5.警察

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 信号が青になる。信号を待っていた数人が歩いて行く。

私は一歩離れた場所からそれを見ている。特に異変はない。普通の風景。時間が経ち、信号がまた赤になり、惜しくも渡れなかった人が悔しそうな顔をしている。無表情でスマートフォンを触り信号を待つ人の姿が一人、また一人と増えて行く。彼らの目はスマートフォン以外のものを視界に入れていないのだろう、どこか足取りがおぼつかない。スマートフォンが誕生し、「歩きスマホ」というワードが誕生し、そして世間ではスマートフォンを触りながら歩くことを危険視し始めたのにも関わらず、未だに歩きスマホは減らない。信号を眺めていると、そんなことに気が取られる。

 今こそ休日でもないのに何もせず横断歩道を眺めているが、私は現役で刑事として働いている。この道を歩んで結構な時も経っており、私は中堅役として頼れる刑事となっている。私は現在、上司から無差別連続殺人事件の捜査を依頼されており、その事件捜査の指揮官的立ち位置にいる。妻がいて子供もいて、十分に満足できる生活をしている私だが、今日はこの横断歩道の前にある小さなベンチに私服で腰掛け、ぼんやりと横断歩道の方を眺めている。

 別に仕事をサボっているわけではない。いや、正確にはサボっているのだが、仕事が嫌でサボっているのではない。毎日殺人事件の捜査に忙しくしているけれども、別にそれを嫌だとは思わない。

 仕事ばかりを優先し家族サービスをしていないわけではない。休日はずっと家族と共に遊んでいる。自分の時間はなくても、家族サービスと仕事だけの毎日が私からすれば幸せだ。

 では、私は今何をぼんやりとしているのか。結論から言うと、私は個人的に別の事件の捜査をしているのだ。個人的な興味での行動なのでこれを捜査と呼んでいいのかはわからないが、家族サービスよりも仕事よりも興味を惹かれる事件が近所で起こったのだ。

 事件の発端は一ヶ月前まで遡る。一ヶ月前、ここの横断歩道で轢き逃げが起こった。その轢き逃げ自体は珍しいことではない。

 被害者は病院搬送ののち死亡。亡くなったのは四十代の会社員の男性だったが、小学生が下校する時間帯の事故ということで、ローカルのテレビ番組では大きく報道された。轢き逃げをした者は捕まらず。しかし、会社員が歩きスマホをしていたと見られたことから事件性はないものと見られて落ち着いた。しかし、ちょうど落ち着いた頃に次なる事故が起こった。

 この轢き逃げから六日後、また同じ横断歩道で交通事故が発生した。被害者は死亡。この事件も小学生が下校する時間帯に起こった事件で、亡くなったのは三十代の女性。轢いた運転手は逃走せず自首し、女性が歩きスマホをしていたと語った。確かに歩きスマホをしていたと見られる証拠は見つかり、事件性はないものと処理された。また、歩きスマホが原因の事件が続き、市内では歩きスマホ防止運動が活発化、同じ横断歩道での同じ原因による死亡事故ということで全国的にこの事故は取り上げられた。

 そしてまた六日後、同じ横断歩道で次の事故が起こる。ついに小学生が亡くなった。小学二年生の少年少女がトラックに跳ねられた。結構なスピードを出したトラックに跳ねられたため、二人は病院に運ばれた時点でもう亡くなっていた。トラック運転手は、信号は守っていたが、二人の姿がよく見えなかったと語った。この事故を受けて市内の小中学校は交通安全授業を実施。この残酷な事件は全国で大きく報道され、新聞の一面を飾った。また、インターネットのある界隈では、この一連の事故に事件性を見出し、考察を行う者も現れ始めた。六日おきというこの法則は当然、警察も違和感こそ覚えたが、単なる偶然と処理された。

 そしてまたもや六日後、同じように横断歩道で事故が起こった。夜中に帰宅中の会社員が車に撥ねられ重傷を負った。初めて、死亡事故ではなく、男性は複数箇所の骨折をしたが、命に別状はなかった。しかし、この交通事故の連続、そして、六日おきという法則。ここには明らかに違和感を覚えざるを得ない。警察の事情聴取に男性は「仕事帰りで疲れていて完全に迂闊だった」と語る。インターネットでは、様々な憶測が飛び交い、オカルト系で有名になった芸能人があの横断歩道には死が見えるなどということを語り、話題を呼んだ。また、警察も歩行者の注意不足による不慮の事故とはすぐに断定せず、横断歩道の信号の不具合だと考え、点検などを行い、異常がないことを確認した。

 インターネットでは、事故が起こるか起こらないかの賭けまで始まっていた中、また六日後事件は起こる。被害者は男子高校生で、歩きスマホが原因。警察は改めて信号の点検を行うが異常なし。そこで誰かが、後ろから背中を押している、つまり、殺人事件なのではないかと推測し、防犯カメラを設置した。しかし、防犯カメラはすぐに何者かに壊されてしまった。防犯カメラの破壊は真夜中に行われたようで、犯人は突き止められず。警察の間では再度防犯カメラを設置しようという意見もあったが、そもそも被害者の一人である会社員が「仕事帰りで疲れていて完全に迂闊だった」と証言しているところや、被害者に共通点が全くないこと、事件の時間帯にも共通点がなく、共通点は、同じ横断歩道であるということと六日おきに起こるということだけなので、再度設置することはなかった。

