4.演劇

1


 私は演劇のような高尚で、庶民的に見えてどこか庶民的でない文化に触れることは一生ないと思っていた。私は文化人的な生活は送らず、社会人のまま、文化などには触れないまま死ぬのだとも。

 仕事自体はそうしんどいものではなく、会社勤めの人間の中ではまだ楽な方だ。だが、家族との時間や、自分の趣味である登山を続けていると、そう暇にはならない。だが、それに大いに満足していたし、純粋に楽しかった。

 そのため、職場の後輩から演劇鑑賞に誘われた時は、はなから断る気しかなかったのだ。しかし、誘ってきた後輩の押しに負け、仕方なく彼の誘いを受けた。その結果、予想外にも、普通の人は経験できないことに巻き込まれたのだ。


2


「演劇はいいですよ、とても新鮮で」 

 彼はそう言いながら、子供のように無邪気に笑う。いつも元気なのはやはり若さというものだろうか。

「しかし、千五百円も払ってまで見る価値はあるのかなあ」

 私は嫌味っぽいことを言ってしまった。言ってから、彼に申し訳なく思い訂正しようとしたが、それより先に彼が演劇について熱弁し始めた。

「演劇っていうのは新鮮なドラマ、ですからね。当然当たり外れはありますが、映画館に観に行くより得であることが多いです。生で見るから、新鮮さが常にある。そこがいいんです。何でも生が一番ってやつですよ。部長も生ビール好きでしょ。そんな感じです。あとは単純に面白いですしね。笑えるから、ストレスも吹っ飛んじゃいますよ」

 その通りのような、そうではないような。じゃあなぜ私を誘ったんだ、他を誘えばよかったじゃないかと言いたくなかったが、それはグッと堪えた。私もような上司を慕ってくれていることに感謝しなければならないぐらいだ。なぜ、この優しく純粋な青年に向かってくどくどと文句が言えようか。

 今私と彼は演劇ホールの一階にいて、エレベーターの待ち時間で雑談をしている。彼は江野という名字で、来年でアラサー。一方、とっくに五十を過ぎた私からすれば一回りも二回りも年下の後輩だ。彼はとても優秀で、会話も上手で、とても上司から好かれていた。ウェーブがかった髪とその端正な顔立ちには、うちの会社の女性社員は結構虜になってしまっている。そんな彼だが、私に特によく懐いた。大手派遣会社で、派遣人材の管理をしている私だが、別にその仕事はとても名誉があるわけでもなく、後輩に異常に懐かれたことなどなかった。だからこそ、彼のような優秀な後輩が懐いたことが私には驚きだった。最初、私は、彼はこっそり私から個人情報の書類を奪い取りばら撒き、それで金を得ようとしているのではないかと考えた。だが、そんなことは全くなく、彼は会社にとてもよく仕えた。悪事を企んでいるようには見えない。

 そんなわけで飲み会に連れて行った日の帰り道、彼に演劇に誘われて渋々私が承諾し、今に至るのだ。

「お、エレベーター来た」

 彼はウサギのように跳ねて、素早くエレベーターに乗り込む。

「開演までまだ十五分ある。そんな急がなくてもいいだろう?」

「何言ってるんですか。十五分しか、ないですよ。演劇は五分前集合です」

 と真面目な顔で言ってくるので私は

「昔演劇部にでも入ってたのかい」

 と尋ねた。

「いいえ。ただ、昔から演劇を見るのは好きなんです。いろんな劇団のいろんな演劇をこれまで見てきましたよ」

 彼は涼しげに笑って言った。

「すごいな。そんなたくさん。ちなみに、一番面白かったのはどこの劇団のどんな演目だったんだ?」

「さあ。覚えてないです」

「推しの劇団とかは?」

「ないです。僕一回も同じ劇団の演劇を二回以上見たことがないんで」

 そんなものなのだろうか。私は適当に頷くことしかできなかった。

 エレベーターが開いた。ホールへの入り口があるエントランスのようなスペース(ホワイエと言うらしい)で受付を済まし、チラシを貰う。受付では、

「当劇団の公演をみにこられたことはありますか」

 と聞かれたのだが、私は当然いいえと答えが、彼も同じくいいえと答えた。どうやら、彼が言っていることは本当のようで、彼は同じ劇団の演劇は二回以上見ないらしい。

 ホワイエには、二、三人の客がいた。有名な劇団ではないので少ないのは仕方ないだろう。

 不意に、喧嘩をしている客が目に留まった。私はつい気になって聞き耳を立てる。

「なんで入れないんだ」

 六十半ばぐらいの男性がそう騒いでいるのが聞こえた。

「申し訳ございません。しかし、当公演は...」

 劇団関係者であろう、若い女性が応対に困っているようだ。

「そんなルール初耳だ」

「そうは言われましても」

 女性はあまり応対が得意でないようで、中々男性を落ち着かせられない。どうやら男性が公演のルールを聞かず、我儘を言っているようだ。それを横目に見ながら私は会場に入っていく。心の中で、劇団の若い女性にエールを送りながら。

「どこに座ろうか」

 客席は空いており、客は十数人程度しかいない。前の方の座席は、全てが座れないようにされていた。座席の上からテープが交差に貼られている。椅子が壊れたか何かなのだろう。

「真ん中の真ん中です」

 江野はそう言って、客席全体の丁度中央に座る。私もそれについて横に座った。成程、舞台上がよく見渡せる。

「ここは結構埋まりがちだけど。ラッキー」

 これも人が少ないからだろう。

 私は一息ついて、チラシを見る。当然、役者の名は全くわからない。だが、タイトルとチラシの表のイラストからストーリーが推測できる。どうやら駅のホームが舞台で、コメディ調の作品らしい。ポップで軽快なタイトルフォントがそう物語っている。「駅のマイホーム」というタイトル。面白いのかはどちらとも言い難いが、期待はしよう。

 隣を見ると、江野はじっとチラシを見ている。さっきまでの楽しそうな様子とは対照的に、集中している様子だ。話しかけていいような雰囲気ではないため、私は前を向き直した。

「開演に先立ちまして、幾つか注意事項があります」

 そろそろ上演が始まるようだ。私は時計を確認した。一時四十分。やや開演が遅れているようだ。

「携帯電話の電源はお切りください」

 私はポケットから携帯を取り出し、電源を切る。隣の江野は既に電源を切っていたようで、チラシを見つめて微動だにしない。

「上演中はお静かにお願いします。それでは、上演開始です」

 その声と同時に、客席がゆっくりと暗転していく。まるで、夕暮れを飛ばして昼から夜に素早く変わったように感じ、一瞬眠気に襲われた。


3


「ああ、やばい、遅刻する遅刻する」

 明かりがつくと同時に、若くて細身の男が左側から出てきた。口にはパンを咥えている。

「今日は電車が止まっています」

 駅長風の服を着た男が右から出てきて言った。

「え、じゃあ、学校も休みだ、帰ろ帰ろー」

「私立かよ」

 そして、パンを咥えた男がまた左側に帰って行った。そして、袖に完全に入り切り見えなくなったところで暗転した。

 そして、数秒してまた明るくなる。舞台上には八人の男女が立っている。それぞれ思い思いの行動をしていた。

「電車が止まっているなんて、信じられん」

「社長落ち着いて」

 中央ではスーツの二人組が会話をしている。

「すぐに電車を動かさないと、会議に遅れてしまう」

 社長が腕を組んで、椅子に座り、口をへの字に歪める。一方、右端では、若い男女がいちゃついている。

「ちょ、折角のデートが台無しじゃーん」

 彼女が彼氏に絡みつく。彼氏はにやにやしながら

「駅のトイレでも借りるか」

 と言う。

「恥ずかしいじゃん」

「じゃあもうここでやっちゃうか」

「なんでよー、ばかなのー」

 きゃははははははと不愉快な笑い声を彼女が上げる。それをいかにもイライラしながら見ているのが、杖をつき、椅子に腰掛ける老人だった。その老人の介護をしている女性が話しかけても無視して、一向にカップルの方を見ている。

