6.ふくしゅう

1


 倉井は目を覚ました。部屋は真っ暗で、何もない。ここが本当に部屋なのかもわからない。視界に入ってくるのはただの暗黒。しかし、どこか視界に映るものに縁があるような気がする。多分ここは部屋だ。

 体を動かそうとしたが、体は思うように動かなかった。どうやら椅子に縛り付けられているらしい。とてもきつく体を固定されているようで、体を捻らせるが、うまく抜けられそうにない。自分はなぜこんな目に遭っているのか、必死で記憶を辿る。

 警察が家に突入してきて...その先頭に立っていた細身の刑事を刺し、隣の部屋の城戸という男を殺し...そこで武器を捨て、投降した。この記憶はまず確かだ。そして、警察官に捕えられた。抵抗する気力はなく、あっさり体を抑えつけられ...この記憶にも誤りはないと思う。そこからの記憶がうっすらとしかない。確か、誰かが乱入してきたのだ。取り押さえる警察官たちを、乱入してきた誰かが襲って...?

 多分その時に頭を叩かれたのだ。そういえば、頭がじんじんと痛む。後頭部が痛い。

 そのせいで意識が未だに朦朧として記憶がはっきりしない。

 思い出そうとするのを諦め、倉井は縄を解くことができないかともがいた。しかし、きつく結び付けられていてうまく解けないどころか、体の節々が痛む。自分は今から殺されるのだろうか。ふとそんな考えが頭をよぎる。よくドラマなんかで、椅子に縛り付けられてそのまま殺される場面がある。それと同じ容量で殺されるのかと考えるが、倉井は別に不安ではない。自分は死んだような人間だと思っている倉井にとって、死は受け入れ難い物ではなかった。人を何人も何人も殺した自分が普通の人間と同じような生活をできるわけがないのだということは自分が一番わかっている。

 段々目が慣れてきて、真っ暗な中でも物が見えるようになった。どうやらここは一般的な家のリビングルームらしい。ソファのような家具やテレビが視界に映る。うまく椅子と一緒に体を動かせばぐるりと周囲を一周見渡せるだろうが、その際に椅子が倒れたら自力で起き上がることはできないので、倉井は体を動かさない。

 とりあえず、放置されて餓死という最悪の場合は免れそうだ。リビングルームということはこの家の所有者がいるということ。廃校の一室にこうやって放置されたなら溜まった物ではないが、家ならば所有者が帰ってくる。

 別に餓死するのが嫌なわけではない。しかし、自分を警察から庇い、自分を連れ去り、ここに監禁した者の正体を知らずに死ぬのは流石に倉井にとってたまったことではなかった。

 当分は家主は帰ってこないのだろうか。戻ってくる気配がない。そもそも、ここはどこだろう。自分の家の近くか、あるいは遠くか。

 そんなことは考えても仕方ないので、それまでぼんやりと考え事でもしておこうか。或いは、家主の正体を推理しようか。推理ゲームは幼い頃から大好きだ。

 まず、家主は倉井と面識があることに違いはないだろう。それだけで充分条件は絞られる。バイト先の知り合いや、昔、まだ働いていた頃の同業者、あるいは、学生時代の友人。バイト先には知り合いはいない。昔の同業者でもないだろう。少なくとも恨まれるようなことをした覚えはない。そして、学生時代の友人は殆どいない。数少ない学生時代の友人も自分のことなどとっくに忘れているだろう。

 こうして、すぐに推理は行き詰まった。自分で作った殺人事件を自分で解いていくようにはうまくは推理できない。そもそも、倉井は賢くないので推理なんてことはできないのだ。下手の横好き...それが最終的に人殺しにまで繋がるとは横好きが過ぎるのだろうが。

 しかし、別に発端は自分で殺人事件を起こし自分で捜査するという遊びを思いついたところにあるわけではないと思っている。恐らくは、自分がおかしくなったきっかけはもっと昔にあると倉井は確信しているのだ。そう、まさに、幼少期のような幼い頃に。


2


 倉井は周囲を見て考える。ここはどこで、ここは誰の家で、ここの家主は何を目的で自分を誘拐し監禁したのか。しかし、当然わかるわけもない。やっぱり自分に推理の才能はないのだ。嫌でも、これを認めざるを得なくなったのは、これも...まさに幼少期の、小田憲という友人との出会いか。

 彼は倉井のことをおっちゃんと呼んだ。そのあだ名の由来は倉井の痩せぎすでみすぼらしい見た目にもあるのかもしれないが、何より「倉井央」という名前に由来がある。央から、央ちゃん、おっちゃんと推移したのだろう。

 懐かしいあだ名と、小田の顔を思い出すと同時に、あの頃の思い出がどっと倉井の頭を覆い尽くした。といっても、記憶に残っている出来事は一つしかない。

 通っていた塾の近くの空き家の幽霊の噂。そういう事件捜査まがいのことが好きだった倉井は、弟の幸太からその噂を聞き、幽霊の正体を突き止めることに奮い立った...いや、そうではなく理由はただの暇つぶしに良さそうだったからかもしれない。しかし、倉井は小田とともに空き家の幽霊について捜査し、小田は遂には正体を突き止めた。その意外な正体と、反吐が出る不愉快な動機は忘れるはずがない。警察が犯人で、そして動機は不純で。倉井の中にあった「警察は正義の人」という固定概念が根底から破壊された。ショックは当然大きかったが、どこかドラッグのような快感を覚えたのも確かだ。

 そして、その気分のまま家に帰り、そこで母親に怒られてそこで...。

 自分は両親を殺した。怒りに任せて、何も考えずに惨殺した。いや、本当に怒りに任せて殺したのは母親だけで、父親を殺した時の自分の感情は覚えていない。思い出そうと思えば容易に思い出せるはずだったが、倉井にはそれは耐えられなかった。気がついたら父親が死んでいた。

 両親の期待も愛情も全てを裏切った。楽しく、笑っていられた日々が完全に終了した。自分の運命はこの時から暗転したのだと倉井はいつも思う。この時のちょっとした怒り(当時はちょっとした怒りではなかったのかもしれないが、今から見たら本当に些細なことだ)が我慢できていれば今頃幸せな生活を送っていたのかもしれない。少なくともこんなことにはならなかったのかもしれない。母親と父親と...。

 思い出し、涙が溢れた。謝罪と後悔と絶望の涙は重たかった。固定されて動けない惨めな自分の膝に水滴がずんと垂れていく。

 あの時読んだ手紙を忘れることはない。倉井はずっとその手紙を持っている。今も自宅の引き出しの中に丁寧に保存している。でも絶対に読むことはない。あれを後悔していては一生前に進めないからであり、また、触れるとまた自分がおかしくなってしまいそうで恐ろしいからでもある。

 倉井は両親を殺した後、金目のものや現金を持てるだけ持って家を出た。そして、必死で逃げた。夢なら覚めてくれるはずだ、もし夢でないならば、自分の中では夢であったことにしてしまおう。この土地を離れ、そして時が経ってくれればこの記憶はもう薄れてきて、忘れてしまう時もあるのではないか。まるで印象に残った夢でも朝起きて数分後には忘れてしまっているあれのように。逃げた後の生活は途轍もなくきついものだった。

 倉井は悪い記憶を祓うため奈良を出て、大阪に行った。もっと遠くに逃げるべきだったのかもしれないが、金を節約するためにタクシーは使わなかったので、逃げることができる範囲には限界があり、西成まで逃げてそこで一旦生活することにしたのだ。