 しかし、私はこれは事故ではなく事件だと思っている。同じ横断歩道で六日おきに事故が起こるなどという現象が納得できなさすぎる。誰かが意図的に事件を引き起こしているとしか考えられない。私はそう思い、ちょうど事件が起こるであろう今日、ここで朝から現行犯逮捕を狙って、ずっと事件が起こるのを待っているのだ。 

 今の所何も事件は起こっていない。時刻は正午を回ったところだ。私は流石に暇で、スマートフォンでのネットサーフィンも飽きてきて、うとうとしていたところ、電話がかかってきた。かけてきたのは井上という後輩の刑事だ。彼は私が担当している無差別連続殺人事件の私に次いで捜査の権限を持つ警部だ。

「もしもし、泉さん?」

「どうしたぁ、井上」

 私はあくびまじりに返す。井上は私のあくびを聞いて溜息をついたが、電話で私があくびをするのは珍しいことではないので特に言及はしなかった。

「一件目の飯田殺しに関して、飯田さんの友人と名乗る人物から電話が」

「内容は」

「そういえば飯田が殺された翌日に髭面の男が尋ねてきたと。その男は警察手帳を持っていたが、どうやら飯田さんと揉めていたという人物と顔立ちが似ているらしいんです」

「警察の中に犯人がいるのか、或いは、警察のふりをした誰かか。しかし、目的がわからないな。犯人は事件現場に戻るとはよく言うが、事件現場ではなく被害者の友人のもとに舞い戻るとは。続報があったら知らせてくれ」

「泉さん、体調大丈夫ですか」

 私は今日、体調不良と伝えて仕事を休んでいる。井上が本当に心配してくれているようで、私は胸が痛かった。

「まあ、明日には復帰できるさ。体調は悪いがいつでも電話してくれたら返す。進展があるたび連絡してくれ」

 罪悪感を誤魔化すために私はきびきびと指示をする。

「了解です」

 電話が切れた。そして、私はまたあくびをする。無差別連続殺人事件の捜査は骨が折れる。法則性がないから、犯人を特定できない。まるでゴールが見えない。とはいえ、現場から見つかった指紋はどれも一致しているので、犯人が同一であることは確定的。また、徐々に捜査が進み、犯人像も浮かび上がってきている。もうすぐ犯人は捕まるだろう。 

 その一方で、この横断歩道の事件は全く犯人像も、犯人の目的も、法則も、方法も見えてこない。完全にベールに包まれている。しかし、今の所被害者に共通点がないので、無差別事件であると見て間違い無いだろう。最近はイカれたやつが多い。日本の警察が進歩するにつれて、日本の犯罪者も進歩して、理解できないレベルに到達して行く。赴任当初と比べて、私は嫌というほどそれを実感する。

「叔父さん、何してるの」

 不意に小学生に話しかけられた。

「暇だからベンチで寛いでるのさ」

 私は適当に答える。その小学生は背丈は百五十ぐらい、顔立ちは幼くあどけなさが残り、声も高くて子供らしく、動きには落ち着きもない。うさぎのように無邪気にずっとぴょんぴょん跳ねている。様子から見て、小学四年生あたりだろうか。

「暇なら家に帰ったら?」

「ここのベンチが快適でね」

「へー。お仕事は行かなくていいの」

「それは君もだろう。今日は平日だろ」

「でも、創立記念日で休校。叔父さんの会社も創立したの?」

 そんなものがあったらどんなに極楽だろうと想像して、私は乾いた笑い声を上げる。

「叔父さんはサボりました。君はサボるような大人になっちゃダメだぞ」

「サボったのに、何もせずベンチでだらけてるの?」

「君名前は?」

「としき。にわとしき」

 にわは戦国武将の丹羽、と書くのだろう。としきは俊樹か敏樹か。

「丹羽くん、サボる時は特にやりたいことがあってサボるのではなく、何となくサボるんだよ」

 私は諭すように言う。丹羽少年はきょとんとする。

「叔父さんは、何の仕事をしてるの」

「お巡りさんだよ」

「すご。正義のヒーローじゃん」

 少年は興奮している。私も幼い頃は、そういった思いを抱いて、警察官を夢見たのだ。私の夢と比べて実際の警察というのは物足りなかったが、十分やりがいはあった。

「じゃあ僕行くねー」

 少年は無邪気に笑うと走り去っていった。私は彼の背中をぼんやりと見つめながら、彼のような子供を守らなければならないという、どこから湧いてきたのかもわからない責任感に奮い立たされた。


2


 再び、井上から電話がかかってきたのは一時間後、午後一時過ぎ。

「現場付近の防犯カメラに犯人が写っていました」

 興奮気味だ。私は落ち着けと諭した後

「どの事件の現場だ」

 と興奮して尋ねる。

「二件目の大学生殺しです。民家の防犯カメラが偶然犯行の瞬間を捉えていました」

「よし、現場付近の防犯カメラをさらに解析しろ。犯人の行動経路を完全に明らかにし、犯人の自宅を突き止めるんだ」

 つい熱が入る。事件捜査に進展があると心が浮き立つのは入社一年目から変わらない。

「今やってます。あと、四件目の事件についても報告が」

「吉報か」

「当然ですよ。犯人の持ち物と見られるものが犯行現場付近の茂みから見つかりました。どうやら犯人の手帳のようで、バイトの日程や、事件の日程が大まかに記されていました。それを見る限り、この殺人は突発的で、無計画、無差別なもののようです」