「嫌だ嫌だ、待つの面倒臭いいいいいい」 

 子供が騒いでいる。両親があやしているが、落ち着きそうにない。

「おい、うるさい、お前ら」

 老人が立ち上がって声を荒げた。どうやら騒がしいカップルに向かって言ったようだ。だが、カップルより先に子連れの両親がそれに反応する。

「すいません、うるさくして」

 老人は、困った顔をして、また座り、そのまま眠ってしまった。

「突然叫ぶ老害」

 そう言いながらカップルの彼女が老人をカメラで撮影する。

「私たちがうるさくしてしまったからです」

 父親がカップルの彼女に説明する。

「こいつら謝ってるんだから許してあげなよ」

 とカップルの彼氏の方が老人の肩を叩く。老人の返事はない。

「おーい」

 彼女の方も老人を揺する。返事はない。

「眠っているのだから起こさない方が」

 と母親。

「謝ったら許す、これ道理だよねー」

 彼女の方はまだ揺する。だが起きない。

「ね、ちょ」

 彼女は何を思ったのか老人の額にデコピンをお見舞いした。だが、返事はない。

 異常を察知した彼氏側が老人の首元に指を当てた。そして、静かに

「死んでいます」

 と伝える。

 そのセリフと同時に、スポットライトが老人にあたり、軽快な、どこかで聞いたことあるような音楽が流れる。そして、音楽が止まると、スポットライトは消え、明かりは元の様子になった。それと同時に

「え〜〜〜〜〜〜〜!」

 中央の社長と社員含む、全員がずっこけるリアクションをする。社長が起き上がって

「電車が止まった上に人死だと!? なんという不幸だ」

 と地団駄を踏む。社員はそれを宥めるが、社長の勢いに負けて振り飛ばされてしまう。

「心臓発作だ」

 彼氏は冷静に老人の死体を確認していく。

「お医者さんなのですか」

 母親が聞いた。彼氏は頷く。

「医者っていうか、医学部だけどねー。みえはっちゃって」

 彼女が茶化すが、彼氏はそれを無視して

「事件性はないな。殺人ではなく、ただの心臓発作だ」

 と分析していく。彼女は無視されたのが癪に触ったのか、彼氏から離れて、スマホを触り出した。

「この死体をどこかにやってくれ」

 社長がずかずかと彼氏の方に詰め寄った。

「別に警察を呼べばいい。警察が処理してくれるはず」

「しかし、我々が殺したと疑われたらどうする」

「そんなわけ」

「心臓発作なら我々が薬で殺した可能性は否定できないだろう、警察からすれば。私は社長だ。しかも、大手の大企業の社長だ。殺人の容疑をかけられるなどもってのほか」

「えーあんたどこのしゃちょーなの」

 視線はスマホに釘付けになったまま、彼女が尋ねた。社長は衣服を正して言う。

「兄丸薬品だ」

 沈黙。社員が

「兄丸薬品を知らないんですか。業界では、まずまず有名な。漢方薬のロータ二重を作ったのは我が社です」

 ロータ二重、もピンとこないようで、沈黙。

「問題児しかここにはいないのかね」

 社長が恥ずかしさを紛らわすためか大声を出した。その声で、泣き止んでいた子供が泣き出す。両親は慌てて宥め始めた。

「すぐ泣く子は面倒だな」

 社長はバカにしたようにそう言って、左端まで歩き去り、集団と距離を取る。

「あいつ感じわるー」

「最近はあんな人ばっかりさ」

 彼氏は老人の方を見ながら呟いた。

「あのじじいがマシに見える」

 彼女も酷い感想を続ける。

「子供を泣かせて何がいいのか」

 彼氏は冷たい目で社長を睨んだ。その時、社長が突然苦しみ悶え始めたのだ。彼氏は慌てて駆け寄る。しかし、駆けつけた頃には、もう社長の心臓は止まっていた。次なる被害者が出た。

 スポットライトが一瞬社長を照らし、軽快な音楽が流れる。そして、音楽が止まると同時にスポットライトが消え、元の明かりになった。先ほどの老人の時と同じ手順だ。

「ええええええええええええ」

 全員が先ほどを超える大仰天を見せる。

「我が社はどうすれば」

 社員は仰天してそのまま崩れ落ちた。それが哀れに見えたのか、彼氏が励ましに行く。彼女の方はさっきからなかなか自分に構ってもらえず不満げだ。

「まだ死んでいるかわかりません」

 彼氏はそう言って、突然倒れた社長の脈を図る。しかし、残念ながら社長の脈はなかった。彼氏が首を振るのを見て社員はため息をつき啜り泣き始めた。

「元気を出してください」

「元気を出せるもんか。社長がいなければ我が社は終わりだ。倒産だ」

 社員は赤ん坊のように手足をばたつかせる。

「ちょっと駅員さん探してきます。どこかにはいるはずなんで」

 そう言って、母親が右に立ち去った。母親が舞台上からいなくなってすぐ、子供が泣き出した。父親は必死であやすが、中々子供の機嫌は良くならない。その泣き声を聞いてか、母親が五秒ほどで戻ってきた。

「一応、走って駅員さんのいる部屋までは行ってきました。でも、いませんでした」

「下手したら、この駅には、この三つの死体と五人しかいないんじゃ」

「ひどーい、私のこと死体にしたでしょ」

「ばれたあ? だって、みくぴのことは肢体としか見てないからね」

「うまいけど、うざーーーい」

 こんな状況なのに呑気に戯れ始める二人。そして、泣きじゃくる赤ん坊。それをあやす両親。赤ん坊よりも大声で泣く社員。そして、二つの死体。場が混乱状態になってきたところで、赤ん坊の方がやっと泣き止み、父親が言った。

「私が駅員を探してきましょう」

「おなしゃす」

 カップルの二人が口を揃える。父親はやや不愉快そうにそれを睨んで、左に走って行った。

「あんたも泣き止みなさいよ」

 彼女が社員に声をかけるのと同時に、左袖から叫び声が聞こえてきた。


4


「ストップストップ」

 父親が顔面蒼白で戻ってくる。何か恐ろしいものを見たのだろう。

「どしたのー」

 彼女は呑気に尋ねた。

「劇をストップ! 劇を続けられる状況じゃない!」

 客席に少し笑いが起こる。

「照明、一旦明るくして」

 父親が喚く。

「早く、明るくして」

 再喝して、やっと照明が明るくなった。

「殺人事件だ。下手袖で、木下が死んでいる」

 最初はそれも演劇の一環だと思い、私も、そして隣に座る江野も笑っていたが、どうやら彼らの様子を見る限り、演技ではないようだ。

「犯人はこの中にいるはずだ。ここにいる人間は、お客さんも皆ホールから出てはいけない」

 父親役の...チラシによると、錦町という名前の男が指示した。

 突然の事件に客席はどよめいた。この客の少なさで、ここまで大きなどよめきが起こるのだから、全員が相当パニックに陥っているのだろう。私もその一員だ。だが、江野は大して慌てる様子はなかった。やはり変わったやつだと私は納得する。

「警察には電話しました。どうか、皆様は携帯などを閉まっていただいて、SNSにあげるようなことは断じてやめてください」

 錦町が舞台上から客に指示する。その指示を無視しようとする客はいなかった。

「死体を見せてください」

 江野は堂々とそう言った。

「それはできません。相当なショックになると思うので」

 彼氏役の、和田が止める。

「お客様の安全を最優先に考えるのが我々です」

 一人が江野の方に歩いてきて言う。

「しかし」

「我々は劇団員として、仲間として、木下の死を悼み、彼の死体を見ています。しかし、あなたは野次馬として死体が見たいという好奇心に駆られているだけだ。木下の死体は見せ物ではない」