 当然家はないし、頼るあてもない。いつ警察に追われる身になるかはわからないからビクビクして生活しなければならない。そこからの時間は気を病みそうになる程の苦痛ばかりだった。いや、実際気を病んだのかもしれない。自分が崩壊しつつあるのを確かに実感した。こんな自分を雇ってくれる会社は少なく、必死に生計を立てる日々。住まいはなく西成のホームレスとして暮らす。他のホームレスとの折り合いもうまくつかず、喧嘩も多く体はぼろぼろになる。倉井は死んだも同然の状態で食い繋いでいた。そんな日々を食い繋いだモチベーションがどこにあるのかはよくわからなかった。だが、自分は死んではならないと使命的に感じ、生き続けた。もしかしたら、親への贖罪の念が強かったのかもしれない。

 しかし、いつまで経っても警察に追われる日は来なかった。倉井の両親殺しは全くニュースに取り上げられることはなかったのだ。しかし、これは安心できることではなかった。帰宅した弟、幸太が死体を見つけられなかったはずがない。居間に転がっていた両親の死体を見て、幸太は警察に行かなかったと考えるしかない。幸太はなぜ警察に行かなかったのか。少なくとも倉井に考えられるのは一つだけ。幸太が自分の手で犯人を始末しようとしているということだ。倉井にとって幸太は警察よりも恐怖だった。自分のことを一番理解していて、尚且つ自分のことを一番恨んでいる。そのため、西成に身を隠す日々を続けることを余儀なくさせられた。

 一方で、自分は死んでもいいのではないかともぼんやり思い始めていた。幸太にわざと見つかり、幸太の敵討を成功させてあげた方が幸太のためにもなるのではないか。今の自分は生きてる価値がない。社会的に見てもそうだし、自分視点で見てもそうだ。

 だが、結局、死ぬのは怖かった。そうして倉井は西成で生き抜き、大人になった。

 しかし、大人になってから突然倉井は西成を去った。

 本当に突然、何の前触れもきっかけもなく、思ったのだ。

「芸人になろう」と。


3


 時計の針の音が聞こえる。この状況に慣れてきて段々感覚が研ぎ澄まされているのだろう。一時間以上経っただろうか。家主はまだ帰ってこない、自分を誘拐した何者かは。


 芸人になろうと思ったきっかけも何もはわからないが、自分はお笑いが好きだし、もう既に自分は堕落しているので、芸人として失敗しても失うものはない、そういったところから湧いた思いだったような気がする。

 このまま西成で人生を終えるのは絶対に違うとずっと思っていた。西成に来てから仲良くなった浮浪者も数人いたが、皆、倉井に早くここを出るようにと勧めてくれた。

 なけなしの貯金と必死のバイトで金を貯めて、養成所に入学した。本名で行くのは気が憚られたので、「砂島央」という名前で入学した。砂島というのは、砂のように崩れていく自分のここまでの人生を皮肉ったものだった。

 養成所は辛いこともあったが、正直今までの自分の二十数年間と比べれば大したことはなかった。そのうち、仲間ができ、親友ができ、相方ができた。久々に友情と楽しさを実感したかもしれない。

 何人かとコンビを組んだが、一番気が合ったのが、佐々木というやつだった。年下も結構いる中で、自分と歳も近く気もあった。笑いのベクトルも一致して、やっていて楽しかったので、彼とコンビを結成した。

 オセロリバーシという名前は佐々木の発案だったが、倉井としても愛せるもので、白黒つかないのはまさに自分のことだった。

 佐々木とは人生で最高の友人となり、最高の商売仲間となったが、過去を明かすことはできなかった。彼には何度か聞かれたが、全て答えるのを断った。また、彼から親に会いたいと言われたこともあった。事実を打ち明けたいという気持ちもあったが、倉井は「親に反対されて芸人になったから、親からは離縁されている」と嘘をついた。芸人でそのような境遇を抱えている人は結構いた。だから、佐々木はそれを信じてくれた。

 佐々木はパンダという芸名で活動を始めた。芸名の由来は、これも白黒つかずというところにあるらしい。倉井も同じ要領でアリクイや牛やシマウマなどと名乗ろうかも考えたが、可愛げもない見窄らしい若者二人が揃って動物の名前なのは何とも気色悪いので、偽名の砂島をそのまま使った。

 また、佐々木はシェアハウスをしたが、倉井はしなかった。理由は幾つかあるが、何よりの理由は自分の過去を隠すために人と親密に関わりたくなかったことだ。そうはいっても、芸人仲間もいたし、気軽に相談できる友人は佐々木以外にもいた。人生で最も充実した時間だった。

 最高の漫才師を決める大会S1グランプリは夢の舞台であり、挑戦すべき壁だった。ここまで何にも挑戦せずただ逃げるだけの人生を送ってきた倉井にとっては新鮮な経験である。当然そううまくは行かず、3回戦落ちも多々あったが、徐々に手応えは掴めていき、バイトまみれの生活にたまに入ってくる小ホールでのライブは最高だった。本当に幸せで、人を笑わせ、そして自分も心から笑っていたのだ。

 一抹の不安はあった。自分たちが売れた時、自分の顔と名前は世に出るだろう。そうすれば、確実に幸太の目に止まる。この楽しい日々に終わりが告げられて、幸太が自分を殺しにくる。売れた時、自分の命はない。

 でも、芸人としてこの道に入ったのは売れるためだ。佐々木と共にS1グランプリで優勝して、史上最強の漫才師になりたい、面白いことをしたい。そのために日々挑戦を続けるのだ。当然、S1以外の賞レースにもチャレンジする。史上最強の漫才師となるための精進だ。

 葛藤はしたものの内心答えは決まっていた。自分は死んでも売れたい。いつの間にかかける思いはそこまで大きくなっていたのだ。

 そんな折、遂に賞レースで結果を残すことに成功した。qtvお笑い新人賞という小さな賞。優勝しても特に有名にならないし、そもそもコアなお笑い好き向けの新人賞だ。qtvというラジオ局自体がそもそも知名度が低い。

 しかし、オセロリバーシに勢いをもたらしてくれたのは事実だった。ネタを作る佐々木のモチベーションになったのだろう。佐々木は強いネタを数本完成させ、オセロリバーシはS1グランプリ2回戦を余裕で通過し、3回戦でも高火力を出し、待望の初準々決勝進出を果たした。

 倉井は飛び跳ねて喜んだ。準々決勝への自信も十分すぎるぐらいあった。周囲からもこれなら決勝もあるとまで言われた。苦しんだ数年間で培ったものが結ばれる一年だと本気で思った。しかし、その期待はあっさりと裏切られる。

 オセロリバーシが進出した一方で、笑いの部屋という超売れっ子芸人がまさかの3回戦敗退を喫した。この事実にインターネットの無知な住民は過剰なほどに反応して、笑いの部屋敗退に対する不満を募らせた。誰かが、名前を聞かない芸人が一人3回戦を突破していることに気がついた。そして、非難の矛先は一気にそこに集中した。批判は耐えられないものではない。自分らの本気のネタを見せてそいつらを黙らせてやればいい話だ。

 しかし、倉井は別の問題を抱えていた。

 それは幸太にばれてはいけないということだ。結構な大騒ぎになったので、多分このことは幸太にまで知られているだろう。幸太が自分の顔写真を見れば、「オセロリバーシの砂島という男は自分の兄であるとすぐに気付くはずだ。その時はおしまいだ。殺される。殺されてもいいという覚悟で売れようともがいていたのは事実だが、S1グランプリの決勝に行けたわけでもないのに、殺されるのは絶対に嫌だ。