「なぜそうわかる」

「そう書いてありました」

「そう書いてあった?」

「はい。複数の日付を跨いで、誰かを殺すと大きく横長に文字が。そして、その文字の上から実際に事件を起こした日に丸がついています」

「つまり、大まかな日付は決まっていたが、いつ、誰を殺すかは全く持って気分なのか」

「ですが、ちょっとおかしい点があって。四件目の事件があった日はピンポイントで丸がついていて、誰かを殺すと書いてあるんです」

「つまり、最後の事件だけは意図して行った殺人、なのか」

 私は頭を掻く。犯人の行動意図がいまいち掴めない。

「手帳の解析も進めてくれ。報告は以上か」

「いえ、まだあります。その手帳には、バイトの日付が記されてあって、どこのバイトかも明記されていました」

「おお! すぐにバイト先に連絡しろ。ついにこの事件も終わりのようだ」

 私はポンと手を打つ。近くを歩いていた老人が怪訝な目で私を見てくる。

「報告は以上です。犯人が分かり次第、また」

 電話が切れる。

 そして、引き続き、私は一人ベンチで時間を潰す。横断歩道からは片時も目を離さないようにして。

 鞄からコンビニで買ってきたパンを二つ取り出した。アンパンとクリームパン。シンプルだが、食べやすいので、もし食事中に何かが起こっても、すぐに動ける。張り込みの経験は実はいまだに一度もないが、張り込みの時もこういった軽食を取るのだろう。

「大丈夫ですか」

 数十分して、見知らぬ若者に話しかけられた。向こうからすれば私の方が見知らぬ男なのだろう。

「あ、いえ、全然、大丈夫ですよ」

 ずっと脳内で推理を組み立てていた私は不意を突かれて戸惑った。

「ずっとここにいますよね」

「ええ、まあ」

「気分でも優れないなら救急車を呼びますけど」

「あー、いやいや元気ですよ。ありがとうございます」

 大事にされては困るので、私は慌てて止める。サボっているのがバレたらただじゃ済まない。

「何かあったら言って下さい。私、そこの店で働いてるんです」

 彼はそう言って向かいにある服屋を指差す。成程、だから私がずっとここにいることを知っているのか。服屋で働いてるなら、彼の清潔感のある服装や様相も頷ける。気遣ってくれるあたり、とても好青年のようだ。

「そういえば、ここの横断歩道で何件か人が死ぬような事件がありましたよね」

 私は何気なく話題を振った。

「怖い事故ですよ」

「事故?」

 探りを入れてみる。

「ええ、交通事故」

「しかし、インターネットでは殺人事件とする噂があるとか」

「いやいや、そんなわけないです、これは事故です」

 彼がきっぱりそう言うので、私は更に根掘り葉掘り尋ねる。

「誰かが後ろから背を押した、とかは」

「ないですよ。私は一度事故を目撃していますが、後ろから誰かに押されたという様子ではなく、赤信号なのに何も考えずに歩いていっていました。なので、確実にこれは事故です」

「しかし、その一件だけが事故だったという可能性は」

「それはありますけど」

「ちなみに、あなたが目撃したのは、何件目の事故ですか」

「三件目です。本当に見るに耐えない事故でした。その...死体の方も結構ひどくて。僕は吐かなかったですけど、普通なら、すぐに...」

 三件目はトラックにより小学生男女が跳ねられた事故だ。この一連の事故の中でも、全国的な注目度は段違いに高かった。

「まさか、警察の方ですか」

 彼がふと尋ねてきた。私は慌てて否定する。

「もし、警察だったらちゃんと勤務していますよ。私はニートのただのおじさんです」

「そうですよね。とりあえず体調には気をつけてください。じゃあ、僕は仕事に戻ります」

 彼はそう言って、横断歩道を渡り、店の方に引っ込んでいった。

 やはり、これは事故なのだろうか。三件目が事故という彼の証言から推測するとこの一連の事件と思われるものは事故と処理できる。それはなぜか。

 そもそも一連の事件が全て事故ではなく事件だったと仮定する。当然、六日おきに事件は起こっているので、三件目の事件も犯人はそのルールに基づいて起こすはずだ。しかし、三件目の事件は確実に事故であったと彼が証言しているのだ。そうなると、三件目が起こった日には、事件と事故が発生、つまり、一日に二回の人身事故がこの横断歩道で起こっていないとおかしいのだ。しかし、事実、一回しか起こっていない。となると、一連の事件は事件ではなく事故なのかもしれない。

 しかし、六日おきに事故が起こる。こんなこと超常現象の他何者でもない。しかし、私は超常現象などというものを信じない。六日おきに事故が起こっていることには何か理由があるはずだ。

 不意に、妙な考えが浮かんだ。「もしかすると」ではあるが、これが事件の真相のように思えてくる。

 つまり、事実、あの日だけは例の横断歩道で二件事件が起こっていたのだ。いや、正確には、事件と事故。一方は話題になった小学生の死亡事故。そして、もう一つは、失敗に終わったか何かで話題になっていない「幻の事故」だ。その可能性を考え出すとどんどんそんな気がしてくる。ここまで成功させてきた犯人が失敗をする可能性はあるのか。いや、その可能性は低いし、失敗しても人が轢かれるまでやり直せばいい話だ。「犯人が、誰かが轢かれたという事実自体隠している」とすれば? ホームレスか、ニートかはわからないが、身内がいない誰かが、真夜中に、犯人の手によって車に轢かれて死んだ。轢いた車は轢き逃げ。犯人は死体を隠した。

 しかし、その可能性も薄い。そもそも、犯人が達成したい目標は「六日おきに人を交通事故に遭わせる」ということである。自分が関与しないうちに誰かが事故で死んでくれれば、犯人からすれば願ったり叶ったりだ。そうなると、いよいよ事件の様相は見えなくなってくる。