「えっと、すいませんが、あなたは...」

 一触即発の様子だったので、私が助け舟を出した。

「私は、この劇の演出家の板間と言います」

「えっと、木下というのは」

「うちの役者です。最初に、遅刻間際の学生役で出てきていたでしょう」

 板間はちゃんとチラシを読みましたか、と言いたげにチラシを私に押し付ける。

「殺されたというのは...」

「そのままです。私も確認してきましたが、あれは紛れもなく死んでいます」

「早く帰りたいんだが」

 後ろの席に座っていた男が立ち上がって怒鳴った。

「ですが」

 舞台上から、彼女役の細見が相手をする。

「帰らせてくれ」

 今度は前の方に座っていた別の客が抗議の声を上げた。

「しかし」

 老人役の、村橋が起き上がってその客の応対をする。客席の動揺は最高潮に達していた。

「とりあえず、状況を整理しませんか。警察が来るまではこの場は僕らで対処しなければならないんです」

 と声を上げたのはまたも江野だった。私は江野にやめとけと耳打ちしたが、江野はそれを聞かず、それどころか舞台上に向かって歩いていく。

「状況を整理しましょう」

 彼はぱんぱんと二度手を叩き、客や劇団側の人間の意識を自分に集めた。一時的にざわめきが収まった。

「早く帰りたい方もいるでしょう。なら、早急に犯人を見つけなければなりません」

「じゃあさっさと見つけてみろ」

 早く帰りたいと怒鳴ったさっきの男が野次を飛ばす。

「見つけて差し上げましょう」

 江野はまるで演者になったかのように自由に舞台上を動き回る。ホール内にいる人の意識は彼に釘付けになった。

「劇団の問題です。それに、推理ごっこじゃなく現実に起こった殺人事件なんだ。そんな軽はずみに参入されては困る」

 劇団長兼演出家の板間が江野に詰め寄る。

「軽はずみ? 全く軽んじてはいません。劇団の問題でも、客の見ている前でこんな事件が起こったんだ。劇団内の問題として、客を排除するわけにはいかないでしょう」

「あなたのようなど素人が調子の乗って事件捜査に参加することに文句を言っているんです」

 板間の顔が真っ赤である。私はそろそろ彼を抑えなければ、殴り合いの騒動になるのではないかと危惧して、席を立ち、舞台上の方へ走る。その間も江野は

「事件を解決したいんでしょう。なら、たくさんの知恵があった方がいい。それとも、あなた一人のちっぽけな脳みそで事件を解決できると?」

 と挑発的に板間に言い返す。

「誰がちっぽけだ」

「一旦二人とも落ち着きましょうよ」

 私が舞台上に辿り着く前に、役者の一人...あれは老人役の村橋が、二人の間に入った。多分、この劇団で最も年上(四十ぐらいだろうか)なので、板間は素直に村橋の言うことを聞いて、黙った。江野は何か言おうと口を開いたが、私が慌てて彼を止めた。

「一旦落ち着いて、状況を整理しましょう。音響照明、降りてきて」

 村橋が声を飛ばす。ホールの一番後ろに音響と照明の機材エリアがあり、そこに向かって言ったのだろう。流石舞台役者、声の通りようは綺麗で、ホールにまるで大量の水を注ぎそれが広がっていくかのように、響いた。

「まず、劇中にうちの役者が殺された。そして、それに気づいたのは...」

「俺です」

 父親役をしていた錦町が挙手する。

「にしきが、気付いた。そして、劇を中断した。警察に通報し、警察を今は待っている状況。だが、客の中には急ぎの用があるものもいて、早く客を開放したい。しかし、事件の犯人がわかっていない現状、客を安易に開放すれば当然犯人に逃げられる可能性がある。だから、客は開放できない。そこで、警察が来る前に事件を解決すればどうかと、君が立ち上がった」

 村橋が丁寧に説明する。江野も板間も、何度か頷きを入れながら黙って村橋の話を聞く。村橋という男にはどこか底知れぬ統率力と俯瞰力、そして知力があるように私には見えた。

「君の事件をさっさと解決したいという気持ちはよくわかる。けれども、それはいささか賢い判断ではないと思う」

「ですが、早く帰りたい、急ぎの仕事がある、そんな客もいるんですよ」

「それもその通りだ。そこで、我々劇団側で事件を捜査するというのはどうだろう。警察が来るまで、うちの団員や客に事情聴取を行ったり、推理をする。そして、警察が来たらその情報を提供する。そうすれば、忙しい客も、少しでも早く帰ることができるだろう」

「そんな簡単に事件の捜査なんてできません」

 江野が口を挟む。

「それはお前だって同じだ」

 板間が言い返し、また言い合いになりそうになったところで、江野が声を張り上げて言った。

「僕は実は探偵をしていまして。こういった事件の捜査にも慣れているんですよ」


5


「探偵。んなわけ」

 板間が吐き捨てる。板間の乱暴な態度には私も怒りを覚え始めた。いくら江野のでしゃばりに問題があるとはいえ不躾すぎるように思える。

 それにしても、彼が探偵をしているというのは本当なのだろうか。

「証拠を見せろと言われると、困るんですが実際に探偵をしています」

 彼は念を押す。

 私はいささか驚いてしまった。まさか彼が探偵をしているとは思ってもみなかった。しかし、彼が探偵をしていると考えると納得できることもいくつかある。事件が起こってからの彼の仕切るような口調や、死体に慣れているという発言。さらには、会社での派遣人材管理の私になつく理由も、納得できる。探偵だから何かの人探しをしているのだ。それで、個人情報の書類に興味があり、私に近づいてくるのだ。

 そう考えると色々と腑に落ちるのだが、一方で、私の人格に彼が懐いているわけではないと思い知らされてどこか悲しい気持ちにもなる。

「じゃあ、死体を見せてください。嘔吐一つなしで見ることができますよ」

「じゃあ、見てきてください。鈍器で頭や顔を何度も叩かれている。見るに耐えない姿に...」

 村橋の話を全く聞かず、彼は下手袖に歩いていく。そして、少ししたら平然と下手袖から戻ってきた。吐きそうな様子はない。

「私の警察の友人によるとどれだけ強い警察官でも、初見では皆吐いてしまうらしい。とりあえずはあなたが探偵だと信じてあげましょう。だが、探偵だと信じたからといって状況は変わらない」

「殺人事件の調査の経験もあります。いや、正確には人探しの際に殺人事件に巻き込まれたんですが。それはさておき、犯人を見つけることだって、僕ならできます」

 江野は物凄い熱意で村橋に食いついたが、村橋は首を振る。

「客席にいなさい」

「でも」

「舞台から降りなさい。たとえあなたが探偵であったとしても、少なくとも今はお客様だ。私にはお客様を接客するという仕事がある。その接客の元で客席に戻ってきただきたい」

 村橋の意見が最もだった。

「村橋さんのご職業は...」

 探偵モードになってしまい、引き下がろうとしない江野を私は押さえつけて、強引に客席に戻した。

「もともと航空会社で働いていました。では、みなさん、しばしお待ちください」

 律儀に江野の質問には答えてから、村橋は立ち去った。江野は不平不満な顔だったが、仕方なく私と共に元いた席に座った。舞台上では、村橋や板間を中心に、音響照明のスタッフも含めて話し合いを始めていた。だが、舞台上で話し合うべきではないと誰かが言ったのだろう、ぞろぞろと舞台上から楽屋の方へと引き下がっていった。