 やむを得なかったのかは今でもわからない。炎上はしたものの自分の名前が幸太の元まで絶対に届くとは限らないし、幸太が自分を殺そうとしているかもわからない。しかし、倉井はあの西成での幸太に怯える毎日を思い出し、途端に怖くなり、佐々木に解散を相談した。

 当然、佐々木は否定してきた。しかし、倉井は強引に佐々木に解散を迫り、そしてオセロリバーシは解散することになった。あの時の佐々木の心情は倉井には計り知れない。ずっと同じ夢を追い、長く共にやってきた相方が、ちょっとした躓きで夢を諦めてしまったことが、彼にはどのように映るだろうか。

 罪悪感に苛まれた倉井は解散後佐々木に会おうとはしなかった。彼からはメールが送られてきたりもしたが、罪悪感が故にか、それを読もうともしなかったし、返事もせずスルーした。一ヶ月ぐらいして、メールは途絶え、佐々木との縁は完全に切れてしまった。

 解散後、倉井は大阪を出て、東京へ行った。芸人として貯めたほんの少しの貯金を使い切り、東京に行き、安く狭いアパートを借り、また生きることに何の光もない生活をすることになった。

 しかし、その間も常に佐々木のことは応援していた。必死のバイトでパソコンを買い、インターネットで毎日佐々木のことを調べ、応援した。

 オセロリバーシと同時に、売れっ子芸人笑いの部屋も解散した。S1グランプリ3回戦敗退が響いたのだろう。その笑いの部屋のボケ、西田が佐々木にコンビ結成を持ちかけ、西田と佐々木で新しくバーコードというコンビが結成されたのだ。

 倉井はそれを知った時、驚き、そして喜んだ。自分の罪悪感が少し吹っ飛んだような気もした。西田は先輩で、とてもお世話になっていたので仲も良く、彼の面白さはわかっていたのが尚更、倉井を熱くしたのかもしれない。

 バーコードは苦労はしつつも順調に結果を残していた。倉井はそれを見守ることが生きがいとなっていた。殆ど死んだも同然だった自分に生きがいを与えてくれた。佐々木にはこれで二度生きがいをもらったことになる。コンビを結成した時と、彼がバーコードとして活動し始めた時。

 そして、遂に彼らはS1グランプリ準決勝進出を決めた。あと一歩で決勝の舞台だ。倉井の胸は高鳴り、退屈で体がすり減るだけの毎日に最高の楽しみが舞い降りてきたのだ。

 S1グランプリ準決勝の結果発表の日、倉井はバイトを休み、家で兎に角ワクワクしながら結果発表を待った。そんな倉井の耳に飛び込んできたニュースは、バーコード決勝進出ではなく、佐々木優殺人容疑で逮捕のニュースだった。


4


 自分の均衡が保たれなくなったのはあの瞬間なんだ、と倉井は一人暗い部屋で自嘲する。

 どれぐらい時間が経ったのかはわからない。もしかしたら、家主はもう帰ってこないのだろうか。やはり、このまま餓死させられるのだろうか。

 

 佐々木優、殺人容疑で逮捕。このニュースを見た瞬間、倉井は目を疑った。しかし、嘘でも見間違いでもない。

 ニュースによると、同じく準決勝まで進出していた漫才師クズノロマのジクウがバーコード西田陸斗を殺害、その後、佐々木優がジクウを殺害したという。全く状況をつかめなかった。

 クズノロマジクウこと、笑いの部屋葛井は相方を佐々木に奪われて多少なりとも憎しみがあるのではないかとは少なからず思っていた。しかし、この事件はジクウが西田を殺し佐々木がジクウを殺したという事件だ。全くもって因果関係、状況が掴めない。西田に復縁を求めたジクウとそれを拒んだ西田、逆上したジクウが西田を殺した。そこにきた佐々木が西田を殺され怒り、ジクウを殺害、といったどろどろ恋愛ドラマのようなストーリーがあったのだろうか。それとも、また別に複雑怪奇なトリックがそこにはあるのだろうか。倉井はそんな細かい由には興味はなかった。

 だが、この出来事は確実に倉井を壊した出来事だろう。倉井は怒りとショックでパソコンを破壊した。バットで何度も殴って修復できないほどに。しかし、倉井を狂わせたのは唯一の生きがいが破壊されたことだけではない。

 今にも自殺やあるいは犯罪を犯してしまいそうだった倉井のストッパーになっていたのは佐々木の存在だった。自分がここで犯罪を犯せば、すぐ記者がかぎつけて、「バーコード佐々木の元相方、自殺」やら「バーコード佐々木の元相方、強盗を働く」などとニュースにして、佐々木の元に取材陣が押しかけるだろう。そうなると、佐々木に迷惑をかけてしまう。自分は今は佐々木とは全く縁がないのだ。勝手に関連付けないでほしいが、記者というのはそうは行かない。彼らも仕事だ、ネタを探して常に彷徨い歩くのは芸人にも似ているので、どこか気持ちはわかった。

 しかし、佐々木が捕まった今、倉井は自分を制御するものがなくなった。

 とはいえ、すぐに問題を起こすことはなかった。落ちぶれボロボロの雑巾のようになっても、あくまで人間だ。倉井にもなけなしの人間性というものが残っている。


5


 もしかしたら、とさっきから考えていることがある。もしかしたら、自分を監禁しているのは幸太なのではないか。幸太が自分に復讐するために自分を監禁しているのではないか。

 倉井はそう思い、少し表情を緩めた。

 数年、いや数十年ぶりの幸太との再会だ。あー楽しみで仕方がない。どれぐらい大きくなっただろうか。どんな人間になっただろうか。死ぬ前に幸太の顔は見たい、見なければ気が済まない。


 時が経ち、徐々に人生に対して苦労を重ねて、自分の存在価値を自分の中で消失し、見つけ出せず、そのうち、妄想世界にハマっていき...そして、遂に自分の手を汚した。最初の事件は自分の怒りに任せてではあったものの、そこからは自分の妄想世界の物語のために事件を起こし続けた。

 不思議なことに一度殺人を犯すと、殺しという行為が癖になる。人間としての常識、両親のストッパーも外れてしまったのだ。

 ストッパーはどんどんどんどん外れていく。自分を人間に押さえつけていたストッパーはみるみるうちに消えていく。それを内心理解しながら、倉井は何より自分の「人間としての死」が近づいていることを恐れた。それでも妄想世界への依存はやめられなかった。

 警察が突入してきた時、何人かを巻き添えにしたのは、幸太へのある種の救いであった。極悪犯として、新聞の一面にでかでかと乗り、ニュースで大々的に報じられて、世間からはこれでもかとばかりに批判される。法廷の場で言うセリフも決めている。

「むかついたら殺した。それだけです」

 あくまで冷静に、精神鑑定で精神に異常があると思われないように。

 そして、また社会から大批判を喰らい、処刑される。

 こうして死ねば、幸太を救うことができる。復讐に飢えている幸太からすれば、自分の手で仇である兄を殺せなかったことは無念だろう。しかし、兄からすれば、大事な弟に手を汚してほしくない。自分が手を汚し切った人間だからこそ、親を殺し、知らない人間を殺した者だからこそ。これが幸太にとって最高の救いになり、倉井ができる最初で最後の家族へのプレゼントになるのだ。

