斑の末裔

暴力と破滅の運び手

1

 彼の館に出向いた日、〈温室〉の中は雲が立ち込めていて、全てのものが灰色に見えた。

 コンクリートのアパートメントが立ち並ぶ中で、彼の館は浮いていた。聖職者の家は一目でわかることが多いが、ここもそうだった。

 黒い傘の中から館を見上げ、そのまま気が済むまで眺めることに決めた。漆喰の壁。黒い柱。ガラス窓。尖塔。そのてっぺんの、十字架。その配置を覚えるまで見てしまうと、私はポーチに入って傘を畳んだ。手で外套についた水気を払う。顔を上げると、玄関の硝子窓に私の姿が映っていた。

 私はベルを鳴らして、ぼんやりと待った。 

 細かく波打ったすり硝子には、ぼやけた像しか結ばない。厚い外套を着てフードをかぶっていてもなお、細すぎることが容易にわかる輪郭。顔の細部は分からなかった。

 突然、鏡像の自分が蠢いた。のっぺらぼうだった顔に目鼻が通り、肩が隆起する。

 間もなくドアが開いて、男が現れた。

 線の細い、やせぎすの男だった。くたびれたリネンのシャツと穴の開いたジーンズ、そして同じくらいくたびれた顔――黒い髪も、落ちくぼんだ黒い眼も、何もかも艶を失っていた。

 それが彼だった。

「入れ」

 ぶっきらぼうにそう言い捨てて、彼は館の中に消えた。私はあわてて扉をくぐったが、もうどこかの部屋に入ってしまったようだった。

 玄関から見る限りは、どこもかしこも殺風景だった。花瓶や置物をしつらえるための棚や、テーブルなんかがあった。でも、そういうところにはただ埃が降り積もっていた。

 遠くの部屋から不機嫌そうな顔が覗いた。

「どうした? 早くしろ」

 私は訝しんだ。家を間違えたんじゃなかろうか。そう思いながらも、私は男の背中を追った。 たどりついた部屋は、アトリエ兼寝所のような所だった。キャンバスや額縁、汚れた筆が入った水差しなどが雑多に置かれている中に、寝台があった。彼はそこに座って煙草をふかしていた。傍にはなぜか、不似合いに大きな鏡があった。

 生ぬるい空気が、廊下へ流れ出ていた。煙草と饐えた体臭、それと、血の臭いが鼻に入った。私は戸惑いながらその中へ入った。

 後ろ手にドアを閉めて、寝台の前に立った。彼の濁った眼が興味なさそうに私を眺めていたが、おもむろに口を開いた。

「コートを脱げ」

 

 私たちに与えられたのは、人々のために春をひさぐ仕事だった。

 天使と交わると、人間にお告げが下る。そういうシステムでこの世界は回っていた。どういうお告げが彼らの頭に下るのかはよくわからない。話を聞いても、彼らの言う事はまったくもってわからない。ただ、それで彼らは救われ、よりよい生を生きている。

 この世界は神に見捨てられた訳ではない。少なくとも天使でない人間にとっては。神の怒りにふれた天使たちは、苦痛と引き換えに人々に救いを与えつづけるのみだ。

 

 私は言われるがままにコートの留め金を外していき、床に落とした。

 コートの下に着ているのは、簡素な麻の下着だけだった。私はそれも脱いだ。生ぬるい空気が、露出した肌にまとわりつく。

 彼の横にある姿見に、自分の姿が映りこむのが見えた。男にしては長く女にしては短い髪の下で、灰色の虹彩が輝いていた。そして、皮膚に浮かぶ斑状結晶が鈍く光っていた。皮膚に突き破って生えた小石くらいの結晶が左胸の一点から列をなして螺旋を描き、鎖骨のあたりまで延びている。

 そこに立っているのは、醜い化け物だった。

 天使の翼は、血管を巡っている。神は翼と託宣とを液状にして私たちの体内へお納めになった。

 こういう話を聞いたことがある。人が翼を持っていたとして、飛ぶことは不可能に近い。そもそも身体が重すぎるし、翼を動かすには筋肉も足りない。

 天使が空を飛ぶことは多分、神の御業とか、恩寵だったのだろう。だから、翼は生身の身体には負担が大きすぎるのだ。翼は色々なところから析出して結晶化し、身体を斑状に蝕んでいく。

 天使は結晶の分だけ人間よりも重い。翼の析出が進んでいけば、やがて重みに耐えきれなくなった骨が変形して歩くことも出来なくなり、(普通に老衰で死のうと思うのなら)激痛にのたうち回りながら死ぬことになる。