「話しながら推理しましょう、久保田さん」

 江野が言った。

「証拠がなさすぎる。これじゃ、犯人がわからないだろ」

「状況を整理すれば、ちゃんと犯人はわかりますよ。僕らは特等席で劇全体を見渡していたんだから、情報は十分入ってるはずです」

「じゃあ、まず、木下という劇団員が殺されて」

「飛ばし過ぎです。もっと順を追って。劇の流れを」

「まず、木下さんと駅員役の...」

 駅員役をしていた人の名前を確認するためにチラシに目をやる。

「ああ、伊藤。木下さんと伊藤さんが出てきて、プロローグのような感じでひとウケとってはけていった。続いて、残りの六人が出てくる」

「伊藤さんと木下さんがそれぞれどちらにはけていたか覚えていますか」

「うーん、確か暗転したから」

「暗転しても見えるものは見えるでしょう」

「多分、左側に」

「下手袖にはけていきましたね。でも、それは木下さんだけ。伊藤さんは上手袖にはけていっている」

「そんな細かく、よく暗闇で見えたね」

 私は感心する。

「慣れればどうってことも。続きを」

「六人が劇をして、で、途中で死体が見つかった」

「飛ばし過ぎです。そこまでにも出はけはあったでしょう」

「ええ...流石に覚えていないなぁ」

「母親役の早道さんが一度上手袖にはけています」

 そういえば。確か、駅員を探しにいってすぐに戻ってきたのだ。

「で、父親役の錦町さんが下手袖にはけて死体を発見、か」

 段々思い出してきた。

「そうです。では、この状況を見てどう思いますか。十秒以内」

 まるでクイズのように出題されて、私は戸惑う。

「そう、まず役者に事件を起こすチャンスはない」

「でも、一時的に早道さんは上手にはけている。そこで殺すことはできるのでは」

 すぐに彼は否定して

「でも数秒しかはけていない。その数秒で、上手袖から、ホリ幕の裏を通って下手袖に移動し、そこでひとをぼこぼこに殴り殺す。そんな余裕はないでしょう」

 と言う。

「あ、じゃあ、最初の駅員役の伊藤さんはどうだ。彼は上手にはけた後、出番がない」

「いやいや、彼は出てますよ」

「え?」

 素っ頓狂な声が出た。伊藤さんは最初に駅員として出てきて以来、舞台には出ていないはずだ。

「伊藤さんは社員役もしています」

「ええ」

 更に素っ頓狂な声が出る。私は慌ててチラシを確認する。本当だ。社員と駅員、両方に伊藤亮太という名前がある。

「錦町さんが下手袖にはけて、死体発見の声を上げるまで数秒程度...その数秒で事件を起こすのは不可能だ...じゃあ...少なくとも役者には殺すチャンスはなかったのか」

「そうです。役者は少なくとも。では、次に演出兼劇団長の板間さん。彼に殺害のチャンスはありますか」

 そう問われて最初に思い出したのは、板間の血管の切れたような恐ろしい怒り顔だった。

「板間さんは劇が開演した後、どこにいたのかわからないからなぁ」

「客席にいました」

 江野が即答する。細かいところまでよく見ているなぁと私は感心する。

「じゃあ、彼も無実だ。あとは、スタッフ、音響照明の人だな。だが、彼らのアリバイは確認したくてもしようがないな」

「そうですねぇ。また、客については、少なくとも、僕らから見える範囲では誰も立っていませんでした。なので、客は犯人ではない」

「私たちが座っているよりも後ろの席の客が立っている可能性はあるのではないか。しかし、それはどうにも確認できないけれども」

「いや、そこは確認しないでも問題ないんです。客が舞台袖に移動するには、舞台上に上がって移動するか、楽屋がある舞台の裏から行くしかないのですが、そこに繋がる扉は僕たちの入ってきた入り口とそこと対照な位置にあるあの扉だけしかない。なので、そこの扉での出入りはなかったという事実だけで、客は犯人ではないと断定できます」

 成程。立地を知っているのは、ここの劇場には過去にも何度か来たことがあるからなのだろう。

「じゃあ、容疑者は音響照明の二人だけだ」

「いやいや、そう単純じゃないですよ。今回は仕事のなかった劇団員や、入り口で受付をしている制作のスタッフなども容疑者です」

「制作?」

 何も知識のない私は首を傾げる。

「受付とか、宣伝とか、収益計算したりとか。まあ、色んな雑用を担当する役目です」

「ああ」

 そういえばテレビ番組などで見たことがあるような気もしてきた。

「当然、劇団員でも、客でもない人物が犯人の可能性もある。例えば、木下さんに私的に恨みを抱いていた、とか」

 そう言われて、私は、はっとあることを思い出した。歳をとったせいか物忘れが多い脳が忘れてしまう前に、口に出す。

「そういえば、入り口で制作のスタッフと揉めていた老人がいたような」

「その老人はどんな見た目でしたか」

「うーん、そこまでは思い出せないなぁ」

「そうですか。でも、その老人のことも含め、制作の人には話を聞きたいところです」

「しかし、制作は劇団の役員がやっているのだろ。それなら、今頃楽屋で、事件のことを会議しているはず」

「でも、制作ってバイトがやってることも多いんで、意外にまだ中で何が起こったのかも知らず、外でボケーっと爪でも見てるかもしれないです」

 そう言って彼は立ち上がった。どうやら制作に話を聞きに行くらしい。私はその異常な行動力と度胸に改めて驚き、尋ねた。

「江野、お前が実は探偵をやっているというのは本当なのか」

「そうですよ」

 彼は爽やかに笑うと、ホールの入り口へと駆けていく。私にはまるでその背中が、本物の探偵のようにも、そして新しいおもちゃに飛び付く子供のようにも見えた。

「おい、出てはいけないっていうルールだろ」

 入り口の扉に江野が手をかけた瞬間、扉に一番近い席に座っていた男性が苛立ち混じりに言った。それに反応してその近くに座っていた若い女性も

「帰れるなら、今すぐ帰りたいわ」

 と立ち上がり荷物をまとめ出す。江野は慌てて

「いえ、僕らはトイレに行くだけです」

 と言い訳する。

「トイレといって逃げようとしてるんじゃないか。お前が殺したのか? ちっぽけな劇団の劇団員を」

「わかりました、じゃあトイレから戻ってこなかったら僕らが犯人であるということにしてもらって構いません。そうすれば、警察はすぐに皆さんを解放してくれるでしょう」

 江野がうまく言いくるめて、私たちはホールを出た。江野は早速ホールの外でパンフレットの整理をしていた女性に声をかけた。

「すいませんが、あなたが受付ですよね」

「ええ、そうです」 

 突然話しかけられて彼女は戸惑ったようだが、素直に答えてくれた。

「制作募集のバイトか何かできたんですか? それとも劇団員の方?」

「いえ、バイトです。昔演劇をしていたんで、できるかなと思って」

 不審に思うことなく彼女は答えてくれる。

「あ、色々聞いてすいません、実は僕探偵をしていまして。江野と言います。こっちは僕の先輩」

「探偵の方がどうして急に」

 ようやく彼女は怪訝な表情を浮かべた。

「驚かないで聞いて欲しいんですが、ホール内で殺人事件が起こりまして、申し訳ないんですが、誰が殺されたかはまだ明かせません。偶然客席に居合わせた僕がその捜査をしてるんですよ」

 彼女はそれを聞いて、驚いてはいたが、劇団関係者でないためか、ショックを受けている様子はなかった。

「私が容疑者、ということですか」

「いやいや、そうは思っていませんよ。そうではなく、証人としてあなたに聞きたいことがありまして。まず、あなたはずっとここで受付をなさっていましたか」

「はい」

「トイレにもいっていない?」

「はい。アリバイならありますよ。そこの防犯カメラです」

 そう言って彼女は隅に取り付けられたカメラを指差した。

「なるほど」

 私は頷く。

「この劇団についても聞いていいですか」

「構いませんよ」

 その時、江野に惚れたのか、彼女の頬がほんのり赤くなっているように私には見えた。

「今回の公演で役者裏方のどちらの仕事もしていない劇団員はいますか」

「多分いないはずです。いたら、私をバイトで雇わずにその人が制作をやるはずですし」

 私は横で頷く。

「ちなみに、あなたがここを動いていないということを証明できるものは何かありますか」

「やっぱり私を疑ってるんですか」

「疑っていないといえば嘘になります。全員に事件を起こす可能性が等しくあるので」

「そこの防犯カメラを見ればわかると思います。ホールに入る入り口を使っていないことは証明できます」

「でも、楽屋に直接行けるルートもあるんじゃないですか」

「ありますけど、そちらにも防犯カメラがあります。ここのホールでは有名な芸人や落語家がネタを披露したりするので、ストーカー防止用に防犯カメラを設置してるんです」

「詳しいですね」

 江野は疑うような口調で言った。

「過去にも何度か制作をやったことがあって、それで何度かここのホールも来たことがあるんで」

 彼女は嘘を言っているようには見えない。

「あともう一つ、下手袖に繋がる道がありますよね」

「あそこは鍵がないと通れないんで」

「じゃあ、誰かがあそこを通ったという可能性は」

「あの道に入るには、必ずここを通ります。なので、私が見ているはずです。でも、誰もここを通りませんでした」

 つまり、ホールの外から誰かがホールの中に入った可能性は低い、か。

「では、この劇団についてお聞きします。ここの劇団員の方をあなたは率直にどう思いますか」

 この質問には彼女は即答せず、少し悩んだ挙句

「とても劇団員同士、仲がいいと思います。互いに欠点があることを知りながら、それを認め合っているような。そんなたくさん喋ってないですけど、練習やゲネプロを見学させてもらう限りは」

