She小説

kanimaru。

第1話

「君は月とひこうき雲のどちらが綺麗だと思う?」

暗闇の中に響く秒針のような声が、教室の沈黙を切り裂いた。

僕はそれが特に意味のない問いであると知っていた。

彼女は時々訳の分からないことを口走る人だったから。

「…比べることが間違いだよ。本質がまるで違う」

無意味であるとわかっていても、考え、答えることをやめられなかった。

「本質?」

彼女は首を傾げた。僕の言葉を待っているようだ。僕は口を開く。

「永遠と、刹那と。自然と人工じゃないか」

彼女はふふふ、と笑った。二人きりの教室では、その控え目な笑い声もよく響いた。

「なんだか哲学的だね」

てつがく、と頭の中で言葉を転がした。

いつかテレビの向こうの誰かが「暇人の学問」と言って切り捨てたあれか。

たしかに僕は暇人だった。

放課後の、飴玉のように果敢ない青春を彼女に捧げるくらいには。

「それで、君の答えは?」

彼女は長く伸びた自らの黒髪を払った。隠れていた漆黒の瞳が覗いた。

僕にはそれがまるでメデゥーサのものみたいな、見たらいけない事のように映って、思わず心臓が跳ねる。

「だから言ったろう、比べるべきじゃない」

動揺を隠すように俯いた僕の言葉に、彼女はしたたかな笑顔を浮かべた。

「君はやっぱり面白いね。つまらないことを言う」

その言葉は矛盾しているのか、それともきっぱりと整合性が取れているのか。

さらに言えば僕を褒めているのか、けなしているのか。

判断がつかずに、僕は豆鉄砲を喰らったような表情を浮かべるほかなかった。

返答の見当もつかずに、僕は窓の外の青春に目をやった。グラウンドには白球を追いかけて白のユニフォームを土に汚す野球部の姿が見えた。

はて、視線を戻すと、そこにはクラスメートの少女が一人。

だが、僕らはクラスメートの他に何の接点も持っていない。同じ練習を耐え抜いた仲間とか、同じ夢を目指した友人などではないのだ。

それなのになぜ、僕らはこの空間を共有しているのだろう。

「なに考えてるのさ」

彼女は僕に問うた。彼女は目線の合わない僕の昏い目をしっかりと見据えていた。

僕は素直に答える。

「なぜ僕らがここにいるのかだよ」

すると彼女は、決まっているじゃない、と言葉を漏らした。

「君が私の小説を書くためだよ」

まるで1+1を子どもに教えるような、それが絶対の真理であるかのような言い方だった。

だが僕には、何度聞いてもその意味が理解できなかった。

彼女がそれを言い出したのは夏休みの終わり。

たまたま僕が教室に忘れたノートを取りに帰った時だった。

彼女は一人、行儀よく自らの席に座っていた。授業中ですらそんな風に座る人間を見たことがなかった僕は、絹のような髪を携えた後ろ姿から、人形か何かだと勘違いしかけた。

だが僕は大して気にすることもなく、ノートだけ持って早々に帰ろうとした。

すると彼女は、ねえ、と僕を引き留めたのだ。

「私の小説を書いてよ、放課後のあいだ」

九月二日のあの日、その一言だけで、そこから五ヵ月もの間、それまでなんの関係性もなかった僕らは毎日放課後の時間を共に過ごすようになった。

彼女の要望は、放課後毎日二人で話すこと。僕が思った、感じたことをノートに残すこと。ノートの中身を彼女に見せないこと。そして、それらをまとめて、彼女との日々を小説にすること。

そんなことをする目的も、なぜ僕だったのかもわからない。僕は国語が得意な訳ではないし、読書もそこまで好きではなかった。小説を書くなんてもってのほかだ。

だが、一つ言えるのは、僕は真面目だった。彼女と話すことも、ノートをつけることも、一日も休まなかった。一日一ページ、毎日記したノートは三冊にも及んだ。

しかし、その日々も今日で終わりだった。

今日から僕たち三年生は、卒業式のその日まで自由登校になる。

つまり、僕らの契約の中にある、「放課後」という概念が今日で終わりを告げるのだ。

しかも、最終下校時刻まで残り僅か十分程度しかない。

僕らのくだらない青春のタイムリミットはすでにもう目の前だった。

だからと言って、僕は無理に喋ろうとはしなかった。そんなことをすれば、まるで僕が終わりを惜しんでいるように思えてしまう。

彼女にそんな風に思われることは絶対に嫌だった。全く子供じみていると自分でも思う。

「最後だし、質問とかあったら答えるよ」

風鈴みたいな、他にはない涼しい響きを持った口調で、彼女は唐突に沈黙を破った。彼女は少なくとも、「最後」ということを意識しているようだった。

彼女は僕を見つめていた。まるで生徒の答えを待つ教師のような、試すような目をしていた。

「なんで、君は自分の小説を書かせようと思ったの」

ずっと聞こうとしていた言葉を放った。声は少し上ずってしまった。

「うーん、それは内緒かな」

拍子抜け。僕は思わず彼女を睨む。

彼女はそれを見て笑った。綺麗な瞳がくしゃりと潰れて、涙袋がより鮮明になる。

「はは、ごめんごめん。かわりに、他の質問なら何でも答えるよ」

何でも、と言われて、僕は少し考える。

「さっきの、月とひこうき雲の質問、なんでしたの」

僕はまともな答えが返ってこないと思っていた。彼女のいつもの、突拍子もないアイディアのうちの一つだと考えていた。それでも聞いたのは、「何でも答える」と言った彼女を困らせたいという、なんとも幼稚な思考から出た結論がそれだったからだ。