「泉さーん」

 着信音が鳴り、私が応答するとすぐ、陽気な声が返ってきた。

「どうした」

「犯人逮捕の時は近そうです!」

「さらに何かわかったのか」

「犯人の住んでいるアパートが特定できました。バイト先や防犯カメラの映像から絞り込んでいった結果、あるアパートに犯人が頻繁に出入りしているということがわかり、現場に急行、近隣住民の話を伺い、防犯カメラの映像に映った犯人の写真を見せて行き、犯人の住んでいる部屋も特定できました」

「よくやった」

「いぇぇい」

 私が褒めると彼は嬉しそうに間の抜けた声を出す。彼がそのひょろながい図体で喜んで飛び跳ねている様子が目に浮かぶ。

「ちなみに、犯人のバイト先からは何か情報が見つかったか」

「犯人は田中太郎という名前でバイトをしていたみたいですが、多分偽名でしょう」

 田中太郎とは。今時そんな名前を偽名に使う奴がいるのか。

「ちなみに犯人の名前は」

「えーっと、アパートの犯人の部屋の表札によれば...」

「叔父さん、まだいるの」

 聞き覚えのある声が聞こえて私はつい電話を切ってしまった。丹羽少年だ。

「何かやましい電話でもしてたの」

「いやいや、全然。会話が終わったから切っただけだよ」

 スマホの通知音が鳴った。メールで井上から「どうしました」と送られてきている。私は丹羽少年と喋りながら、電車に乗っただけだと返信する。

「犯人がどうとか言ってたけど」

「うーん、まあ」 

 言葉尻を濁すしかない。小学生に殺人事件の話はあまりしたくない。彼に自分が警察で働いていると明かしたことを少し後悔する。

「すごい事件?」

「まあ、人が殺された事件を捜査しているんだ」

 私は正直に言った。

「へー、ちゃんと働かなくていいの。警察ってもっとアクティブじゃないの」

「まあ」

 また言葉尻を濁す。小学生相手のこの態度は情け無い。

「もしかして捜査中?」

「いや、そんなことはないけど」

 実際、これに関しては正しいようで正しくないので、答えにくい。

「ふうん。警察の仕事楽しい?」

「まあまあかな」

「じゃあねー」

「そういえば、今からどこに行くんだい?」

「公園。さっきは友達の家行ってた」

「ちゃんと信号見て渡るんだよ」

 私はついそんな言葉をかけてしまう。丹羽少年は大きく頷いて、走り去っていった。

 そして、改めて、井上に電話をかける。少し時間が経って、井上が電話に出た。

「さっきはすまんな突然切っちゃって」

「全然いいですよ。それより、犯人の家への突入はいつにします? 今日にでもできますけど、合流できますか」

 少し迷ったが私は

「すまん、難しい。明日にしてくれ」

 と答える。今日はここで見なければならないものがある。

「わかりました。泉さんのフィジカルがないと、この連続殺人事件の犯人は取り押さえられませんよ」

「そんなことはないだろう。そもそも、犯人は細身なのだろ?」

「細身でも、刃物を持っていたら僕なんかでは捕まえられません」

 井上はそう言って笑う。

「逮捕状は?」

「問題ないです。もういつでも行けます」

 流石仕事が早い。

「そういえば、余談なんだが、例の横断歩道の連続事故について...」

「泉さん、もう一度言いますがあれは事故ですよ。我々が首を突っ込む要素はありません。地元の交番が交通安全運動をすればいい話。まさかまだ事件だと思っているんですか」

「しかし、六日おきというのは妙だろ」

「多分あれですよ、六日おきに信号の誤差がちょっと大きくなるんですよ」

「しかし、そんな不備はないと調査しただろう」

「じゃあ、あれです、呪われた横断歩道」

 彼はそうおどろおどろしく言う。

「もし、誰かが後ろから押していたら?」

「それだったら誰か見ていますよ。泉さん、家の近くで、家族のことが心配だから気になるんでしょう。それはわかりますけど、大丈夫です。もう事故は起きませんよ」

 彼の無責任な発言に私はため息をつき、どこか冷めてしまい私は電話を切った。こうなったら意地でも事件であるという証拠を見つけてやる。今日一日ここに張り込んで、現行犯逮捕してやる。

 そうしているうちに午後三時になった。変化はない。事故なくここまできている。しかし、油断はできない。そろそろ小学生が帰宅し始める。丹羽少年の通っている小学校は創立記念日のようだが、他の小学校は通常通り、また、一時間二時間もすれば、中高生の帰宅時間になり、そして少ししたら、社会人の帰宅時間になる。横断歩道を渡る人数は増えていき、当然事故が起こる可能性は上がってくる。私は事故に対して絶対に防がなければと強い決心をしつつ、実は内心事故が起こって欲しいと思っていた。この目で、事件なのか事故なのか見極める。それが私の今の目的だからであり、興味であるからだ。