「ゲネプロ?」

 何も知らない私は江野に小声で尋ねる。

「リハーサルのことですよ」

「あ、でも一人だけ浮いてるというか、馴染めてない感じの人がいました」

「どなたですか」

 江野は身を乗り出す。

「木下さん、だったと思います。なんかちょっと浮いた感じで。もしかしてその木下さんが殺されたんですか」

 彼女のその問いに江野はどう返すのだろうか。

「いずれ知ることになるでしょうから言っておきます。そうです、木下さんです」

 最初は隠そうとしたが、観念して江野は被害者を明かした。彼女の中ではそんな気がしていたのか、彼女はやや目を伏せて小さく首を縦に振った。

「木下さんを殺した人物について心当たりはありますか」

「わかりませんが、劇団員の方なのではないでしょうか」

「木下さんが劇団の中で浮いていたから、ですか」

「そんな気がする、というだけですけど」

 彼女は不安そうな目つきで私たちの方を見ている。疑われているのではないかと、まだ気が気でないのだろう。

「そういえば」

 私は思い出して尋ねた。

「公演が始まる前、老人と揉めていましたよね。ほら、六十ぐらいの方と。何かあったのですか」

 私が急に喋り出して驚いたのだろう、彼女は目を見開いた。

「実は、今回の公演は急遽外部向けのものになって、それであの老人が怒っていたんです」

「詳しく教えてください」

「つまり、今回の公演は、身内や常連さんではなく、基本的に初見さんを対象とした公演でして、あの方は初見さんではなく、劇団員のお父様ということで、入場をお断りしたんです。それで少し」

「事前にその旨は発表されているものじゃないんですか」

「いえ、今回の公演が対象を初見さんのみにすると決まったのは今朝なので」

「成程、それで今日は客が少なかったんですね」

 江野が納得して頷く。

「え、あなたは過去にも来たことがあるんですか」

「いやいや、初めてですよ。ただ、劇団の公演にしては客が少ないなと思ってたんです」

 江野がそう説明すると、ああ、と彼女は息を漏らして安堵した。どこか私には気になったが、それは気のせいなのだろうか。

「色々ありがとうございます」

 私と江野は丁寧に礼をして、またホールへと戻った。

「やけに長いトイレだな」

 さっきの男が絡んでくる。

「お腹が痛くてね」

 私は男の態度に腹が立って不躾に応じる。

「ふーん。トイレで、その若くて色白の子とエッチしたんじゃないの?」

「男同士で、ただの会社の上司と部下です。エッチはできません」

 江野は淡々とそう告げて、自分の席へと歩いていく。こういうのを今の若者は「マジレス」と呼ぶのだろうか。私は男を一度睨みつけた。

「で、どう思われましたか」

 江野はそう早速尋ねてきたが、私にはどれについて言っているのかわからなかった。なので適当に

「江野君はどう思った?」

 と尋ね返す。

「そうですねぇ、この事件の七割ぐらいは見えてきましたよ、実を言うと」

「じゃあ、犯人もわかっている?」

「犯人の名前は分かりませんが、犯人がどういう人物かは分かっています」

「犯人は劇団員なのか」

「そうです」

 江野は神妙に頷く。そしてすぐ、突拍子もない質問を投げてきた。

「ところで、途中まで見ましたが、あの演劇は面白かったですか」

 私は正直に答えるべきか迷ったが、嘘をついても見破られる気がして

「面白くなかった」

 と正直に答えた。すると、江野は何度も深く頷いて

「そうですよね、本当につまらなかった。僕が見てきた演劇で一番面白くなかった。そのレベルにつまらなかった」

 と笑う。馬鹿にしているのだろうか。それとも、何か言いたいことがあるのだろうか。

「そして、あの話は単調でしたよね」

「まあ、そうだな。あれがあと四十分近くあったら、私は寝てた」

「そうですよね。展開がまるで単調で動きがなかった。さらにいえば、あれは、あの十数分の場面だけしかないように見えた」

 彼は何を言っているのだろうか。理解できそうでできない。

「さて、音響照明のアリバイを確かめにいきましょう」

 彼はのりのりで舞台上に向かって歩いていく。また一悶着起きかねない状況だが、私にはそんな彼を止めることはできない。


6


 江野はズカズカと舞台上に登った。客席からは男女の非難する声が聞こえたが、彼の耳には入っていないようだ。彼はそのまま下手の袖に歩いていく。

「楽屋に行くのか」

 私が尋ねると彼は首を振って

「いいえ、楽屋に行ったらまた怒られるだけです」

 舞台上に登った時点でもう怒られるような気がするが、彼はそれは気にしていないのだろう。

「音響照明のアリバイを確認するためにホールのスタッフに会いに行くんです」

「スタッフの居場所がわかるのか」

「殆どの可能性でスタッフは、楽屋で劇団側と話し合いをしているでしょうけど、もしかしたらまだ残っているスタッフもいるかもしれない」

 江野はそう言って下手袖の奥にある階段を上がり始める。

「つまり、どこに向かうんだ」

「音響照明の卓、つまり、装置がある場所まで行くんです」

 彼は演劇を嫌というほど見に行っているので、そういった物の場所がわかるのだろう。

 下手袖の隅には、灰色の布を被せられた二メートルぐらいの物があった。多分これが、木下さんの死体なのだろう。普通は白い布を被せるものだが、持ち合わせがなくて灰色の布を被せているのか。私は怖いもの見たさでそれに近づいた。生で死体を見るのは祖父の葬式以来だ。しかも、今回は殺人.殺された人を見るのは人生で初めてである。私の踏み出す一歩は重く、まるで死の世界へと歩んでいるかのような歩きにくさである。

 そして、私は死体のそばにかがみ込んだ。死体というのは、恐ろしいものなのに、私をどこか酔わせてくる一面がある。私は死体に惹きつけられ、布をとって死体を見てみたいと思い始めた。全身が鈍器で叩き潰されて見るに耐えない様子だとは聞いているが、それでも。怖いもの見たさのような。私はそっと布の端に指を置いた。そして親指と人差し指で挟み込む。

「絶対に見ない方がいいですよ。吐き気を催すどころではなく、一週間は何も食べれない。さあ、行きましょう」

 江野はそう言って、歩いていく。取り残されたくないので、私は彼に急いでついていく。


「くぅー誰もいないかぁ」

 音響照明卓には誰もいなかった。江野は悔しそうにしているが口元は笑っている。

「スタッフは皆、楽屋で会議中か」

「音響照明のアリバイは今のところ確認できず」

「音響照明のどちらかが殺したんじゃないか」

「少なくとも、どちらかということはないですね。あるとしたら音響照明共に犯人。だってほら、片方がもし公演中に事件を起こしていたら、もう片方が気づくでしょう。同じ部屋で作業してるのだから、片方が部屋から出ていったら当然気づく」