 倉井が死ねば、幸太は仇を失い手を汚さないで済む、それなら自殺すればいいじゃないかとも考えた。そうではないのだ。自殺するだけでは有名になれない。兎に角、大々的に報じられなければならなかった。だから自殺ではなく処刑を望んだ。

 不謹慎な言い方をすれば一石二鳥なのだ。倉井が人を殺せば、最終的に幸太を救うことができる上に、倉井自身は妄想世界とリンクさせることで自分の退屈な人生を少しでも楽しくすることができる。

 事実一時は自分の快楽として自分を救っていたのだ。


 それにしても家主は現れない。家主が現れなさすぎる。流石におかしい。

 不意に自分は悪い夢を見ているのではないかと思った。自分が何者かに誘拐されたのは夢で、いや、自分が犯人であると警察に突き止められたことは夢で、いや、自分が妄想に取り憑かれて人を殺したことは夢で、いや、自分の相方が人を殺したことは夢でいや、自分が理不尽な炎上を理由に芸人を諦めざるを得なくなったことは夢で、いや、自分が芸人になったことは夢で、そして、全ての原点も...。

 目を覚ませば、受験勉強に明け暮れる高二の倉井央少年の視点に戻るのではないか。勉強とそれ以外という退屈な毎日を送る自分に戻れるのではないか。

 こう思うのは今に始まった事ではない。ずっとそう思い、そう望んでいる。

 これは全て現実なのだ。勝てば嬉しいし負けたら悲しい。甘いものは甘いし、辛いものは辛い。怪我をすると痛いし、死ぬのは怖い。

「死にたくない」

 倉井は叫んだ。多分、この部屋の窓は全て閉ざされているから、その声が聞こえるはずはないけれども。

「助けてくれ」

 結局、自分は死からずっとずっと逃げてきたのだ。死ぬのは怖くない。死ねば幸太のためになる。そう思いながらも、内心はずっと死ぬのが怖かった。その証拠に、ずっと幸太から逃げ続けてきた。死にたくない、死にたくない死にたくない死にたくない。

 自分を納得させるために、まるで呪文のように死にたいと唱えてきた。

 生きていても何の得もしないことはわかっている。しかし、死にたいとは思わない。

 がちゃっ。聞き覚えのない音がした。扉が開いた音だ。誰かに自分の声が届いたのだ。

「こっちだ。助けてくれ。死ぬ。殺される。監禁されているんだ。助けてくれ」

 数時間飲み物を飲んでいないので、少し掠れてしまった声で悲痛に叫ぶ。応答するようにこちらへ向かう足音が聞こえる。こちらへ向かってきているのは警察かもしれない、けれども、ここで犬死するよりは裁判で死刑になって死んだ方がマシだ。ある意味映画的な人生を送ってきた自分の死にこんな死に方は相応しくない。

「大丈夫ですか」

 若い男性の声だ。倉井は必死で応答する。

「ここにいます。何者かに監禁されてます、助けてください」

「今行きます」

 警察の人という感じの返答でもなかった。救助に慣れているという印象は受けない。偶然通りかかった一般人が助けに来てくれたのだろう。

 ドアが開く。真っ暗な部屋に明かりが差し込む。その明かりに反射して助けに来た男の顔が視界に鮮明に入ってきた。

 男は椅子に縛られている倉井を見つけると、すぐに駆け寄り紐を解く。

「えっと、あなたは」

 倉井は心底安心したが、尚緊張した声色で尋ねる。

「江野と言います」

 江野。彼は自分にとって人生で最高の命の恩人だ。倉井は江野という苗字をしっかり脳に刻み込む。

「えっと、下の名前はなんというんですか」

 倉井は安心感で心を満たされて、心にゆとりを持てていることに幸せを覚えながら、特に意味もなく尋ねる。男は爽やかに笑った。

「さとしといいます。江野さとしといいます。憲法の憲でさとしと読みます」

 憲法の憲でさとし、か...。

 不意に倉井の記憶のどこかで何かが蠢いた。憲法の憲でさとし...この名前はまるで。馬鹿げた考えに囚われながら、倉井はどこかに覚えた違和感を拾おうとしながら頭を回転させる。

「危なかったり、面倒だったりしたら俺を呼べ。俺と一緒に挑もうぜ」

 こんな粋で格好つけた言葉が脳裏に蘇る。倉井は冷めない興奮を必死で隠して、自分の名前を名乗った。本当に彼ならピンと来てくれるはずだ。

「倉井央と言います」

 彼はまるで倉井が名乗る前から倉井の苗字を知っていたかのように頷き、そして、嬉しそうに口元を緩めてから倉井に向かって微笑んだ。その微笑みがあの頃の彼と重なる。

「いやー、間に合ってよかったよ、な、おっちゃん。お前もまさか、小田憲のこと忘れたりはしてないだろうな」


6


 丁寧に整えられているが、必死で走ってきたせいだろうか、部分部分乱れている髪。出会いに感動してかつい綻んでいる表情。目はしっかりと倉井の方を見つめている。まるで相手のことを見通すかのような視線。ちょこんとした鼻、そして、アニメのキャラクターのようなすっきりした口。端正に整った顔立ち、以前とは変わったが、確かに彼には昔の面影があるような気がする。

「でも、なぜ」

 倉井は紐を解かれ、自由に動けるようになったのに、椅子に座ったまま唖然とする。

「理由は後で説明しよう。そんなことよりも。ここは危ない、さあ、出よう」

 彼は倉井の肩を叩く。それでも倉井は動き出せず

「もしかして、全てが全て夢だったのか?」

 と呟く。

「何言ってるんだ」

「まだ高校二年生で...」

「お前はもう大人だぞ、倉井」

 状況が飲め込めない。夢でないのだとしたら、なぜこんなにもピンポイントで彼が助けに来てくれたんだ。

「小田...いや、今は江野というのだっけ」

「小田でいいよ」

 彼は昔のように楽しそうに笑う。この表情にも見覚えがある。やはり、彼は小田だ。しかし、本当にどうして。

「小田は助けに来てくれたんだよな」

「お前が色々やばいってことを知って駆けつけたんだ。とりあえず、お前を監禁した輩が戻ってくる前に逃げるぞ」

 倉井はそう急かされてやっと我に帰り、駆け出す。そうだ、早く逃げないといけない。

 小田憲がなぜ自分を助けに来たのか。どうしてここがわかったのか。様々な疑問が浮かんでは消えていく。無事脱出した暁には彼は全てを教えてくれるはずだ。

 しかし、彼は今の自分を見てどう思ったのだろうか。あの頃の自分と今の自分は違う。手を汚しに汚し、人間として堕落しきり、もはや取り返しのつかないほどに落魄れた。そんな自分を彼はどう見る、見ているのだろうか。このみっともない様子を見て、対照的に以前より立派になった彼は以前のように自分と関わってくれるだろうか、自分を助けてくれるだろうか。

 考え事をしながら走っていると突然、右足に激痛が走る。倉井は痛みで力が入らず、その場に崩れ落ちる。激痛に耐えながら、画鋲でも踏んづけたのだろうかと倉井は足元を見る。するとそこには一本の刃物が深々と突き刺さっていた。

「あああ、ああ」

 倉井は間抜けな悲鳴を上げる。ここまで地獄のような人生を送ってきたが、倉井は今まで激しい痛みを感じたことはなかった。精神的な苦痛は誰よりも味わったが物理的な苦痛はずっと回避してきたのだ。だから、この痛みには耐えられなかった。そして、状況が全く理解できなかった。 

