的な護身術は習うが、最初から殺す目的でやってくる者に勝てる訳もなかった。天使は武器を持つことを許されない。
ただ、ひとつだけ例外をのぞいて。
私はベッドから降り立って机の中を探った。ややあって、ペーパーナイフを取り出した。切れ味は悪くなさそうだった。
掌を真一文字に切り裂いた。
一瞬だけ赤い血が滲み出してきたが、それはすぐに止まった。そして、無数の白い糸――天使の〈血〉がそこから出てきた。傷を修復しようとしているのだ。
私は目を閉じて、天使にだけあって〈血〉を循環させる二つ目の心臓の鼓動を意識した。そこから送り出される〈血〉は、首のあたりを通り、無数の分岐を経て色々な場所に向かう。その道筋をたぐり寄せ、すべてが私の感覚の延長線上にあるというイメージを強く持ち――頭と心臓、全身の〈血〉、そして掌から出ている糸の全てを繋げた。
糸――〈血〉が動きを止め、全て私の支配下におかれたのを感じた。私は目を開けた。動きを止めてぐにゃりとしていた糸の束を、ひとつ残らずぴんと張り掌の上に立たせた。この一本一本が、きっとその辺に売っている絹糸より細く、針よりも鋭く、そして手指のように自在に動かすことができる。このまま人の胴体に押し付ければ、きっと串刺しになるだろう。刺した後に暴れさせれば――臓物くらい簡単に粉々になる。
私は糸を体内からたぐりよせて強固な組織を編み、剣の形に仕立て上げた。柄を握りしめると、身体の中にあったとは思えないほどひやりとした感触が伝わってくる。硝子のように見えるが、硝子くらいなら割る事もなく斬ることが出来る。
久しぶりにやったわりに、そこまで悪くない出来だった。
私は剣をほどいて、代わりに蝶を作り、手から糸を延ばして遊ばせた。
剣のような無機物と違って、蝶のような生き物をそれらしく動かすのには途轍もなく緻密な制御技術が必要だ。私はだいぶ練習してやっと出来るようになったが、兄さんは教えられてすぐに出来ていた。兄さんは血編みの天才だった。
自分で動かしていると思わずに、それが勝手に動いていると思うこと。それでいて、制御を保つ神経を絶やさず持ち続けること。一見矛盾しているが、どちらが欠けても〈血〉を制御することは難しい。
私は蝶になっていた。私は蝶を構成する一本一本の糸に対して仕事をさせようという意志を保った。
こうしていると、夢でも見ているような気分になる。私は羽ばたきながら窓辺に寄っていき、視線をそちらに向けた。
漆黒の影がそこに張りついて、月の光を遮っていた。それは巨大な蝙蝠のように見えた。私は声にならない叫びを上げた。
恐ろしかったからではない。
それが死んだはずの兄さんだったからだ。
「どうしてここに」
兄さんは、ぞっとするほど優しい笑みを浮かべて、私の頬に手を当てた。
「昔言っただろ。迎えに来たんだよ」
私は、翼の色が以前と違うことに気付いた。黒い翼は、夜闇の色を反映しているのではなくて、それ自体が黒い色をしている。兄さんはほほえんだ。
「おまえをずっと探してたんだ。そしたら今日、偶然あの歌が聞こえてきた。
準備ができたら、また迎えに来る」
わたしは何を返せなかった。兄さんの姿は一瞬で夜の帳の中へ消えた。
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