「ずっと、ここで何をしているんだ」

 少しして久々に話しかけられた。話しかけてきたのは二人の警察官だ。二人とも大柄で圧力のある体格をしている。小学生の帰宅時間ということでパトロールに来たのだろう。

「ゆっくりしているだけです」

「ゆっくりしているとは」

 二人は首を傾げる。横断歩道を歩いて行った女性が私の方を怪訝な目つきで睨んでくる。

「理由はなく、ただここで時間を潰しているだけです」

「お前、仕事はないのか」

「いや、ありますけど。ほら」

 どこかの段階で自分の素性を明かすことになるだろうと思い、私は警察手帳を見せた。

「泉郷警部...確認をするために、交番まで来てくれるか」

「まさか偽物だと言いたいのか」

「念のためだ。安心しろ、すぐ終わる」

「すぐって、どれぐらいですか」

「三十分ぐらいだ」

 その三十分で事故が起こったらどうする。ここまでの私の十六時間が無駄になる。私は腕を組み、断固として行かない姿勢を見せた。二人は困ったように顔を見合わせた。

「ついてこい。ついてこないなら強引に連れて行くぞ。そんなに行きたくないってことは、もしかして、この警察手帳偽物だな?」

 そう言って片方が私から警察手帳をひったくり、地面に叩きつける。もうどうしようもなく、私は諦めて彼らについて行こうとした時、思わぬ助っ人が来てくれた。

「この叔父さん本当に刑事だよ」

 丹羽少年だ。

「だって、さっきも刑事仲間と電話していたもん」

「君、子供は関係ないから口を挟まないで...」

「この横断歩道で起こっている事故を調べてるんだよ」

「ん? あ、泉警部、知ってるぞ! この人、ここで起こってる一連の事故をまだ事件だと勘違いしている人だ。先輩から聞いたんだよ、馬鹿な中年刑事がいるって話。折角警部まで上がれたのに勿体無いとか言われてたんだよ。いやーあなたでしたかー、失礼しました失礼しました」

 片方の刑事がそう言い、もう片方がそれに触発されて笑い出す。

「あ、あの、泉警部。こんなこと言うのは申し訳ないですがね、そろそろお気づきください。これは事件ではなく事故ですよ。六日おきは偶然。もしくは、電子機器の不良の周期ですよ。警部から降格したくないなら、変な妄想はしないほうがいいんじゃないですか。あなたぐらいなんですからそんなこと言ってるの。それとも妄想癖でもあるんですか?」

 二人はそう言って爆笑し、笑い転げながら引き上げて行った。二人が去って行くのとほぼ同時に、女性が駆けてきた。

「ちょっと、何してるの」

 女性は丹羽少年の方に駆け寄り、丹羽少年の頬を叩く。丹羽少年の母親だろうか。

「違うんですよ、彼は私が警察に絡まれているところ、助けてくれたんです」

 私は少年が不憫でならず、少年を庇う。

「あなたは誰ですか」

「この人警察の人だよ。事件の捜査でここにいるらしいよ」

「警察! あ、失礼しました。無礼な態度をとってしまい。じゃあ、私たちはここで一旦失礼します」

 彼女は丹羽少年を連れて、そそくさと、帰って行った。丹羽少年は体罰を受けているのだろうか。いや、まさかそんなことはない、はずだ。

 また一人になる。無心で横断歩道を見つめる。歩きスマホをしている人や、雑談をしている人や、また、私と同じように無心で突っ立っている人。様々な人がいるが、誰も事故に遭いそうにない。あわや事故になるのではというものもあったが、危機一髪、どれも事故にはならずに済んでいた。まだ何も起こりそうにない。怪しい人物もいない。いや、敢えて言えば、何もせずベンチにずっと座っている私が一番怪しい人物だ。

 本当に六日周期というのは偶然で、今日は事件は起こらないのだろうか。そうであれば、私は大恥だ。

「もしもしー泉さん」

 そうして時間がつぶれて行く中、また、井上から電話がかかってくる。スマートフォンを開いた時に視界に入った「十八時」という文字。私のタイムリミットはあと少しに迫っている。

「どうした井上」

「なんか厄介ごとに巻き込まれたんじゃないですか」  

「まあ、ちょっと」

「もうそろそろ諦めてください。あの一連の交通事故は事故です。事件じゃない」

 多分、さっきの警察官二人が井上に電話したのだろう。余計なことをしやがって。

「そろそろ潔く諦めるのが良いと思いますよ」

「諦める? 何を。別にいいだろう、俺が個人的に捜査しているだけだ」

 内心諦めるべきだと思っている部分があったからか、私は過剰に反応した。

「もしあれが事件だったとしましょう。事件だったとしたところで、我々にはお手上げなんですよ。どこをどう探しても何の証拠も見つからない。明らかになって行くのは、恐ろしい偶然であるという事実だけ」

「じゃあ、最後に議論しないか」

「議論?」

「私とこのことについて議論しよう。事故ではなく事件であるという体で。それで何もわからなかったら諦める」

「わかりました」

 意外にも彼は私の我儘を聞き入れてくれた。

「まず、事故だと仮定した時一番に疑問として湧いてくるのは当然方法ですよね」

「信号をおかしくする、しか今の所は考えられていないな」

「そもそもそれ以外の方法が浮かばないので仕方ないんですよ」

 そこで議論は早くも停止する。しかし、私は諦めずに別路線を攻める。

「じゃあ、被害者全員がグルだったとかはどうだ」

「被害者全員がグル? そんなことありえないでしょう」

「何かの目的を達成するためにわざと車に轢かれた」

「つまり、宗教的な何かがあるということですか」

 井上は半ば呆れ気味に返す。それも無理ない。私だって藁にもすがる思いで、苦肉の推理をしているのだから。

「宗教が絡んでいるとすれば六日おきというのも納得できるだろ、しかも、宗教が絡んでいると仮定すれば中々証拠が上がらないのも頷ける。その宗教団体の他の団員が証拠を隠すから」