 続いてまた、刃物が左足に飛んできて、また深々と刺さる。倉井は声にもならない絶叫をあげた。そして、恐怖で表情を歪めながら顔をゆっくりとあげた。小田がにやりとして、見ている。その眼差しにはどこか狂気じみたものが見られる。まさか、小田が自分を刺したのか? しかし、そんなわけがない、でも、この部屋には小田と自分しかいない。

 倉井は混乱していた。まるで、それを察してその混乱を落ち着かせてくれるかのように、小田が優しい声でこう言った。

「世の中そう都合よくはいかないんだ、僕は小田憲じゃないよ、ね、お兄ちゃん」


7


 彼は不気味なほどニコニコしていた。倉井は足の異常なまでの痛みに声にならない悲鳴を上げ続ける。

「逃げないでよ」

 彼は...いや、幸太は笑って言った。倉井は逃げずにその場でじたばたする。足が思うように動かず逃げ出そうにも逃げ出せないのだ。

「大丈夫、慣れたら痛くない。少なくとも、母さんや父さんよりは痛くないんじゃない?」

 幸太は笑顔を崩さず、倉井に近づく。倉井は足を引きずり、両手を這わせて幸太から逃げるが、すぐに幸太に追いつかれる。幸太は包丁を振り翳し

「死ね」

 と呟く。倉井は絶叫し、目を閉じた。

「ま、まだ殺さないけど」

 幸太は自分を弄んでいるのか? 彼の目的がいまいち分からず、少なくとも一時的に死を免れ、倉井は安堵する。しかし、まだ、ということはいずれ殺すということだ。

「お兄ちゃんも馬鹿だねー、冷静に考えてみなよ。どうして、誰かが助けに来てくれると思ったんだよ。そもそも、ここの鍵を開けて入ってきた時点で犯人の関係者であることは確定でしょ。それとも叫び声を聞きつけて通りがかった一般人がピッキングして助けに来てくれて、しかもそれが昔の親友小田だったとかいう神展開を期待したの? 小説の読みすぎ。現実はこんなもん」

 本当に幸太の言う通りだ...いや、待て本当にこいつは幸太なのか。もしかしたら、何かの拍子に幸太のことを知った誰かが幸太を演じているのではないか。

 でも、もしそうだとしたら理由がわからない。合理的に考えるなら、今目の前に立っているのは幸太だ。幸太が復讐を遂げるためにやってきたのだ。

「なぜ、小田を...」

「知っているか? まあ、それは今から話すよ、大丈夫」

 倉井は、目の前に立ち不気味な笑みを浮かべる青年をじっと見つめる。

「疑ってるような目だなぁ。嘘をつくわけないじゃん。僕は幸太だよ。倉井幸太。信じてくれないなら僕のここまでの人生を全て喋るけど」

「いや、疑ってるわけじゃ」

 幸太の声色に怒りが見られて、倉井は身震いする。

「でも、全部喋るよ。お兄ちゃんにはゆっくり僕のことを聞いてもらわなきゃ困るんだ」

 言っていることもやっていることも狂っていた。だが、彼の声色は正直だった。彼は本当に苦しい自分の人生を思い出し、嘆いているようだった。

「僕はいつも通り家に帰ってきた。いつも通りね。ご飯を食べて、風呂に入って寝る、そのいつも通りの家での生活をするために。僕が玄関から入って真っ先に飛び込んできたのは何だと思う」

 母の死体...。小田と幽霊屋敷の怪談の正体を突き止め、家に帰ってきた倉井に向かって勉強勉強と説教を垂れてきた母に殺気立ち...。

 あの時文鎮が母に当たった瞬間の鈍い感覚はまだ手に、いや、意識に残っている。

「夢だと思った。でも、夢じゃなかった。お母さんの脈はもうなかった。そっくりさんかなとも思った。でも、お母さんだった、確かにお母さんだった。見間違えるはずがない。お母さんだった。僕は驚きで言葉が出なかった。涙も出なかった。そして、お父さんを探して家を歩き回った。そしたら、お父さんも台所で倒れてた。同じように息してなかった。そこで、僕はだんだん現実が見えてきた。涙が出た。信じられなかった。あり得ないと思った。けど、事実で現実だった。だから怖かった」

 幸太の表情筋は震えていた。今にも涙が出てきそうだった。その時を思い出しているのだろう。倉井は何も言葉をかけてやれなかった。

「その後僕はどうしたと思う」

 倉井は答えられない。答えはわかっていた。幸太がその後どうしたか。でも、言えなかった。言うことで、自分の体の上に重々しくのしかかってくるものがあるとわかっていたから。

「お兄ちゃんを探したよ、お兄ちゃんが無事なのか心配で」

 いつの間にか足の痛みが引いていた。いや、引いたのではなくて、忘れてしまっただけなのだろう。今この空間には倉井央と倉井幸太の二人だけがあって、他のものは、感覚的な痛みさえも消し去られている。

「お兄ちゃんは運動音痴で、ひ弱で。もし強盗が来たなら真っ先にやられているはず。でも、その分逃げ足は早いからどこかに隠れてるんじゃないか、と思った。でも、どこにもいない。ずっと探したけど、見つからない。そこで、ある考えに行き当たった。行き当たりたくはなかったけど」

 大事な兄が犯人であるという可能性。幸太はその可能性に行き着いた。

「そもそも、お母さんが文鎮で頭を打たれて...そこに疑問を覚えたんだ。強盗がそんな乱雑な殺し方するだろうか。見るからに突発的な犯行だ。でも突発的な犯行を強盗がするはずない。お母さんが戸棚の奥に隠していたへそくりも全て盗まれてた。あのへそくりの位置を知っているのは、お母さんと僕とお兄ちゃんだけだ。あれは、お父さんの還暦祝いに海外旅行に連れて行ってあげるために頑張って貯めたお金だから。その位置を強盗が特定できるはずがない」

 倉井の頬に涙が伝った。その涙を見てか、幸太の目からも涙が垂れる。

「これはお兄ちゃんが引き起こした事件だと感じた僕の憤りは...言うまでもないよね。僕は当然恨んだ。絶対仕返しすると誓った。絶対に殺してやると」

 倉井は肩をびくっと震わせる。それを感じ取って、幸太は

「大丈夫、まだ殺さない」

 と倉井の肩を叩く。

「警察に届けるなんて考えは浮かばなかった。だって、警察に届けたら、僕の復讐は成し遂げられなくなるから。僕はスーツケースと大きい鞄に死体を入れて、山に行き、それを埋めた。一晩中穴を掘って、日が明けた頃に埋めた。真夜中に動いたから誰かから見られることはなかった。んで、僕は両親と兄の行方不明届を紀伊のおばあちゃんの手伝いのもとで出した」

 母方の祖母の顔が浮かぶ。祖母は突然子供と孫を失ってどのような気持ちだっただろうか。行方不明という何ともやるせないやり方で大事な人を一気に失って。

「紀伊のおじいちゃんはショックで倒れて、そこから病状が悪化して二ヶ月ぐらいで亡くなった」

 母型の祖父には色々お世話になった。ずっと可愛がってくれたし、紀伊に遊びに行った時はいつも一緒に野球観戦で盛り上がった。

「岡山のおじいちゃんとおばあちゃんは、海外旅行中で、伝えるのが遅れて。結局、紀伊のおばあちゃんの元で暮らすことになった。叔母さんも僕のためにわざわざ来てくれて、叔母さんとおばあちゃんに育てられて、こんなに大きくなった。でも、歳もあって僕を育てるのが大変だったおばあちゃんは」

