2

 私たちは国を統べる教会に属している。そして私たちは、聖職者の仕事を確認する役人がやってくるまで、彼らの家の外へ出ることは許されないことになっている。

 というわけで役人が来るまでの間、私は完全に暇だった。

 ──部屋が準備できてないんだ。家で暇を潰していてくれ。

 そう言われても、当惑するしかなかった。

 天使の仕事はそう楽なものではない。降りてきた託宣の鮮烈さに耐え切れず前後不覚となった聖職者を励まして仕事をさせることに、派遣期間のほとんどが費やされると言ってもいい。仕事が完遂されないのは天使のせいであるとされる。天使に身の回りの世話をさせる者も少なくはないし、私たちを慰み者にして鬱憤を晴らしたりするのもそう珍しくはない。

 だから、ここまで暇になるのはいつぶりのことかもわからなかった。

 館を探検してわかったのは、男が大変質素な生活を送っているということだった。隠し持っている禁制品といえばタバコと酒くらいで、それもかなり安物だ。調度の類も、他の聖職者たちが持っているような豪奢なものはほぼない。食事は近所の食堂に金を払って持ってきてもらっているらしいが、聖職者たちのもらう報酬に比べたらそう高いものではないだろう。

 唯一目を引くものがあるとすれば、食堂に置いてある縦長のピアノだった。

 ピアノを弾くのは久しぶりだった。私はちょっとの間何を弾こうか考えてから、まだ私が子どものころに兄さんに教えてもらった曲を弾いた。

 私には兄さんがいた。

 私はみなと同じように天使の子供たちが集められる施設で育った。聖職者の中には教会の敷地内で学校を経営する者もいるので見た事はあるが、人間の学校とそう変わったものではないと思う。兄さんとはそこで出会った。

 天使の生殖は教会に管理されている。結晶が発達しすぎて仕事の出来なくなった天使たちが子どもを作る。天使は子孫を残す時、〈血〉を全て子どもに分け与えて死ぬ。天使の母親は常に双子を産み、どちらかに父の〈血〉が、もう片方に母の〈血〉が受け継がれる。だから、天使には必ず兄弟がいる。そして、生まれた子供たちは施設に引き取られる。

 私たちはいつも一緒にいた。気付いた時には、そうだった。私たちは色々な点で対照的だった。私の身体はとても小さかった。兄さんは大きかった。私は力が弱かった。兄さんは力持ちだった。

 私はピアノが得意だった。何かを弾けば、兄さんはいつも誉めてくれた。兄さんはピアノが得意なわけではなかったけれど、一曲だけ知っている曲があった。養育係のシスターに教えてもらったんだ、と言いながら兄さんは施設のピアノをたどたどしく弾いた。教会の裏で人間の子供たちが歌う童謡に簡単な伴奏をつけた、ごく短い曲だった。

 私は兄さんが弾くその曲を一度で覚えきることが出来た。私は兄さんの横に座ってその曲を繰り返してみせた。そうすればいつものように褒めてくれると思っていたし、実際にそうしてくれた。私は嬉しかった。

 でもそれから先、私がいくら頼んでも兄さんはピアノを弾くことはなかった。

 思い出して、少し苦い気分になった。

 とても簡単な曲だけれど、歌うように弾く事はとても難しい。そう気付いたのは最近になってからだった。この曲を歌うとしたら、それは声楽家ではなくて澄んだ子供の声だ。私は歌が苦手だった。兄さんは得意だった。

 私は何度かその曲を繰り返し弾いた。でも、どうしてもしっくりくる弾き方が見つからない。匙を投げて弾くのをやめた。視線を鍵盤からそらして窓に目を向ければ外はもう暗い藍色に沈んでいて、男の姿が見えた。一瞬外に人が立っているのかと思った。戸口に彼が立っているのが映りこんでいた。

「懐かしいな」

 男は窓を開け放した。煙草の臭いの向こうにこころなしか血の臭いがする気がしたが、金物臭いのは風呂に入っていないからかもしれない。

「小さいころ、よく歌ったよ」

 そう言って、男は歌いはじめた。よく聞いてみれば、それはさっきまで私が弾いていた曲だった。

 元になった童謡を聞いたのははじめてだった。私には歌詞が聞き取れなかった(聖職者が使う言葉は、平民の使う言葉とは違う。天使は前者しか知らない)。じっと聴いていると、ふと彼の声が美しいことに気付いた。

 彼は私の方を見てはいなかった。窓の外を見ながら歌っていた。すこしの間逡巡してから、私は左手を鍵盤に置いて、伴奏をつけた。すると男はにやりと笑ってこちらを見た。私は慌てて目を背けた。騙されたと思った。

 玄関の呼び鈴が鳴った。聞かれていたのではないかとびくりとしたが、そんな私を見て男はまた意地の悪い笑みを浮かべ、玄関へと歩いていった。

 しばらくののち、彼は食べ物の皿を掲げ、後ろに女を連れて部屋に戻ってきた。色とりどりのスカーフを幾重にも身体に巻き付け、異様に長いまつ毛に縁どられた目は黒かった。そして指には大きな宝石の嵌った指輪を付けていた。私はそれがどういう人間であるか、瞬時に悟った。血細工師だ。