だが、彼女はいつものごとく、僕の予想に反した。

「どっちになろうか迷っただけだよ」

訳の分からない答えだったが、その美しい瞳に見つめられると、何も言えなくなってしまった。

「他は?」

彼女の言葉に僕は、なんで僕を選んだの、と聞こうとした。しかし、寸前で言葉がつかえて出てこない。

わざわざ聞くことでもないから、と心の中で言い訳しようとした。

しかしそんなことないことぐらい、自分でよくわかっている。

もし、答えが思っていたものと乖離していたらと思うと、臆病になってしまったのだ。

ああ、なんてかっこ悪いのだろう。

自身を非難しながらも、「特にないよ」と答えてしまっていた。

「…そ」

彼女は小さく微笑んでいた。そのまたたきは最後を噛み締めているのか、それとも他の意味を持つのだろうか。

「卒業式で会おうね。小説、用意しておいてよ。あと、質問の答えをちゃんと考えておくように」

瞬間、チャイムが鳴った。幾度となく聞いてきたそれなのに、今回はいつもと違う感覚に陥った。終わりにふさわしい音のような気がしてならなかったのだ。

「じゃあね」

言い残して、彼女は風のように去っていった。

一人取り残された教室は、いつもよりもずっと広く感じられた。





長いようで短い自由登校の期間を終えて、いよいよ卒業の時を迎えた。

教室では再会を喜ぶ者や、一足先に涙を浮かべる者が多くいた。

だがそこに、彼女の姿はなかった。

しかし僕はそこまで気にしていなかった。

彼女の遅刻癖を知っているからだ。

教室全体も、彼女のことを気にかけている様子はなかった。それよりも、友人との思い出に浸る方が先決だったのだ。僕にはそんな友人はいないのだけれど。

だがしかし、ホームルームが始まって担任の一言目で、和やかな雰囲気は終わりを告げた。

彼女が亡くなったと、担任は確かにそう言ったのだ。

教室中がしん、と静まり返った。

担任は生徒全員を一瞥した後、淡々と説明を始めた。

彼女は半年ほど前から病に侵されていたこと。

卒業が先か死が先かの瀬戸際にいたこと。

彼女の意向で、誰にもそのことを明かさなかったこと。

だがそれらの言葉は僕には届いていなかった。

僕の頭には、彼女の豊かな表情が浮かんでは消えを繰り返した。

その輝きのどこからも、死のイメージは感じられない。

だが、彼女の不可解な数々の言動の意味がようやく見えてきた。

そして、僕に小説を書かせた意味も。

―――うーん、それは内緒かな。

あの日の言葉が鮮明によみがえる。

あの時にはもう悟っていたはずだ。

それなのになんで。

僕は机の中にしまった彼女の小説が書かれたノートを見る。何の意味も持たなくなった、紫色の表紙。

今日、渡そうと思っていたのに。

「…なんでこんな時まで、僕の予想を裏切るんだよ」

文句とも言えないような何かが、僕の口から零れ落ちた。





石畳の道を、僕はゆっくりと歩いていた。

春の風が耳を撫でて、ひゅーひゅーと音を鳴らした。

そんな気分じゃないのにな。

身勝手を胸中で吐きつつ、花を抱えながら進む。

いくつも並んだ長方形の石の中から、見覚えのある文字が彫られたものの前で僕は立ち止る。

僕にはそれが彼女の墓とは思えなかった。だが、確かに彼女の墓だった。

僕はしゃがんで線香をあげる。独特の香りが鼻腔を刺激する中で、目をつむって手を合わせる。

しかし、彼女に語りかけることはしなかった。どうも、そこに彼女がいるとは思えなかったのだ。

用意してきた、昔彼女が好きだと言っていた紫の花束を墓の前に添える。そしてその横に、彼女のためのノートを置こうとしたその時、風が墓前に置かれた紫の欠片を飛ばした。まるで意志を持つかのように悠然と飛んでいくそれを見上げた時、視界にひこうき雲が入った。

他に何もない、巨大な紺碧の海の底から伸びる一直線の白。

それこそが彼女のように思えて、僕は届くようにと念じながら、鋼鉄から棚引かれた雲に向かって言葉を吐く。


君はそっちになったんだね。

僕もちゃんと、考えたんだよ。

あと小説、読んでよ、一生懸命書いたんだから。

またいつか、二人で話そう。

今度はちゃんと聞くよ、僕を選んだ理由。

だから、答えを用意しておくように。


そして、花びらはひらひらと舞い、僕の不細工な字が書かれたノートの表紙に着地した。


「ひこうき雲みたいな君へ」


花びらはその文字を気に入ったかのように、ノートの上で優しく僕に微笑みかけていた。




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