「もういい。わかったから、わかったから。早く殺してくれ」

 倉井は無心で怒鳴った。自分の犯した罪の重さに耐えられなかった。これを聞かされるなら死んだ方がマシだ。

「おばあちゃんはストレスで倒れて亡くなった。叔母はおばあちゃんが亡くなると僕に対して厳しく当たるようになった。叩かれたり、殴られたり。身内がどんどん亡くなって苦しく思うのはよくわかったから僕は我慢した。僕をゴミのように扱い、疫病神と呼んだりした。だけど、それでも僕を養ってくれたから、僕からしたら感謝そのものだったけど、高校を卒業する段階で僕はこっそり叔母の元を離れた。バイトして貯めたお金の半分を置いて」

 そこで一回間を挟んだ後、幸太は続きを思い出したかのように手をポンと打って、続きを話す。そのわざとらしい動きに倉井は狂気を感じる。

「小田憲。彼は、倉井家が次男を残して皆行方不明になったということを知るなり、僕のところにきたよ。わざわざ僕の現在地を調べて、紀伊のおばあちゃん家まで来てくれた。僕が誰ですかと尋ねると、彼は、倉井央の親友だ。あいつがのたれ死ぬわけがない、と格好つけて言ってきた」

 その様子が目に浮かぶ。あいつはやはり自分のことを気にかけてくれていた、そのことが倉井の胸を少し暖かくしてくれる。

「僕は何の情報もなくて、と答えた。そしたら、彼は俺が彼の居場所を突き止める、俺はこう見えても事件の捜査のようなことは得意なんだ、なんてよくわからないこと言い出した。そこで彼が語った話を聞いてびっくりしたよ。僕がお兄ちゃんだけに頼んだ幽霊屋敷の調査、お兄ちゃん、彼と一緒に調査してたんだ。フェアじゃないなぁ。しかも、彼の言うことが正しければ、犯人を見つけたのも彼らしいじゃん。でも、まあ、そのことは水に流すとして。その話で、この小田憲という人物の頭が切れるということはよくわかった。ただこっちとしては頭の切れるやつは迷惑なわけで。だから殺した。今はお母さんやお父さんと一緒に山の中に埋まってるよ」


8


 カーテンは閉まったままで外が見えず時間はわからない。けど、時間の流れでさえもないことにしてしまうぐらいの空気が流れていた。パトカーのサイレンの音がどこかから聞こえた気がした。

 小田憲を巻き込んでしまった。申し訳ない、いや、謝罪では許されないことだ。倉井は込み上げる感情を飲み込むことはできなかった。幸太がすでに手を汚してしまっているという事実よりも、小田憲を幸太が殺したという事実の方が重たかった。

「僕は必死でお兄ちゃんを探した。僕の命はそのためだけにあるも同然だった。とはいえ、簡単に見つけることはできない。そこで、僕は色々な企業の人事部に入ることにした。市役所に勤めた方が人の情報は仕入れやすいけど、高卒の身でもあったから。底辺の一般企業なら学歴はダメでも、色仕掛けでどうとでもできた。入ってからは、どんどん業績を伸ばして上司に注目されればいい話。人事部で、欲しい情報を全て貰ったらすぐに退社。これを繰り返す。生まれ持った才能と容姿に感謝だ。あと、ルッキズムの横行する日本にも」

 彼は冗談を言ったつもりなのか、小さく吹き出した。倉井は表情を強張らせるしかない。

「何社を転々としたかは分からない。ただ、できるだけ小さな会社を転々とするようにした。当然、高校を卒業できていないお兄ちゃんに行ける企業はしれてると思ったから。でも、それだけでお兄ちゃんに会えるわけない。少しでも色々な人の情報を得るために演劇も頻繁に見に行った。ほとんどダメ元で。そんなことしてるうちに演劇が好きになって推しの劇団もいくつか出来たけど、あくまで目的は観劇ではないから同じ劇団の公演は一度しか見に行かないようにした。そこで一度ちょっとした事件に巻き込まれて...」

 幸太はそう話始め、十五分ぐらいかけて巻き込まれた事件の顛末を事細かに語った。その時の幸太は学校であった出来事を説明してくれる幼い彼と重なるところがあって、倉井は一瞬、彼が自分の命を狙っていることを忘れそうになった。

 幸太の巻き込まれた事件はちょっとしたとはいえ、殺人事件で解決に一役買ったという。倉井は純粋にそのことを凄いと思いつつ、自分が彼に勝つことはできない、と死を覚悟してしまう。

 ところどころ「結構グロテスクな死体だったけれど、僕は親の死体を見せられたんだ。死体には慣れていて」と倉井の方を睨んで言ってきたりして、ひやっとする。

「まあ、楽しかったよ。復讐を胸に抱えてるとはいえ、人生を楽しむことはできた。ハーレムもできたし。でも、常に僕はお兄ちゃんのことを考えていた。そんなある日、インターネットのニュースをぼんやり眺めていたら見覚えのある顔を見つけたんだ」

 そこで間をおく。幸太のとった不気味な間に倉井はまた身震いする。

「笑いの部屋S1、3回戦敗退。炎上のオセロリバーシ、解散。お兄ちゃんの影響で昔からお笑い番組は好きだったから、笑いの部屋は当然知ってたよ。ベストコントも準優勝だったし。バラエティーでもよく見かける若手芸人のトップのようなコンビだったし。その笑いの部屋の敗退には結構衝撃を受けた。個人的にはネタは好きだったし、S1決勝でのネタも面白かったから余裕で3回戦なんて通過するだろうと思ってたし。それと同時に、関連に上がってきたオセロリバーシとは何者だろうと調べた。そしたら、3回戦を通過した若手コンビで、3回戦のネタも笑いの部屋より面白くなかったのに3回戦を通過してお笑いファンからめっただたきにされて炎上しているコンビであるとわかった。まあ、面白さと知名度が大事な世界で、無名で面白くないコンビはそりゃ叩かれる」

「面白くないだと」

 本能的に口から言葉が出た。流石の幸太も意外そうな顔をしていた。

「お前に何がわかる」

 自分の人生最高の時間を否定されて我慢できなかった。

「続きを話そう」

 幸太は倉井を無視した。

「そのオセロリバーシのボケの砂島、顔を見てピンと来たよ。これはお兄ちゃんだって。しかも、名前まで央と来てる。完全にお兄ちゃんだと確信した。十年近く全く掴めなかった足取りがようやく掴めた僕は、すぐに荷物をまとめて、会社を辞めて、大阪に向かった。しかし、流石お兄ちゃんだ。とっくに大阪は去っていて、お兄ちゃんの相方だった人に聞いても分からないと。相方にも自分のことを全く明かさないなんて、流石だ」