「都合がいいように感じますけど」

「その路線で一旦推理してみたら何かわかるかもしれない」

「何より、もしその推理が正しかったとして、どうやってその宗教団体を見つけるんですか」

「それは」

 口籠る。

「しかも、小学生の被害者もいるんですよ。小学生が宗教に加入していたと?」

 更に返答に困る。

「その推理は没です」

 あっさり私のすがった藁は沈んでしまった。そこで不意に閃いて私はもう一つ提案する。

「じゃあ、逆はどうだ」

「逆?」

「そう、逆だ。もし、轢いた側が皆何かしらの宗教で繋がっていたら?」

「一旦宗教から離れませんか」

「でも、こう考えれば筋は通るだろう」

「通りませんよ。考えてみてください、信号無視をしたのはどの事故も歩行者側なんです。だから車を運転していた側は何も考えず普段通り運転していただけなんですよ」

「でも、信号無視をする歩行者がいたら当然事故にならないように車を停止させるだろう」

「車は急には止まれないって知らないんですか。お願いします、泉さん、落ち着いて冷静になって全部考え直してください。あれは事故なんです。偶然が重なった事故」

 井上の諭すような口調に腹が立ち私は

「じゃあお前らはこの横断歩道は呪われていると考えているんだな」

 と怒鳴る。

「呪いなんて信じませんよ。全て偶然です」

「偶然が過ぎるだろう。これが市民の安全を守る者の態度か。事実、設置した防犯カメラは壊されているんだ。お前らは逃げているだけだ。わからないから事故にしているだけ。もし凶悪で知的で獰猛で冷徹な殺人鬼が、六日おきにここで人を殺す、事故に巻き込ませることを楽しんでいるのだとしたら、どうする。また今日も人が死に、六日後また人が死に、六日後また人が死に。十数人、いや、数十人以上の命が失われるかもしれない」

 私は電話なのに、両手を使って力説した。井上もそれを聞いて心を少し動かされたのか

「じゃあ横断歩道を止めたらどうですか」

 と建設的な意見を言った。

「止める?」

「つまり使用禁止にするんです。そうすれば、少なくとも次の犠牲は防げる」

「いいや、そうはいかない。犯人は別の横断歩道でまた人を殺す。別の横断歩道に行ってしまえば、また数件連続で交通事故が起こらない限り、我々は、そこで同じ現象が起こっていると気づくことができない」

「じゃあ、もうどうしようもないです」

「だから犯人を捕まえようと言っているんだ」

 私がムキになって言ったが彼は冷めた様子で

「せめて何か突破口を見つけてから色々言ってください。今は少なくとも何の突破口もない。本当に事件なのかすら怪しい状況なんです。暗中模索すれば無駄な時間を費やすだけです」

 と淡々と「諦めるべきだ」ということを告げる。

「じゃあ、この六日おきに事故が起こるという現象を説明してみろ。事件以外説明がつかないだろ」

「だからずっと言ってる通り、全て偶然なんです。世の中は偶然でできてるんですよ。冷静になって客観的に」

「冷静冷静冷静って。こっちは冷静なんだ。お前らの方がおかしい。なぜここまでの不可解なことが起こっていても偶然だなんて呑気なことを言ってられるんだ。今に見てろ、俺が事件の犯人を突き止め、明日にはお前ら全員の度肝を抜き、全員クビになってもらうからな」

 勢いに任せて電話を切った。切ってから、一気に私は後ろめたくなる。言い過ぎた。腹が立って滅茶苦茶を言ってしまった。多分井上は怒っているだろうな。彼は賢い。だから、私の言い分は十二分に理解しているはずだ。多分この現象が不可解だとも思っているだろう。しかし、彼は賢いからこそ、これはただの偶然だと片付けて、別の事件の捜査に着手した方が時間的に得だとわかっているのだ。どれだけ捜査しても、この一連の事件に穴が見つからないと彼は確信しているのだ。

 そこが彼の長所であり短所でもある。もっと情熱的に行動的にあるべきなのだ、特に若いうちは。私が熱を持ってこの事件を捜査しているのは良いことではないのだが。

「いやー本当に泉警部だったとは」

 さっきの二人の警官が戻ってきた。私は怒り半分に彼らを睨む。

「怒らないでくださいよ。一応俺らも一時はこの事故を事件だと思って捜査してたんですから」

「でも今は事件だと思ってないだろう」

「流石にねぇ」

 一人がヘラヘラと笑う。私は怒る気力もなくただ睨み続ける。

「事故としか解釈できないんですから仕方ないでしょう。今日が、前の事故から六日目でしたっけ。六日おきなんて偶然偶然、偶然ですよ」

 もう一人もヘラヘラしている。

「君たちは防犯カメラが破壊されたことはどう説明する」

 私は少しムキになって言い返した。

「そりゃあ、まあどうとでも」

 片方が言う。

「ほう」

「悪戯でしょうな」

 もう片方が笑う。

「子供のいたずらにしては度が過ぎるだろ」

「今時はこんなもんですよ」

 話にならない。彼らは論理的に物事を解釈しようとしないのだろうか。私は呆れて、黙り込んだ。二人はその後も気に触るようなことを色々と言ってきたが、私が返事をしないので遂には諦めて帰って行った。