 確かにその通りだ。その推理ができなかった自分を恥じ、私は自分と彼との頭の差を実感した。

「でも、共犯にしても納得できないところがあるんですよ」

「共犯ならアリバイの問題も解決だろう」

「そうすんなり行かないんですよ。だって、木下さんが殺されたのは、舞台からはけてから、父役の錦町さんが気づくまでの十数分。結構な労力も必要だし、何より音なく事件を起こさないと、バレてしまうかもしれないんだなぁ。そこであそこまでボコボコにするのは...そんな余裕があるのかなぁ」

 彼は私に言っているのか、独り言なのかまるでわからない様子で喋り続ける。

「時間が足りないってことか?」

「そうです」

「その問題はないんじゃないか。だってほら、共犯だろう。二人で殺せばいいんだ。二人で協力すれば十数分で十分足りるだろう」

 珍しく閃いた私が自信ありげに彼に語ったが、すぐに否定される。

「いや、正確には十分もないんですよ。当然音響照明にはそれぞれ音響照明の仕事があるんです。明かりのつけ消しや音の上げ下げがあの十数分に何回かありました。その上げ下げをするときは、ここに戻ってこないといけない。ここと、舞台袖の間の行き来で二十秒はかかる。何回も往復していたら結構時間をロスして、最終的には五、六分しか時間はないんです」

「二十秒? 十秒ぐらいで移動できたじゃないか、今」

「早歩きすれば十秒ぐらいで移動できますけど、事件を起こしたのは公演中です。公演中は走ってドタバタ音を立てるわけには行かない。だから、素早くは移動できないんです」

 悉く私の指摘は否定されていく。しかももっともなご指摘を返されて。

「じゃあ、照明か音響のどちらかが...例えば音響が照明の仕事を担当するというのは。そうすれば照明はずっと舞台袖にいることができる」

 私は負けず嫌いからなのか、音響照明共犯説に縋り付く。だがそれも全て彼に跳ね返される。

「一人で十数分であそこまでの攻撃ができるのかという問題に戻ります」

「そこは人によってはできるかもしれないだろう」

「そもそも、公演中音響と照明が同時に働く場面がありました。その場面を一人で操作するというのは些か失敗の可能性がある。失敗すれば怪しまれるし、リスキーでは」

 私はもういちゃもんをつけることができず黙るしかない。

「とりあえず客席に戻りましょう。ここにいるのを劇団員に見られたらただじゃ済まされないでしょう」

「しかし...君はすごいな。一瞬で音響照明共犯説がないと気づいた。私にはついていけないよ」

「いやいや、全然すごくないですよ。若干、この事件の構造が見えてきたからそれに従って考えているだけです」

 だからそれをすごいと言っているのだよ、と私は言いたくなるのを堪える。

 

 私たちがそそくさと客席に戻り、一息つくと、劇団員が会議を終えて舞台上に戻ってきた。腹立つ客がヤジを飛ばす。死体が発見されてからおよそ一時間が経とうとしていた。

「警察の到着を待ちます」

 板間が言った。劇団員たちは皆緊張した面持ちだ。

「皆さんに関してはもう帰っていただいて構いません」

 続けて彼はそう言った。ここまで拘束しておいて、突然帰って良いと言われ、逆に客席が動揺する。一人の女性客が

「私たちの容疑は晴れたのね」

 と舞台上に尋ねる。劇団員の一人...あれは最年長の村橋だ。村橋がきっぱりと

「スタッフたちの確認も取れました。お客様が犯人の可能性はないと断言できます。なので帰っていただいて構いません」

 女性客はそれを聞き、急いで荷物をまとめてさっさと退散する。それに続くように一人二人と客が帰っていく。私もその流れに乗って帰ろうとしたが、江野は帰る気はなく、荷物をまとめる様子もない。まあ彼はほぼ荷物なしで来ているのだが。

「江野くん。帰ろう。こんなところに長居しても仕方ない」

 私はそう囁いたが、江野は立ちあがろうとしない。寧ろ、客が帰るのを待っているようにさえ見える。

「帰るぞ。これ以上劇団側に迷惑をかけてどうする」

 私が語気を強めるが彼は

「大丈夫です」

 と強情だ。

「わかった。私だけでも先に帰らせてもらう」

 私は席を立った。彼は

「今日は付き合っていただきありがとうございます」

 と一礼したが私を止める様子はなかった。私としても、こんな事件に巻き込まれるのはごめんなので、早歩きでホールを後にする。ホールの重厚な扉を開けようと私が手を伸ばした時、ある男が声を上げた。

「こいつとこいつの連れの若い探偵を名乗る男が、さっき勝手に舞台に上がっていたぞ」

 そう言ったのは、先程からずっとピリピリしている男性客だった。

「それは本当ですか」

 村橋が私に確認する。ここで嘘をつけばあらぬ疑いをかけられかねない。かと言って認めれば、何かしらこの事件に疾しいところがあると思われるだろう。どちらを選んでも、殺人容疑をかけられる展開になり、私はやっと江野とホールに来たことを後悔した。私は無言で江野の方を睨む。江野は私が睨んでいるのに気付いたのか、気付いていないのかはわからないが、呼応するように立ち上がった。

「ええ、行きました」

 男性客がにやっと私の方を見つめて嘲笑う。彼は満足したようでそのままホールから立ち去る。ついに、ホールには劇団員とスタッフと私と江野しかいなくなった。

「警察にはこの事実を正直に伝える」

 村橋はきっぱり言う。

「お前が木下を殺したんだろ」

 板間が血気盛んに怒鳴る。だが、江野は怯まず

「ただ、完全にこの事件の真相もわかりました」

 と言い、舞台上に歩いていく。

「ふん、探偵が犯人という展開か?」

 板間が挑発的に言う。だが、背後の劇団員を見ても、劇団員は皆一様に動揺と怯えがあるようだった。

「いえ、犯人は僕じゃないですよ」

 江野は状況を楽しむように笑っている。最早私から見れば彼は狂気的だった。

「客が犯人ではないとあなた方は断定したのでしょう」

 江野は一歩一歩舞台上に近づいていく。

「では、誰が犯人だと思うのだ」

 村橋が江野の方を睨む。

「劇団員の誰か」

 江野は舞台上に上がっていく。

「劇団員が劇団員を殺すと? 俺らは友達だ。親友だ。商売仲間だ。一人欠けるだけで俺らは成り立たなくなる」

「確かに彼は仲間でしたが同時に、劇団からやや浮いていたんですよね。まあ彼の性格から考えれば浮くのも無理はないです」

 江野は舞台上を、まるで我が領土であるかのように悠々自適に自由奔放に動き回る。

「木下の性格?」

 板間がやや狼狽えた。彼が犯人なのだろうか。私は自己保身に好奇心が勝ち、少しずつ舞台上へと近づいていく。

「受付をしていたバイトの制作の方から話は聞きました。木下さんはやや難しい性格で、彼女の目から見ても彼は浮いていたと」

 板間は口を開きぼそぼそと言い訳じみた言葉を発したが、その声はこのホールには拾われず全く聞こえない。

「木下さんは劇団員によって殺された。事件が起こったのは昨日の晩か...あるいは今朝か。まあその辺りでしょうね」

「事件が起こったのが昨日の晩か、今朝? そんなわけはないだろう。事件があったのはさっきの公演中だ」 

 私はつい彼に尋ねてしまう。多分この質問も、彼からすれば彼の演ずる「推理劇」のシナリオにあるのかもしれないが。

「なぜそう思うんですか」

「だって、木下さんを私は実際に見たからだ。最初の最初に舞台上で演技をしていた」

 そう言い終わった後、私は何かに気づいたような気がした。本当はあれは、木下さんではなかったのではないか、と。

「あれは本物の木下さんではなく、劇団員の一人が演じた、木下さんの偽物だったのです。本当の木下さんはもっと早くに殺されていた」


7


 江野の推理を聞き、真っ先に反応したのは血気盛んな板間だった。彼は吼え、江野に掴み掛かる。それを予期していたかのようにすぐさま他の劇団員が彼に飛びかかり、板間を取り押さえた。