 皮肉だろうか、彼は流石という言葉を繰り返す。

「でも、お兄ちゃんだって遠くに逃げることはできないはずだ。だって、お金がないから。だから、僕は大阪に住み、お兄ちゃんが芸人だった頃仲良かった人たちに話を聞きながらお兄ちゃんの居場所を必死で推理した。そう簡単にわかるわけはないけど、少なくとも関西近辺にはいるだろうからここで待っていればいずれ会えると判断したわけ。いやーでもまさか東京まで行く金があったとは思わなかった。お兄ちゃんが芸人をやっていたなかったら分からなかったよ。売れていない芸人にも少数だけどファンはいるわけで。そのファンがインターネットに「オセリバ砂島発見! めっちゃ不衛生になってるけど多分砂島さんだ」って投稿があった。僕はいずれそういう投稿があるだろうと毎日毎日SNSで、オセロリバーシで検索をかけてた。だから、そのツイートを見つけた時は歓喜のあまり両手を天に掲げ叫んじゃった。僕はその人にお金と引き換えに、見かけた場所を聞き、東京だとわかるや否や東京に向かった。僕は無駄遣いするタイプじゃないから、お金は幸いにもちゃんと蓄えがあったから、別に苦労は一度もしなかったよ」

 段々幸太の話が今に近づいてくる。それは同時に、幸太の話の終わりが近づいていることを意味していた。そして、幸太の話が終わる事は、倉井にとっては自分の死を意味する。倉井は幸太の話を終わらせまいとして幸太に話しかけようとした。ずっと、幸太に恨みを晴らされて死ぬなら本望だと思っていたが、いざ追い込まれると死は怖くて仕方がない。しかし、生きているのも地獄だった。幸太の話はまるで自分の心臓を抉られるかのような厳しさを持っていた。優しい語り口調で語られる彼の話の中に所々混じる恨みと憎しみが、倉井の罪悪感と恐怖を引き立たせる。彼の語りが終わりに近づき、現実に戻されるに従って、魔法が解けたかのように足の痛みもまた戻ってきた。この心と体の激痛に耐えながら生きつなぐことは果たして自分にとって幸せなのか分からない。

 かと言って、この場をうまくやりとりし、幸太から逃げ延びたとしても外は警察が必死で倉井を探している。連続殺人鬼としてニュースでも大々的に報じられているだろうから、一般市民からの通報の危険性も大いにある。正義感の強い一般市民に殺される可能性だって否定できない。結局、自分の人生は八方塞がりなのだ。

「東京に来てからは様々な情報とお兄ちゃんの人柄から、推理憶測を繰り返してある程度お兄ちゃんのいる場所を絞り、そこあたりで客の出入りがお兄ちゃんぐらいの年代の人の多い洋服屋の中でお兄ちゃんでも利用するような安い店を見つけてそこで勤めた。いずれはお兄ちゃんに会えるだろうと確信していたから何年でも待つ事はできた」

「その洋服屋はなんていう名前なんだ」

 少しでも話を長引かせるために余計な質問をする。時間さえ稼げばもしかしたら、明案が、あるいは、誰か助っ人が来るかもしれない。

「多分お兄ちゃんは行った事ないよ。僕は毎日出勤したけどお兄ちゃんには会えなかったから」

 毎日出勤。さらっと彼はそう言ったが、そう簡単にできることではない。そこに幸太の自分への激しい恨みを確かに感じ取って倉井は顔を伏せた。幸太の目を見ることが怖くてできなかった。

「罪悪感はあるんだ。あんなことしたのに」

 幸太はそう言って笑う。倉井は話を長引かせるという目的を思い出し

「俺はどうすれば...。本当に申し訳なかった。頼む、聞いてくれ、俺の半生も」

「お兄ちゃんの半生を僕が聞いて何になるの? 僕はお兄ちゃんに僕の苦しみを全てぶつけて、そのおどろおどろしく見るに耐えない罪悪感と共に死んでいってほしいから喋ってるんだ。まだ話終えてない。あと、もう寿命はあと数時間なんだから、ここまでの数十年間はお兄ちゃんの人生の中での半生というよりは九割生だよ」

 幸太はまた笑う。倉井には笑えない冗談すぎる。

「だから、黙って話を聞いて。あ、そういうことか。時間を稼ごうとしてるのか。それは無理だ。僕はマイペースな人間でね。自分が話したいだけ話終わったら、すぐにお兄ちゃんを殺すから。できるだけ急所を外して、滅多刺しにして、目一杯の痛みを感じてもらうから」

 正気の人間の発言ではない。でも、幸太は多分至って正気だ。それだけ倉井央という人間を憎んでいるのだ。

 こんな状況でも倉井にとっては少し嬉しいことがあった。呑気なことではあるが、実に数十年ぶりに家族と喋っているのだ。危機的状況であるのは分かりながらも時々そのことを忘れて感慨に浸ってしまう。幸太はこんなふうになった兄を以前と変わらずお兄ちゃんと呼んでくれる。こんな地獄のような空間に居心地の良さをつい覚えてしまう所以はこれだろう。

「僕はそこでも事件に遭遇した。僕の店の前の横断歩道で交通事故が相次いだ。六日おきに交通事故が起こるという不思議な現象が起こったんだ。僕も一度、その事件を目撃した。子供が轢かれて、見るに耐えない惨状だった。僕はこれは事件性があると思ったよ、警察は偶然の事故だと思ってたっぽいけど」

「それも解決したのか」

 倉井は驚いて言う。

「まあ」

 幸太は素っ気なく頷く。幸太という人間の底知れないポテンシャルを感じる。

「その時に、この事故を事件だと考えてる変わった刑事に出会ってね。その刑事さんと喋ってるうちにどうやらその刑事さんは別に連続殺人事件の捜査をしていると分かった。観劇の時にちょっと事件捜査まがいのことをしたから、結構僕は推理するのが好きになってて、その殺人事件も解決しよっかなと思って刑事さんと話してたら、ちょうどその事件の資料を覗き見ることができて。そこに書いてあったのは倉井央という名前だった。僕は鳥肌がたった一方で、見間違いあるいは人違いじゃないかなとも思った。けど、違った。写真も添付されててそれも完全にお兄ちゃんの顔だった。やつれようはすごかったけど面影ですぐにわかった。住所も添付されてたから僕は完全にお兄ちゃんの居場所を特定することができたんだ」

 幸太は映画を観た後の子供のようにわくわくしながら語る。

「それはすごい偶然だったな」

 そんな相槌しか打てなかった。順調に時制が今に近づいている。彼の話を聞く余裕などない。

「偶然? 棚からぼたもちでも何でもない、これは全て僕の忍耐によるものだ。ずっとここで待ち続けた僕の粘り勝ち」

 倉井は話を聞くふりをしながら周囲を見渡した。何か武器になるものはないか。何か重たいものがあればそれで反撃することもできる。

 ずっと時を刻んでいる小さな時計、固定電話、そしてシャーペン。武器になるものは何もない。

「ただそれを知った時、もう真夜中だったから一旦眠って、朝にお兄ちゃんの家にお邪魔することにした。そして、住所を頼りにお兄ちゃんの家に向かった。そこで警察に取り押さえられているお兄ちゃんがいた。本当に懐かしかった。やっと会えた。ついに人生が報われた。そう感慨深く思う時間は長くなかった。警察に捕まえられては困る。僕は念の為持ってきていたスタンガンで警察を襲い、お兄ちゃんの後頭部あたりを思いっきり叩いて、気絶させ、お兄ちゃんを抱えて自分の家まで逃げた。このためだけに鍛えてきたんだから一発で気絶してくれたよ。それで、一旦お兄ちゃんが逃げないようにちゃんと椅子に縛りつけて、僕はお兄ちゃんが目を覚ますまで家の外にいることにした。警察がどう動くか見たかったっていうのもあるし、一旦落ち着く時間が欲しかった僕の事情もあるけど」