 かつて翼だったものは、今では私たちを地に縛り付けるための重石だ。

 私は自分の姿を見るのが嫌いだった。鱗の剥がれ落ちた蜥蜴のように見えるからだ。

「透明な〈血〉を持つ天使に会えるとはな」

 みぞおちが冷える感覚を味わいながら、視線を男の方へ戻した。彼は先ほどと変わらぬ無関心さで私を眺めていた。

 彼は聖遺画師だ。お告げのヴィジョンをそのまま絵に書き写す業を持っている。彼が何を考えているのかよくわからないが、とりあえず自分の仕事をこなしてしまおうと、男に近づいた。

「いや、いい」

 だが彼は私を押しとどめた。

「仕事はもう出来ているんだ」

 私は彼の顔をまじまじと見た。この男は何を言っているんだろう──そう思っていると、彼は近くに立てかけられている額縁から覆い布を外した。

 そこには、見慣れた〈聖遺画〉があった。

 お告げの絵は、絵文字めいたものが複雑に組み合わさって出来ている。そのマークは莫大ではあるが決まったもので、キャンバスに描かれている絵の中にも私にも見覚えがあるものがちらほらあった。

 でも、これは。

「よく出来てるだろ」彼はタバコをくわえたまま、ニヤリと笑った。黄色い歯が覗いた。「〈解読者〉たちが見れば、それなりに意味も通るはずさ」

 私はどういう顔をすればいいのかわからなかった。望んでもいない男女に身体を明け渡す仕事が気持ちいいものではないのは確かだが、〈聖遺画〉の偽作は死罪だ。犯人に仕えた天使たちも、契約不履行で重罰を課される。

 だけど男は私をからかうように眉根を上げた。

「心配するな。俺はこれで二十年、聖職者たちの目を騙くらかしてる」

 そう言われても。

 立ち尽くす私を見兼ねて、彼は自分の横をぽんぽんと叩いた。おずおずと進み出てヤニで黄ばんだシーツの上に座ると、背中を乱暴に撫でられた。

 私は身体をこわばらせた。けれど男はすぐに手を離し、それ以上は何もなかった。

 彼は煙草を口から抜き、私の顔をまじまじと見つめた。私はその目を真っ向から見返した。

 先に目を逸らしたのは、男の方だった。彼は煙草を灰皿に押し付けてひとりごちた。

「やっぱり翼はないんだな」

 私は返事をしなかった。聖職者たちと余計な会話をすることは禁じられていた。しかし男はそんな私を鼻で笑った。

 男はおもむろに立ち上がって、床に置かれたキャンバスから覆いを外していった。

 色々なものがあった。天使の肖像画や、風景画。神話の一部分。色調がおかしかった。どれも原色だけで描かれていて、ひときわ目を引くのは赤だった。

 男のシャツの裾から覗く細い手首に、幾重にも線が走っていることに気付いた。

 私はあることに思い至った。天使の〈血〉に赤はない。真っ赤な血は、人間である証だ。

 部屋の中に視線を巡らすと、作業台の隅に埃を被った小瓶がたくさんあるのが見えた。中には液体が少しずつ入っていた。

「無理矢理取ったりはしない。分けてもらったものだ」

 男はしみじみとそう言った。それで安堵するとでも思ったのだろうか。私は部屋から逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。

「俺の仕事は〈聖遺画〉じゃない。天使の肖像画を描くことなんだ」

〈聖遺画〉を描くのは、最低でも一ヶ月は掛かる仕事だ。天使とまぐわって得る幻視から覚めきるのに数日。それを整理するのに数日。それを図案に起こし、描いていくのはそれからだ。

一つの絵を提出したらまたすぐに天使が派遣され、次の絵に取りかからないといけない。

 だが、偽作をすれば時間はだいぶ削減できる。

 よくも二十年間も無事でいられたものだ。天使は別の天使と会えば世間話をするし、客の噂話には事欠かない。私たちの娯楽といえばそのくらいだ。

 男は布を元どおり掛け直しはじめた。

「天使は死んだら燃え落ちて、灰も残らないんだろ」

 目をそらして窓の外を見れば、だんだんと日が傾いていくところだった。

「血で絵を描くのは俺がやりはじめた事じゃない。昔、俺に頼んできたんだ」

 橙色の光が、部屋の中に差し込んでくる。キャンバスの上の色は、その中に溶け込んでしまって判別がつかない。赤色だけが夕陽の中で彩度を保っている。男は私の目から逃れるように、布を掛ける。

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