「じゃあ、木下さんを殺したのは、板間さんなのか」

 私は舞台上に上がっていって、江野に尋ねる。江野は首を横に振った。

「もし、板間さんだとすると、木下さんのダミーを置いた目的がわからない」

「目的?」

「簡単に推理を喋っていきます。村橋さん、構いませんか」

 村橋は深く頷いた。彼が犯人なのだろうか。私の中では、まだまだ事件の全容が見えてこない。

「まず、今朝か昨晩か、とりあえずは今朝ということにしときましょう。今朝、木下さんが殺された。劇団員の一人、ここでは名前をAとしておきましょう、Aの手によって。それに気付いた他の劇団員たちは当然どうするべきか迷ったでしょう。Aを警察に突き出すという手もあったのですが、一方でAを守りたいという想いも強かった。Aはとても誠実で正直で優しい人だったのだと僕は予想します。劇団員の中には、木下にただならぬ鬱憤を抱く者も多くいて、徐々にAを守ろうという思いを各自が持ち始めた。Aも、何かのミスか、あるいは木下に何かをされて殺害に至ったのでしょう、突発的な犯行だった。同情した皆さんは、警察には通報せずAを逃した」

 江野はそうですよね、と確認するように村橋の方をチラリとみる。村橋は頷きとも否定とも取れる曖昧な返事をした。

「しかし、ただAを逃すだけではすぐに捕まってしまうかもしれない。というのも、今日は公演があり、その公演には木下さんもAも出る予定だったのだから。もしその公演に二人がいなかったら当然誰かが違和感を抱き、そこから木下が殺されていることがバレてしまうかもしれない。例えば、木下の親が公演を見に来て、木下さんは体調不良で休みです、と伝えたら親が心配して電話をかけてしまい、それがつながらず、警察沙汰になる、というように。公演中止も行いづらいですよね、ここのような小さな劇団は一回一回の公演の収益が命だから。そこで作戦を練った」

 一度そこで言葉を切り反応を見る。そして続ける。

「では、Aを逃すための作戦とは具体的にどのようなものだったのか...いや、Aと呼ぶのも言いにくいですね。そのAさんの名前を教えてもらえませんか」

「石生です」

 村橋が口を開いた。

「村橋さんそれを言ったらおしまいだろ」

 板間が反応する。

「もう変わらない。彼は全て知っているようだしな」

「でも、名前を隠せば少しでも逃走時間を」

「そう」

 江野はそのセリフを待っていたかのように板間の方を指差して叫ぶ。

「全ては石生さんの逃走時間を稼ぐためのトリックだったんです」

 板間は観念したように黙った。静かになったホールで江野の声が響く。

「では事件について順を追って喋っていきましょう。まず、石生さんが木下さんを殺す。しかし、石生さんが自白したのか、劇団員が目撃したのか、それが明るみに出る。そこで話し合い、石生さんを逃すことに決めた。しかし、石生さんも木下さんも翌日の公演で出番があった。そこで、台本を急ぎ書き換えることにした。こうして、石生さんと木下さんをキャストとして使わないで良いような本を新しく仕上げたのですが、そこにはもう一つの工夫があった。それが最初に追加された場面です」

「あの場面で舞台上に出ていたのは木下さんではないのか?」

 私は口を挟む。彼は頷き

「あれは木下さんのふりをしたここのホールのスタッフです」

 と説明する。

「つまり、あの場面の時点ですでに木下さんの死体は袖にあったんです。そして、そのまま劇は進んでいきます。当然あの劇は臨時で作られたものです。だから東出さんの言っていた通り、面白くないんです。当然でしょう。また、できるだけ死体に客を近づけないようにしたのは、死体の顔でトリックがバレないためです。でも、近づかれた時のために、顔を何度も鈍器で殴打し潰したんでしょうね」

「でも別に新しく台本を書かなくても...あーなるほど、最初に木下さんのふりをしたホールスタッフを登場させるためだけに新しく台本を書いたのか」

「いえ、それだけが目的ではないです。もう一つの目的は、事件捜査に支障をもたらすためです。キャストを基本的に舞台上にずっと止まらせる台本にして、キャストのアリバイを作っておく。真っ先に疑われる劇団員のアリバイを作っておくというのはとても賢い手だと思います。細かい点ですが、僕が探偵を名乗った時に、必死で僕を客席に止まらせようとしたのもその作戦でしょう。捜査などされては、いずれは真相が究明されてしまう。そうすれば、直ちに石生さんが追われることになる。兎に角石生さんが逃げるための時間稼ぎをしなければならないのです。警察に通報したと客に伝えることで、客が警察に通報しないようにした。当然、あなた方は警察に通報などしていない。さらに言えば、警察が来るまで事件の捜査は劇団が受け持つと語り、楽屋へと引き上げていきましたが、そこでも何の捜査の話し合いもしていなかったのでしょう? 適当な雑談か、あるいはいつの段階で客を解放するかの話し合いでもしていたのですか。また、前の席を全て座れないようにしたのも作戦です。近くで見られると、もしかしたら、冒頭のシーンで素人が演技をしているとばれるかもしれない」

「じゃあ、初見のみの公演にしたのも」

「そうです。初見じゃない人がいれば、木下さんのことが完全にバレてしまいますからね。さてさて、もう二時間経ちました。朝から逃げてるなら、十時間近く経ちますね」

「いいえ」

 錦町という劇団員が言った。

「昨晩です、事件があったのは。なので、二十時間近く経ちます」

「今頃、彼は海外に逃げているはずです。私が個人的なコネを使って、飛行機は予約しましたから。私たちの勝利です」

 村橋が穏やかに呟く。そういえば、彼は航空会社で働いていたと言っていたような。

「一応もう少し補足というか、僕の自己満足のために語らせてもらいます。あなた方は迷ったでしょう。劇団員、スタッフだけでなくバイトの制作にもぐるになってもらおうかどうかと」

「ちょっと待て。スタッフが仲間になってくれたのは都合よく進みすぎではないか」

「多分、この劇団は頻繁にここのホールを使うんだと思います。だから友達同然です」

「いや、友達ですよ」

 スタッフの一人が言った。殺人犯に加担した者の発言なのに、どこか彼らの熱い友情に同情が湧いてくる。

「バイトの彼女にはグルにはならないでもらった。それは彼女への信頼の薄さもあるでしょうが、彼女が受付だからというのもあるでしょう。受付というのは基本的に公演中出番はなく、ずっとホワイエで突っ立っておくだけ。基本的には彼女がホール内の出来事に絡むことはないので、彼女には内緒にしておいた。当然、たくさんの人に事実をバラすと、その分バレるリスクが上がりますからね。劇団員、スタッフの協力あってこの作戦は成功したのですが、当然、劇団員というのは役者だけではありません。裏方、つまり音響照明を担当する二人の活躍も当然ありました」

「活躍? もう現時点で十分事件の構造は成り立っているように見えるけれども」

 音響照明にこの事件に入り込む余地はあるのだろうか。

「活躍というよりかは、いつも通り仕事をこなしただけと言う方が正しいでしょうかね。音響照明が同時に仕事をしなければならない場面をいくつか設定したのも、当然村橋さんの作戦です。そうすることで、音響照明のアリバイを作り出し、これにて完全に劇団員全員にアリバイを持たせようとした。しかし、この作戦には音響照明の狂いのない作業が必須です。失敗をすれば、その失敗の原因を怪しまれ、音響照明が疑われかねません。例えば、片方はずっと退出していて、もう片方がずっと音響照明の両方の操作をしていたから、失敗した、というふうに。簡単なことに見えて、とても難しい要求です。プロとは言え失敗の可能性は誰にでもありますから。役者はアドリブで失敗をカバーすることもできますが、音響照明のアドリブには限度があります。そのため、音響照明の方の活躍は当然大きかったでしょう」