 色々と推理してみる。例えば、犯人が上から何かを落とすことで、信号を渡るものの進路を妨害して殺したとか。例えば大きな氷で進路を妨害した、とか。

 当然、これは憶測だが、そういった方法で、或いは何か特別な物を用いてとか。少なくとも、何か物が無ければこんな事件は起こせない。

「お兄さんまだいるんですね」

 日が暮れ切った頃、向かいの洋服屋に働く青年がまた声をかけてきた。彼の様子を見る限り、彼は今から帰宅するのだろう。

「やっぱり体調悪いんですか」

 彼は心底心配そうな顔をして聞いてくる。

「いやいや元気ですよ全然。普通に元気です」

「だったらいいですけど。つかぬことですけど、何をされてるんですか、ここでずっと。いや、その、ここの横断歩道で起こっている事故と関係があるのかなとちらっと思って。ほら、さっきもそのことを言ってたじゃないですか」

「さっきは否定しましたが、実は、私は警察の者でして」

 仕方なく私は打ち明ける。彼は意外そうな顔はせず、むしろ納得した様子で頷く。

「この事故の事件性について調べているんです」

「先ほども言いましたが、僕はこれは事故だと思っています。警察はこれを事件だと考えてるんですか」

「警察、というよりは、私自身がといった感じで。お恥ずかしい話、私が暴走しているだけなんですよ」

 そう言って乾いた笑い声を上げる。しかし彼は真面目な顔つきで

「確かに私は事故を目撃しました。だから事故であると自信を持って言います。しかし、事故でない可能性があるとしたら...。折角ですし、一緒に見届けませんか。今日が例の六日目だからあなたはここにいるんでしょう」

 と言い、私の隣に腰掛けた。

「いやいやそんな。家に帰らないと、心配されるでしょう」

「子供じゃないんですから。それに僕は一人暮らしでして。彼女の類の人もいないので」

 ならいてもらおうか。あと三時間近くある。彼と雑談していたら暇を潰せるかもしれない。

「あなた...えっと、名前は」

「江野と言います」

「江野くんは、さっき事故でない可能性があるとしたらと言ったよね。それはどういう」

「事故に見えます。けど、事故でない可能性も考えられます。僕はそういった事柄をあれこれ考えるのが好きで」

 そう言って少年のように無邪気に笑う。私は彼のあどけない様子に癒されながら、質問する。

「で、事故でない可能性とは」

「それはですね...」

 彼が答えようとした時、私のスマホの通知が鳴った。井上からのメールだ。

「これ、容疑者の写真です。一応万が一見かけた時に」

 と添えてあり、二枚の写真が添付されている。片方は地図の切り抜き。犯人宅の場所が赤で塗られている。

 その写真と、江野くんの顔が一致...ということはなかった。写真に映る男は髭面で目つきの悪い、見るからに好青年の江野くんとは真反対の男だ。

「捜査資料ですか」

 江野くんが興味深々の様子でこちらを見ている。

「今私が捜査している連続殺人犯の写真だ。明日朝こいつの家に行く」

「逮捕しに行くんですか」

 そう尋ねる彼の目は一転して不安げだ。私はその様子に違和感を覚えつつ

「そういうことだ」

 と答える。

「車で送りますよ」

「すまないな」

「いえいえ。場所はどこですか」

「えっと...ここ」

 私はさっき井上からもらった資料を見せた。

「近くですね。そこならひとっ走りです」

 江野くんには悪いが、送ってもらおう。

「江野くんはずっとそこの店で働いてるのか」

「いやいや、ここに来たのは一年前からです。それまでは別で働いてました」

「なぜ仕事を変えたんだ」

「気分、ですかね」

 彼はそう言ってまた笑う。

「犯人はわかってます」

「え」

 突然、彼がそう言ったので私は驚いた。しかし、彼なら犯人がわかっても納得できる気もした。

「この横断歩道の事故がもし事件だったら、の話ですが。犯人も殺害方法もわかってます」

「誰なんだ」

「確信するまではちょっと」

「教えてくれ、頼む」

 私は彼に縋る。

「少し待ってください。それまで、ちょっと雑談でもしてましょう」

「あ、ああ」

 私は曖昧に頷いた。

「えっと、すいません、お名前は」

「泉だ」

 そういえば名乗り忘れていた。

「泉さんは幼い子供が好きですか」

 彼は何を聞いているのだろうか。しかし、彼の不思議な空気感に引っ張られ私は答えてしまう。なんだろうこの感じ。まるで、事件の捜査の時被害者に話を聞いた時のような。

「子供は大好きだ」

「幼い子供は賢いんです。知識があるという意味ではなく、好奇心があるという意味ですが。そして幼い頃の衝撃的な記憶は永遠に残ります。誰しもそういう経験、記憶はあるはずです。僕にもあります」

 彼は何の話をしているのか。

「事件には様々な形態があります。普通の事件、発見されない事件、事件と処理されない事件。僕は全て見たことがあります。その上で一番タチが悪いのは事件と処理されない事件。この一連の交通事故がもしそれだとすれば、犯人を逮捕することは難しいです」

「え?」

「犯人の行っていることは罪に問われることではないからです」

 私はやっと彼がこの事件に関する推理を語っているのだとわかった。

「犯人の手口は至ってシンプルです。今からでも僕が実践して見せることもできますね。道具など何もいらない、いや何なら相手に触れる必要もない」

「早くやり方を教えてくれ。罪に問う問わないは私の方でどうにかする」

 彼は急かされることに嫌そうな顔をしながらも、衝撃の一言では言い表せないほど単純な犯人のトリックを語った。

「赤信号を待っている人の中から、信号をちゃんと見ていない人を見つけ、その人の横に並ぶ。そして、うまく車が来たタイミングで歩き出し、信号が青になったと勘違いした人を嵌めて殺す」


3


 彼の推理は驚くほど簡単だが、ある種私からすれば盲点だった。犯人は何か物を使ったトリックを使ったと思っていた。トリックには絶対に物が必要というこの常識を絶妙に抜け出している。