「安心して。〈血〉を抜きに来たわけじゃない」

 無意識に身を強張らせた私を見て、女はからからと笑った。

 血細工師は天使のあいだでとりわけ恐れられている。血細工師たちは天使の体表に現れた血栓や〈血〉の結晶を抜き出して「読む」ことで託宣を得る。そして、それを「読」んで得た〈血脈〉に沿って宝石のようにカッティングすることにより情報を整理するのだという。 血栓は身体の深部で、骨や筋肉と深く結合している。天使の場合深い傷は〈血〉が修復してくれるとはいえ、血栓を引き抜かれるのは意識を保つこともままならない激痛が伴う。血細工師のもとに派遣されることは、仕事に失敗した天使たちへの一種の折檻だ。 

「綺麗な色してる。硝子みたいに透明だ。闇で売ったらそれなりの値段に……」

「やめてやれ」

 彼は女をいなしながら、食卓の準備をしていった。テーブルの上に、臓物らしきものと野菜の煮込み、パン、それと林檎が数個置かれた。私は手伝おうとピアノ椅子から立ち上がり、彼の手から水差しとグラスを受け取った。女は私の代わりにピアノ椅子に座って、なおも言い募った。

「〈温室〉の外に出たくない? 壁抜け。教会から聞いてるでしょう、透明な〈血〉の天使がどうなるか……」

 私は思わず水差しを落としそうになった。それでも何も答えずにいると、女は心底楽しそうな笑い声を立てた。男がため息をついて、パンを切り分けはじめた。

 聖職者の食事というのは個々人の主義主張によってパンとワインだけであったり、贅の限りを尽くした晩餐だったりする(天使がそれにありつける訳ではない)が、こういうものは初めてだった。街の人間はいつもこういう物を食べているのだろうか。煮込みに入っている野菜や香辛料は食べ慣れないものだったけれど、おいしいと感じた。

 彼らは一体どういう経緯で、こういう生活をはじめたのだろう。私は二人を伺い見たけれど、聖職者らしからぬという点以外何も分かる事はなかった。

 食事の間じゅう、彼と女は市民語で会話をしていた。どうやら天使に聞かれると都合の悪いことを話しているらしい。それがひと段落すると、女が急に「そういえば」と聖職者の言葉で切り出した。

「最近流行ってる天使殺しについて何か知らない?」

 聖職者の言葉で話しかけられた以上、何かを返さなければいけない。私は〈教会〉から言われた言葉を思い出しながら、口を開いた。 「死神のお迎えである、というのが〈教会〉の見解ですが」

 天使のもとに来る死神は、黒い犬の姿をしている。天使が死にかけている時に現れ、死ぬ時にある天使には死を与え、そうでない天使には命を与えるのだという。

「そんなの教会の方便でしょう。そうじゃなくて、天使たちの間ではどういう噂が流れているの」

 なんて罰当たりなことをいう聖職者だろうか。私は助けを求めるように男のほうに視線を向けたが、男は肩をすくめて天を仰いだ。私は仕方なしに口を開いた。

「〈エッグ・スタンド〉のせいであると言われています」

「それも知ってる。でもそれでは彼らが天使まで殺す理由がわからない。生かして仲間にすればいいでしょうに」

〈エッグ・スタンド〉は「天使を腐り切った教会から解放し、真なる信仰を取り戻す」という理念のもとに結成された同盟だ。その彼らが口封じなどという目的で天使を殺していたらお話にならないのは確かだ。

「〈エッグ・スタンド〉の内部で、近年ある派閥が生まれたと聞きます。救済派という名前で、死こそが救済でありそれを与える義務がある、というものです」

 私は女が一瞬息を呑んだように思えた。腐っても聖職者、神を信じる心はあるらしい。

 そう、これはもはや教会というよりは神への反逆行為だ。

「それで?」

 それでも彼女は鋭く続きを促してきた。

「彼らは聖職者たちを殺したのちに、彼に奉仕していた天使にこう訊ねるのだと聞きました。『我らとともに救済を与えるか。それとも救済が欲しいか』と。

 殺された天使たちは『救済』を選んだのでしょう」

 これが知っていることの全てだった。私は口を閉ざした。女はしばらくの間言葉を失っていたが、やがてまた私を見据えた。

「〈血〉を抜き取られてから殺された天使も、〈救済派〉の仕業?」

 今度は私が言葉を失う番だった。

「それは初耳です」

「天使の死体が灰になるのは、〈血〉が燃え上がるからでしょう。でも、『救済』された家のいくつかでは、天使の屍体がそのまま残っていた──血栓までひとつ残らず抜き取られて、穴ぼこだらけになった身体が。

 困ったことに、血細工師たちが疑われていてね。血栓をありがたがるのは血細工師と一部の好事家くらいのものだから」

 何か知らない? とでも問いかけるように女は言葉を切った。私は震えながら首を横に振った。

 女が帰ったあと、私は二階にある部屋に通された。

「自室として使ってくれ」

 ここもまた殺風景な部屋だった。白いリネンの張られたベッド。書き物机には、文房具と燭台、それと水差しとグラスがひとつずつ。カーテンのない大きな窓がベッドの後ろにあって、向かいの家の上に三日月が鎮座しているのが見えた。

「おやすみ。おれは寝る」

 それだけ言って、男は寝室に戻ってしまった。一人おいてけぼりにされた私はベッドにもぐり、女に言われたことを反芻した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る