 江野はそう言い切り、そのまま黙ってしまった。彼の推理には続きがあるように思えて、私を含む皆が静かに続きを待った。江野は続きを話そうとはせず、舞台から客席を見渡す。

「石生さんは逃げ延びれるでしょうかね」

 そして江野は呟いた。板間は

「あいつは賢い奴だ逃げ延びられるはずだ」

 と即答する。

「石生さんと木下さんの間には何が...」

 私は気になって口を挟む。すると、村橋が

「詳しくは知らないが親のことで木下に脅されていたらしい。それも数万数十万規模のお金をゆすられていたとか。詳しくは語らんし、語られていない」

 と説明した。私は深いため息をついた。同情と諦念の入り混じった深いため息だった。

「殺人犯を逃した皆さんの罪は重いですよ」

 江野はじっとどこか、客席の一点なのか、或いは彼にしか見えていない虚空の一欠片なのか、を見つめている。そこに何があるのかと私は彼と同じ方向を見たが、あるのは客席だけだ。

「罪が重いからなんだ。別に罪を問われる覚悟はできている」

 と劇団員の一人が。続いて

「あいつは悪くない。悪いのは木下だ。俺らは正しい」

「正しいことをして罪に問われるなら問題ない」

「私は満足してる」

 などと声を上げる。

「それでは、僕は警察にこの件を全て伝えましょう」

 江野はきっぱりと言う。私はそれを制した。意識してというよりは体が本能的に動き、口が勝手に動いていた。

「ちょっと待て、江野。お前の推理を警察に話さないという手はないか? 彼らは善意から、石生という男を守るために事件を起こしたんだ。彼らはまず悪くないし、ここで目を瞑れば、石生さんの逃亡時間を稼ぐこともできる。彼らのためにも、石生という男のためにもここは黙っておこう」

「いいえ、僕は警察に突き出します。石生さんが事件を起こしたということを警察に語ります」

「それじゃ、あんまりだ。彼らは皆石生という男のために、ここまで練って緻密に事件を起こしたんだ。それだけ石生という男は好かれている好青年なのだろう。これで彼が逃げ切ることができなければ、劇団員の皆さんの苦労はどうなる。私たちにその苦労を阻害する権利はあるのか」

 しかし彼は私の強情を打ち砕く。

「いやです。東出さんが止めようとも僕は警察に言います。これが賢い判断だからで。僕の理性は少なくとも、この判断を応援している」

「でも、それでも、石生さんを突き出す必要はないだろう。警察がこの真実に辿り着かない可能性もあるんだ。そうすれば、君はただ十人近くの人の努力を無駄にし、一人の誠実な男を警察に売った非情で冷徹な探偵ということになる」

 私は必死になって言う。完全に心を劇団員たちの団結力と友情に持っていかれてしまった。

「警察がもし仮にこの真実に辿り着けなくても、石生さんが犯人であることは警察に正直に打ち明けたほうがいい、そうですよね」

 江野は村橋の方を見る。村橋は当然と言うように一度首を縦に振る。

「最近の警察は優秀です。いや、昔から警察は優秀なのですが、探偵小説のせいで警察は無能というイメージがついてしまった。この話はさておき。警察の捜査で、木下さんの死亡推定時刻は最も簡単に求まってしまうでしょう。木下さんの死亡推定時刻が求まれば、木下さんは劇中に殺されたということではなくなる。そうすれば、一気に劇団員全員に容疑がかかるわけです。当然、スタッフもこの計画に加担しているとバレますから、疑われます。その場合は、劇団員が容疑者として捕まるハメになるわけです。そうすれば元も子もない。ある一人の劇団員を守るために別の劇団員が犠牲になったんじゃ、語弊のある言い方をすれば、意味がない。劇団員が疑われず、尚且つ、石生さんは逃げ延びる。これを両方達成してこそのこの作戦です。今頃、石生さんは海外です。うまくいけばこのまま彼は逃げ延びるでしょう。だからこそ、警察には石生さんが犯人であるということだけは告げなければならないのです」

 彼は私の一歩も二歩も三歩も先を進んでいた。

「警察は今から呼びますので、時期に警察が来るでしょう。僕は石生さんが犯人であるという事実だけを警察に打ち明けます。筋書きはこういうふうにしましょう。劇中に下手袖で錦町さんが木下さんの死体を発見した。木下さんは冒頭で舞台に出てきています。つまり、木下さんが下手袖にはけてから石生さんが木下さんを襲ったということになる。石生さんはホールの外から下手袖に繋がる経路を通って来た、ということで。ホワイエから繋がってる通路です。木下さんは前日の晩から行方がわからなくなっており、石生さんは当日、急遽欠席の連絡を入れていた。なので、当日急いで別の台本を用意して公演を行った。身内やファンをがっかりさせないため身内お断りの公演にした。石生さんは侵入後、下手袖の機材置き場に隠していた木下さんの死体を出して、下手袖に置き、そのまままた同じ道で逃げたということにしておきましょう」

 よくもまあすらすらとよく出来た計画が浮かぶものだなと私は感心する反面、彼の底知れない能力に恐怖を覚える。

「ちょっと待ってくれ、その作戦だと穴があるんじゃないか」

 と言ったのはさっきの公演で彼氏役をしていた...誰か。

「ホワイエから下手袖に行くには受付の前を通らないといけない。だけど、実際は受付の前は誰も通っていないのだから制作の彼女が正直に証言すれば、すぐに矛盾が発生するだろう」

「あーそこは大丈夫です。彼女には嘘の証言をしてもらいます」

「彼女は俺らとグルじゃないから、そう都合よく嘘の証言をしてもらえるか...」

 板間も言う。

「大丈夫ですよ。ちょっとした工夫で十分」

「金を渡すのか」

「もっと確実な方法を。ちょっと誘ってあげれば、ね」

 江野はそう言って楽しそうにウインクをした。


8


「全てがうまく行ったのか」

 警察からの聴取を終え、日も暮れた道を歩きながら私は尋ねた。

「うまくいきましたよ。彼女はちゃんと嘘の証言をしてくれましたし」

 江野の色気に負けた彼女は江野の命令通り嘘の証言をした。こうして、江野の描いた「嘘の物語」が完全に成立したのだ。

「しかし、大変だったな。ただお前には感心したよ。どうだ、酒でも奢ろうか」

「いやいや、僕は大丈夫ですよ。ご褒美が明日あるんでね。美人とやれるほどの褒美はないです」

 江野は笑う。この子供っぽさのある可愛らしい微笑の裏で、ここまで不健全な思考が巡ってると考えると、私は恐怖しか覚えない。

「探偵ねぇ。まさか江野くんが探偵をしていたとは」

「探偵? 何の話ですか」

 彼が惚けた様子なので、私は若干の苛立ちを覚え、再度尋ねる。

「探偵なのだろ、言ってたじゃないか。見事な推理だった。感心した。君は何でもできる最強の男だね」

「僕は探偵じゃないですよ」

 とそっけなくいうので、私は状況を飲み込めない。

「僕は普通の会社員です」

「じゃあ探偵っていうのは?」

「嘘ですよ」

 平然とそう言うので私は困惑せずにはいられない。

「でも、惨殺死体を見ても吐き気すら催さず、淡々と場を仕切り推理を展開して、全てを言い当てた。そんな真似が一般人にできるものなのか」

「やってみたいじゃないですか、探偵とか。探偵っぽくかっこよく事件のあらましを語るのとか。いやーまあ緊張はしましたけどね」

 と言って彼は乾いた笑い声を出す。

「じゃあなぜ死体を見ても吐かなかったんだ」

「なぜでしょう」

 彼は答えなかった。私は自分なりに彼が何者なのか推理してみる。逃げた石生さん=江野で、彼と劇団がグルになって私を騙したのではないか、とか。しかし、それも納得できない。

 とりあえず私は考えないでおくことにした。少なくとも江野という男を謎めいたままにしておいたほうが私は楽しい。


 一ヶ月後、彼は会社を辞めた。そこから行方しれずとなった。

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