懐かしい歌とともに
@le_kamui
はがゆい唇
「いつから気づいていたんだ、おれのことを」
「はっきりわかったのは、一週間前のことだったわ」
「一週間前か――」
「そう、一週間前よ――見ちゃったのよ、あなたの鞄の中。びっくりした、あんなものが入っているなんて。けっこう度胸があるほうだと思っていたけれど、さすがにあれはね」
驚いたといいながらも彼女の唇には笑みが浮かんでいた。彼は無言で彼女を見つめた。
「あなたのことは、ずっとまえから普通じゃないと思っていた。自分で言っているような美術品ブローカーなんかじゃないとは思っていたけれど、あれを見てから何者かわからなくなった」
彼はしばらく黙っていた。態度は落ち着いていた。彼女は少しだけ彼の様子を眺め、また話しはじめた。彼女の声も落ち着いていた。
「ねえ、教えてよ、あなたって何者なの」
「知ってどうする?」
彼はいつもと変わらない口調でいった。
「なにもしない。わたしにできることなんて何ひとつないもの。命だって、あなたの手の中にある」
「度胸がいい」
彼女は静かに微笑んだ。
「そんなんじゃない。ただ――」
「ただ、なんだ」
「疲れているだけ。ずっと昔に生きることを諦めかけていたころがあった。そんなときにわたしはあなたと出会った。あなたがいっているような美術品ブローカーじゃないことはわかっていた。もしかしたら危険な人かもしれないと思った。でも、どうでもよかったのよ」
「いまはどうだ? いまもどうでもいいのか」
彼女はすぐに返事をしなかった。彼は無表情に彼女を見つめていた。彼女はただ黙っていた。少し微笑んでいるような表情だった。
「あなたとつきあってどれくらいになるかしら?」
「今日で、二年と八日だ」
「すごい、覚えていたのね」
「出会ったとき、君は酒場のカウンターでひとりウォッカを飲んでいた。しかもストレートだった。ひどく酔っていた。しばらく君の様子を眺めていた。やくざみたいなやつが君に絡んだ」
「覚えているわ。あなたが助けてくれた」
「君は助けなんか待っていなかった」
「どうでもよかったのよ」
「そうだ、君が自分を半ば捨てていることはわかっていた。だから助けたのは、おれの勝手だ」
「どうしてわたしを助けてくれたの」
「わからない――ほんとうだ。いつも自分が人間であることを忘れて生きている。たまに人間に戻りたくなるときがある」
「じゃあ、自分のためにわたしを助けたのね」
「人はいつだって自分のために生きるものだ」
「わたしのことは好きじゃなかった」
「人間に戻りたいと思うとき、君のところに来た」
「じゃあ、いまは人間に戻っているのね」
彼は否定も肯定もしなかった。
「いつものあなたは何者なの。いえ、なんなの――」
「怪物だ」
「プレデターなの」
「そうだな、あれに近いかもしれない。事実、そう呼ばれたことがある」
「誰があなたを創ったの」
「神様でないことは確かだ。人がおれを創った。おれをプレデターに変えた。それはおれがこの手で選び取った人生でもあった。だが、ときどき自分がプレデターであることに耐えられなくなることがある。君はおれの生きる意味だった。君とこうしているときだけ、人間でいられた。笑って、怯えて、泣けると思った」
「嘘――あなたはいつも同じだった。心の内を絶対に見せなかった」
「いつか表情を変えることを忘れてしまったのさ――眠っているとき、うなされていただろう」
「…………」
「つまり、そういうことだ」
再び沈黙が訪れた。この時の沈黙は長かった。彼女の静かな声が沈黙を破った。
「どうして、あんなものを、あんなところにしまっていおいたの? わたしが見つけるとは思わなかったの?」
「失敗したのさ。人間だったから――人は失敗する」
「それで、これからどうするの?」
「歌ってくれ、あの歌を――」
「え? なに、それ――」
「聴きたいんだ、あの歌を。君がうたうあの歌だ」
彼女はしばらく彼を見つめた後、うたいはじめた。『はがゆい唇』というその歌が、かつてのテレビドラマの主題歌であることを彼はもちろん知らなかった。音楽などに無縁に生きてきた彼は、彼女を通してその歌を知った。彼女は歌い終えた。
「ありがとう」
彼はいった。同時に彼の右手がすっと上がった。だらりと下げている右手は空っぽだった。腕が床と水平になる位置まで持ち上げられたとき、その手には拳銃が握られていた。彼の手の中にいつ中が現れたのか、彼女にはわからなかった。銃口を向けられたときも、彼女は微笑んでいた。
正面から彼女を撃った。至近距離から発射された9ミリ口径の弾丸は彼女の額から入り、後頭部に抜けた。射入口は小さかったが射出口は大きく、頭の大半を吹き飛ばしていた。しかし、顔に損傷はなかった。額の小さな穴を除いて。
彼女は倒れた。目は開いたままだった。彼は無表情に彼女を見下ろした。彼が好きだった彼女の唇はいまも艶めかしく、濡れたように光っていた。少し口を開いているからだろうか。彼女はまだ微笑んでいるように見えた。
彼は怪物の顔をしていた。
懐かしい歌とともに @le_kamui
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