「この方法なら何度でも試すことができます。一日に十数回試せば、一人ぐらい嵌めることができるでしょう。歩きスマホをしている人間や、会話に集中していて前を見ていない人間、夜、仕事の帰り道で疲れているサラリーマンなど意外にターゲットとできる人もいます。恐ろしい手口です。ある意味、現代社会への皮肉のような」

「成程、犯人の動機はスマホ依存の現代社会への皮肉か」

「残念ながらそうではないと思います。犯人の動機はもっと理解し難いところにあります。それは後にして、今度はこちらから聞かせてください。どうやってこれを罪に問うんですか」

 私は力無く首を振った。残念ながらこの犯人を罪に問う方法はない。だって、犯人は赤信号で数歩前に進んだだけなのだ。これを交通に関する信号無視として罪に問うことはできるが、せいぜい罰金程度、もし強引に事情を説明し、裁判で懲役を言い渡すことができたとしても、軽犯罪で懲役などということは裁判所の不名誉になりかねない。

「どうしますか、泉さん」

 私はもう一度首を振った。どうしようもないことはどうしようもないのだ。

「僕は一つだけ思い付いてますよ、いい方法を」

「なんだ」

「殺すことです、犯人を」

 この男は何者なのだろうか。なぜ私がずっと考えて解けなかった謎をいとも簡単に解き明かし、そして、遂には私に罪を犯すことを煽ってくる。

「ですが、そんなことをした方が問題になる」

「じ、じゃあ、その犯人に別の容疑をかけて逮捕すればいいんじゃないか」

 私は苦肉の策を提案する。警察としてはこんなことをしたくはないが、次の事件を防ぐためだ。

「それは残念ながら難しいです。犯人を罪に問うことはできません」

「それはどうして」

 メールの通知音が鳴った。確認すると、井上からだった。

「さっきはすいませんでした。明日の朝、連続殺人事件の犯人逮捕に行きます。泉さんも、横断歩道連続殺人事件の方がひと段落したら来てください」

 自分のわがままで仕事をサボっている私にわざわざ連絡を入れてくれることに、彼の優しさを感じた。それと同時に、私は本来捜査指揮するべき事件を放っぽり出して、横断歩道の前で時間を潰していることが情けなくなった。私がサボっているうちに、もう犯人を特定して、逮捕する段階まで行き着いてしまったのだ。

 私はすくっと立ち上がった。こんなところで油を売っている自分が急にバカらしくなったのだ。そして、江野くんから聞かされた推理によると、これ以上の捜査は意味がないからだ。ここの横断歩道での事件を止めるのは私には無理だ。しかし、江野くんにならできるかもしれない。このことは一般市民だが、彼に任せて、私は自分の仕事を全うするべきだ。

「私は行く。車で送る必要はないよ、色々ありがとう。そして、個人的な頼みなのだが、ここで起きている事件を防ぐのは江野くんに頼みたい。どうにか犯人を罪に問う方法を考えてくれ。いつでも私は助ける」

 格好良いふうに言ったが、言っていることは自分はお手上げですすいませんであるのが悲しいが、私はもうこれ以上ここで時間を潰さない。

 時計を確認する。十一時四十分。赤信号を待ちながら、私はスマートフォンでさっき井上から送られてきた資料を確認する。ずっと確認してこなかった犯人の名前を私は確認する。そういえば、うっかりこの横断歩道の事件の方の犯人の名前を江野くんから聞くのを忘れた。振り返るともう江野くんの姿はなかった。まるで忍者のように一瞬で消えてしまった。

「こんばんは」

 隣から声がした。今日何度も聞いた声だ。

「こんばんは、丹羽くん」

 私は資料の確認を続けながら返事をする。

 青信号になったのだろう、丹羽少年が歩き出した。私はそれに続いて歩き出す。なぜ夜遅くに出歩いているのかという疑問は不思議と湧かなかった。

 突然、丹羽少年は歩みを止め、後ろへ後退していく。私はそれを見ても何も察さずに、スマートフォンから目を離さず前へ進む。目の前の信号が青信号なのだと誤解して。

 私が全てに気づいたのは、右から走ってくる車のライトと目があった時だった。

 まるで全てがスローモーションで動いているかのように時がゆっくりと進んでいく。

 犯人は、丹羽少年だった。

 江野くんの言わんとしたことがわかってくる。動機は理解し難いものと彼は言っていた。憶測に過ぎないが、少年はゲーム感覚で殺しを行っているのだろう。今あるテレビゲームで満足することができずに。犯人を罪に問うことが難しいとも彼は言っていた。それは、少年法のことを指すのだろう。全てがわかったことのよる快感に包まれる私に車はすぐ横まで近づいてくる。丹羽少年は笑っているのだろうか、それとも真顔で私の方を見ているのだろうか。それを確認したいと思ったが、今から私の体に車が接触するまでの一点数秒で振り返ることは難しいだろう。深夜なので人がいないと思い飛ばしていた車が私の体に勢いよくぶつかる。激痛が走る。私の体の節々が砕ける音と感覚がする。段々意識が暗転していく。体が楽になる。

 私の脳裏には家族の顔は浮かばなかった。浮かんだのは死ぬ間際まで見ていた、井上から送られてきた捜査中の連続殺人事件の犯人の顔と名前だった。

「倉井央」

 最後に彼を捕まえてから死にたかった。井上が無事警察官を指揮し倉井を捕まえてくれることを祈り、私は息絶えた。

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