醒めざめる

仔羊

醒めざめる

 懷かしい聲が聞こえる―――ゆっくりと思考が開けてゆく腦內に、亡き母の子守唄が聞こえる。實家じっかの少し煙たい線香の匂いが同時にして、俺はハッと目を醒ました…じんわりと汗をかいている。酒を飮みすぎたのか、酷く醉って居たらしい、勢い良く起き上がったばかりに、割れんばかりの鈍痛が頭に響く―――アア、―――と苦し紛れに聲を漏らした俺は、ぼうっと部屋の片隅を見つめた。夢を見ていたのか、俺は。…醒めた筈なのに、幽かに線香の殘り香を感じている…。確かに先刻さっき迄、子供時代を過した、田舍の實家の四疊閒の子供部屋に居たはず―――しかし目の前にある景色は、今正に一人暮らしをしている古い借家の、年季の入った禿げた壁紙であった。チカチカと瞬きする電球のあかりに合わせて、俺は呼吸をしていた―――薄く硬い蒲團ふとんを握った俺は、寢惚けながらも母親の聲を思い出し、遣るせなく俯いていた。―――ジーワジーワジーワ―――………夜の癖に、蝉が鳴いている―――…ジーワジーワジーワ―――……奴らの聲は、ぼんやりとした俺の耳に夏らしく響いていた。蝉、お前たちも、夜に子守唄をうたっているのか。

 俺の母はよく、寢る前に子守唄を歌っていた。どこかまじないのような優しい響きで、時折微笑みながら、俺の瞳の奧を見据えて歌うあの姿が、どうも不思議と忘れられなかった。俺は、その歌が好きで―――どんな歌詞だったかは生憎思い出せないが―――んでいる最中の本をそのあたりに投げ出しては、母の膝元に頭を預けて、その歌に耳を傾けていた。その膝枕の高い體溫たいおんは、思い返せば母の熱ではなく俺自身の體溫だったことに氣が付くのは、大人になってからだった。

 ちりん、と、風鈴の音がした。開け放した窓から生溫い風が俺の頬を撫ぜる―――俺の眠氣を拭い去るように、夜風は幾度か風鈴の音に合わせて吹いた。同時に、母が「おまえは誰よりも自由なのだから、好きに生きなさい」と―――そうやって何度も呟いていたのを思い出す―――そうだ、俺はその言葉を連れて、汽車で山ばかりの田舍から出てきたのだ―――。

 家を出たはじめのころ、ひと月に幾らか手紙が屆いたのを覺えている。俺の家は決して裕福では無かったが、時折、仕送りも屆いた。仕送りの中身は米や干物ばかりだった。―――周りに比べて少食氣味な俺が、食べ物たちを腐らせてしまうことのないように、と―――。母の溫かい氣遣いを、仕送りや手紙から感じていた。―――

 家を出て3年が経ったころ、少しずつかずの減っていた手紙が途絕えた。俺は丁度そのころ、好きあっている人が居て、婚前の挨拶の爲に田舍へかえろうとしていたのだ。婚約したその女はちよと言って、氣立ての良い娘だった―――俺達は他愛ない幸せな暮らしを思い描いていた。その年は運惡く仕事に忙殺されていて、來月こそは、來月こそはと里歸さとがえりを先延ばしているうちに、母は呆氣なく死んだ―――それは正に靑天の霹靂で―――葬式の後、俺には穴の開けられない仕事と、母の死に目に會えなかった罪惡感だけが殘った―――翌年、俺達は心の穴が空いたままの婚禮こんれいを擧げた。ちよの家庭も兩親がいなかったので、その日は晴れ舞臺ぶたいであったが何處か寂しかった。けれどちよの白無垢はこの世界の何よりも美しく、その時ばかりは滿たされていたのを憶えている―――すっかり褪せた白黑の寫眞しゃしんを、俺は今も肌身離さず持っている。

 婚禮から幾年が経ち、ちよは流行病でこの世を去った。母と同じように呆氣なく逝ってしまって、簡單な弔いをして小さくなった骨だけがふたりのひろい家に遺った。それから俺は引っ越した。田舍とも都會とも言えぬ微妙な場所へ。そうすれば、俺は、妻との思い出も母との記憶も、どっちも抱いて居られる氣がしたのだ。古くて狹いが、俺一人が生きながらえるには十分過ぎるほどの、十疊の部屋を借り、部屋の隅に小さな仏壇を置いて、連れてきた母と妻をそこに眠らせた。それからは每日欠かさず線香をあげているが、實家に居たころのあの線香の匂いは、どれを試してみても香らなかった。そのうち、氣が付けば、線香の銘柄が変わることは無くなっていた。

 あのころから幾許いくばくの時がながれ、俺はすっかりとすべてを受け入れたので、淚を流すことも無くなった。ふたつの最愛を亡くし天涯孤獨と成った俺に、四季だけが寄り添ってくれた―――何度も何度も季節が巡り、今に至る―――骨壷はまだ墓に埋めて居ない。枯れた淚は隱れた寂しさに代わり、俺の決斷をしぶらせていた。妻も母も、こんな俺を笑ってくれているだろうか―――どうやら俺は隨分と寂しがりな性分らしい。

 今こうして、夢のつづきのように、ぼんやりと半生を思い返している中鳴っているあの風鈴は、結婚したばかりのころ、ちよが買ってきたものだ。そのときのことを、每年夏が來る度思い出す―――「ころんころんって、素敵な音でしょう、あなた」―――半透明の金魚の柄を指でなぞりながら、ちよは眩しく笑っていた。綺麗なものが好きな女だった。汚いばかりのこの世界に似合わぬほど、可憐であたたかい女だった。純眞な彼女の心は、硝子のように、透き通る湖のように廣く、その優しさに幾度も俺は救われていた。そんな彼女に、俺は給料日になると、飴細工やや、きらきらとしたものを每月贈った―――その度に嬉しそうにころころとあの風鈴の音のように笑う彼女が、俺は何よりも愛おしかった―――。

 ―――今夜は風がよく吹く。少し强い風が吹いて、ちりんと音が響いてから、七曜表カレンダーのバランと捲れる音がした。其方へ顏を向ければ、曆は盆を示している。―――そうか、もうこんな時期か―――俺は季節の巡りを感じていた。いつの閒に歲を食ったか、一年経つのが隨分と早く感じる。そうして七曜表を眺めているあいだに、風鈴が最後にころんとひと鳴りして、風が止む。いつの閒にかあの線香の匂いは消えていて、じんわりかいていた筈の汗も乾いていた。いい歳をした大人の俺にうたわれる子守唄も、もうとっくに無かった。俺は幾らか醉いが醒めているのを憶えながら、またあの懷かしい夢へ逢いに行く爲に、狹い蒲團へ潛るのだった。

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