 幸太はそう言って黙った。僕は急いで質問する。

「じ、じゃあ、なぜ、最初小田憲と名乗ったんだ」

「そりゃあ、恐怖を増すためだよ。一旦救われたと思わせて落とす。人間を地獄のどん底に落とす手っ取り早い方法は上げ下げの落差をつけることだから」

 狂ってる。やっぱり狂ってる。幸太は正常じゃない。

 最早、今、彼の目的は、恨みを晴らすことだけにあるようには見えない。恨みという感情が捩れに捩れて、今の幸太は相手が怖がるところを見て快感を得ている。

「よし、じゃあ審判の時だ」

 幸太はそう言って笑った。倉井は慌てて周囲をもう一度見渡す。どうにか彼を倒さないと...幸太を、大事な弟を殺さないと。自分が生きるために。

「人を殺すのは小田憲に次いで二回目だ。久々だからちょっと腕は鈍ってるかもなぁ。とりあえず、両手から、ちょっとずつ」

 幸太はそう言って刃物を倉井に向ける。両手を切られればもう自分に抵抗する手段がなくなる。倉井はどうにか手を考える。両足が使えず、這いつくばってしか動けない自分が幸太の攻撃を交わす方法はあるのか。交わすだけじゃなくて、彼を殺す方法が。

「罪を償う日は来ると分かっていたんでしょ、お前も」

 幸太は乱暴に倉井の右腕を切り付けた。倉井は断末魔の叫びを上げる。

「お前は地獄に堕ちろ」

 左腕に激痛。生きている心地がしない。幸太の目は飛び出しそうなぐらいに見開いていた。ホラー映画の幽霊と同じ目をしている。虚ろで何の力もない目がぎょろりと飛び出している。

 倉井は叫んだ。そして、残っている力全てを使い果たして幸太の股間を蹴り飛ばした。足を動かすことはできないと踏んでいたのだろう、幸太はふいをつかれて、激痛に悶絶した。手からナイフが落ちる。足首がもげているんじゃないかという痛み。それに耐えながら、倉井はナイフに手を伸ばす。しかし、悶絶していた幸太もかっと目を見開いて、ナイフに手を伸ばす。二人の両手が交錯する。幸太の手は驚くほど暖かかった。


9


 時計が時を刻む音だけが聞こえる。集中すれば自分の心臓の鼓動も聞こえてくる。心臓の鼓動は少しずつ落ち着いてきている。ただ、自分はまだ落ち着いていない。様々な過去が回想されてはすぐに消えていく。そして、無心でただ一点を見つめる。胸を一刺しにされて死んでいる幸太を、ただ茫然自失で見つめる。

 倉井と幸太はナイフの取り合いになった。幸太の方が力が強いため、倉井は負けそうになったが、ありったけの力を振り絞った。自分が握ったのがナイフの刃の部分だったせいで、引っ張り合いのうちに手のひらが切り裂かれる。激痛はあったが、それよりも生にすがる自分の本能の方が強く、その痛みを耐え、必死でナイフに縋り付いた。幸太の手も同じようにナイフの刃によって傷ついていたので、ナイフを握り綱引きのように必死で自分の方へ自分の方へと引っ張る二人の手は真っ赤で、ナイフも真っ赤だった。手が真っ二つになってしまうんではないかというぐらいの激痛に耐えながら倉井は必死でナイフを守る。だが、内心この綱引きにも終わりがあることは見えていた。持久戦になった今、肢の部分を持っている彼の方が手の傷は少なく、体力的にも彼の方が上なので、倉井には勝ち目などないのだ。それを察した倉井は別の作戦に出ることにした。成功する保証はないが、奥の手としては有効的な気がした。

 倉井はすぐにナイフから手を離した。ベタな作戦だが、今の状況ではそれしか手が残っていないと判断した。

 幸太は勢いよく後ろに吹っ飛んだ。そして、そのまま床に強かに背を打つ。その時、ナイフを持っていた手も床に打ちつけ、彼の手からナイフが離れたのだ。遂に巡ってきた好機を倉井は逃すわけにはいかなかった。獲物を見つけた時のイノシシのような勢いで、芋虫のような這いで、ナイフを拾い上げた。幸太は倒れた時に頭も打ちつけてしまったようで、うーん、と苦しそうに声を上げながら起き上がろうとする。その幸太の胸に思いっきりナイフを突き刺した。その瞬間、父親を殺した時の記憶がフラッシュバックする。あの時は父親の背を刺した。そして、今は弟の胸を刺している。父親を刺した時よりもナイフはあっさりと幸太の胸に刺さった。すぐにナイフを抜き、もう一突き、もう一突き。五、六回刺した時、幸太がぼそっと言葉を漏らした。

「折角会えたのにな」

 それはこっちのセリフだ。倉井はもう一度、勢いをつけて力一杯ナイフを突き刺した。

 幸太は死んだ。脈も確認した。確かに死んでいる。数十年間、自分の人生を怯えさせてきた弟を殺した。全てが終わった。自分はやっと救われたのだ。

 幸太を殺すことは、まるで自分の過去を消すことのようにも感じられた。今から新しく人生を歩んでいけるような、そんな気がしてくる。


 倉井は壁にもたれかかったまま、全く動かず、ずっと虚空を見つめている。心の中にあるのは、絶望の一文字だけだった。

 幸太を殺した後、倉井は自分の血だらけの体を清め、洗い流すために風呂に入ろうとした。しかし、体が言うことを聞かなくなっていた。足をやられたのが完全な原因だった。痛みで立ち上がれない。いや、痛みがなくても立ち上がれないのかもしれない。両足共にぱっくりと傷口が割れ、骨が姿を見せていた。誰の目から見てもこの状態で立ち上がることは不可能である。頑張って足を引き摺ったまま動こうとしたが、今度は部屋のドアの前で立ち往生する。ドアノブを握れない。両手、両腕の傷が激しくて手に力が入らないのだ。完全に動けなくなってしまった。何とか頭を使ってなど工夫したが、無理だった。自分はこの密室に閉じ込められたのかもしれない。

 これは、両手両足から攻撃するという幸太の作戦だったのかもしれない。もし、自分が反撃に遭っても、仇である兄を殺す、そういう作戦だったのかもしれない。

 こんなことは後から考えてもどうにもならない。言うなれば、倉井自身の命運は、小田憲を演じた幸太に気が付かなかった時点で全てが尽きていたのだ。殺しに飢える化け物に背を向けた時点で尽きていたのだ。

 いや、そもそも倉井の人生に命運などという言葉はあったのだろうか。倉井自身にもわからない。敢えて言えば、結局これも両親を殺した時、命運は尽きていたのだ。

 元々自分は死ぬ覚悟はできていた、死を前にして怖気付いただけだったじゃないかと言い聞かすが、死の恐怖を紛らわすことはできない。死を目の前に感じて初めて、死ぬことの恐ろしさを感じ、自分が生きていることの素晴らしさを感じた。死にたいと思うことは何度もあったが、結局理由をつけて死んでこなかった、そのことが自分の生への執着をよく語っている。

 全てを諦め、狂ったように叫び、体をくねらせてのたうちまわった倉井は、不意に暴れるのをやめて、体を動かさず、静かに壁にもたれかかった。そして、そのまま、自分の命の灯火が消えるのを待つ。飢え以外何も吹き消してくれないその灯火が消えるのを。

 

 

 

 

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ふくしゅう みにぱぷる @mistery-ramune

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