キャンディ・ドロップ
懐かしいにおいがした。私はまだ宇宙服を着ていたが、確かににおいを感じた。そして、空気があることも確かなようだ。
花が咲いていたのだ。
見たことがあるような花もあれば、見たことのないような花もあった。私は花の知識がないに等しかったから、それらを識別することはできなかった。
仄暗いゴミの洞窟に咲く花は、どれも生命力に満ち、眩しく見えた。
どれだけ落ちても底は見えない。咲き乱れる花の数が増えていくだけだ。デブリの外観を考えればとっくに底に着いているはずなのに。
ジミーの姿はまだ見えない。でも、一本道のこの洞窟を下りていけば、必ず彼に辿り着く。そうでなければおかしいではないか。
いや、おかしいのは私の方だ。どうしてジミーのためにこんなところにいる? 彼とは特別親しくもなければ、まともに会話をした記憶だってないというのに。
感情が滝のように押し寄せてくる。感情の流れる体内時間と肉体の感じる体外時間が噛み合わない奇妙な感覚だ。
やがて、空間が開けた。視界から入る情報が、肉体が感じる情報が、それを認識した。
ここは底なのだろうか。私はまだ落ち続けていた。
光が見えた。ビー玉のように乱反射する光だった。どこで何が光っているのかはわからない。
においがする。ビー玉の光にキャンディの輝きを見る。
急に重力が弱まったように感じ、私の肉体は空間に浮遊した。
「ユウ」私は言った。
彼は優しく微笑み、ビー玉の側に浮かんでいた。よく見ると、ビー玉は一つではなかった。
「久しぶりだね、テンマ。待っていた」
「待っていた?」
「ずっと前からね」
「こんなところで何をしている?」
「"何も"。君たちならそう答える。呼吸をすることを、食事をすることをわざわざ説明する必要なんてないからね」
「デブリの中だぞ。呼吸や食事なんかとは違う。説明してくれ。どうしてここにいる? ここで何をしている?」
ユウは美しい笑みを浮かべるだけで、私の質問には答えない。あれから二十五年は経っているというのに、彼は昔のままだ。成長はしているが、ほとんど変わっていない。時の流れに逆らっているように。
「すまなかった」私は言った。
「何がだい?」ユウは訊いた。
「あの頃のすべてだ。俺なら、おまえの世界を変えられたかもしれないのに、それができなかった」
「いじめ、ってやつのことを言っているのかい?」ユウは小さな笑い声を出した。「君が気にしていたのは知っていたよ。私を気遣ってくれていることも、何もできない自分にもどかしさを感じていることも。それでも君は、私と向き合った。対等に接してくれた。何もできなかったわけじゃない。君は"何か"をしていたよ」ユウの声はあの頃のままで、全くの別人のような声だった。
「やめてくれ」私は目の奥が熱くなるのを感じた。
「私は確かに、君との繋がりを感じた。これをなんと呼ぶのだろう。友情、と言ったかな。君たちが恥ずかしがってあまり口にはしない言葉だ。私には恥ずかしさなどないからね。何度でも言わせてもらうよ。私と君の間には、友情があった。だから、私はキャンディを渡した」
「キャンディ?」
「そう。君の嗅覚がいまも感じている"変なにおい"のするキャンディだ。これはね、生命が発するにおいなんだ。君たちが花と呼ぶものから採取した結晶体だ」ユウはビー玉を一つ手にとった。「舐めてみるかい?」
私はビー玉の、いや、宝石のようなキャンディに吸い寄せられていく。
宇宙服のグローブとユウの手が触れた。そういえば、ユウは宇宙服を着ていない。見窄らしいブカブカのボロ布を一枚纏っているだけだ。
私は受け取ったキャンディを宝石を扱うように丁寧に手のひらで抱え、食い入るように眺めた。星屑のように小さくて、儚い飴玉だ。だが、どことなくずっしりとした重みを感じるような気がした。
無意識のうちにヘルメットを外していた。空間が雪崩れ込んでくる。時が入り乱れる。
「そういえば」私は最初の目的を思い出した。「ここに男が来なかったか? ガリガリに痩せたジミーという男なんだけど。俺の仕事仲間なんだ」
「来たよ」ユウは私の上空を指差した。「いまもいる」
ユウの長く美しい指先にあったのは花だ。三六〇度多種多様な花の咲き乱れる花壇が空間の壁付近を浮遊していた。
「どういう意味だ?」そう言って、私は言葉を失った。
花壇に見えたそれの隙間からは、人間の爪だと思われるものが見え、眼球や体毛が見えた。誰が埋まっているのかは言うまでもない。いや、埋まっているのか? 花はジミーの肉体から生えていた。
「おまえがやったのか?」ジミーの花壇を見ながら、私は言った。
「そうだとも言えるし、そうでないとも言える」
「はぐらかすなよ」
「私の意図したことではないということさ」ユウは空間に浮かぶキャンディを掴んだ。「受け入れる覚悟はあるかい?」
私は沈黙で答えた。
ユウは小さく口元を緩め、語り出す。
「私は君たちとは別の生き物だ。似ているようで全く違う生物だ。勘違いしないでくれよ。偽ったり、騙したりしていたわけじゃないし、そういうつもりもない。生きていくためには仕方がなかった。迫害されないためには、適応するしかない。地球で生きていくために肉体を操作したんだ。それも、時の経過とともにできることが少なくなってしまったけれどもね。細胞は変化していく。いまの私はもう、肉体の表面を変化させることはできない。
君と出会ったあの頃は、あの肉体を保つことに必死でね。過度に動けば肉体が消滅してしまう危険があった。だから無闇な運動は避けていたんだ。あ、勘違いしないでほしいのだが、崩壊というのは死ではないよ。うまく加減ができず、肉体の形状を保てないというだけだ。それを顧みなければ、行動範囲は君たちの想像を遥かに凌駕する。私たちの肉体も細胞も、君たちよりは数段と強固なんだ。だから、あの頃に受けた痛みなど、痛みのうちに入らない。本当に、君が気に病むことはないよ、テンマ。肉体の苦痛など取るに足らないことだ。
でもね。あれだけは違った。私の体臭に関することだ。耐えることはできたが、どうしても痛みが残った。肉体とは別の痛みだ。私の細胞が苦痛を感じていたのかもしれない。
私のにおいはこのキャンディと同じだ。生命のにおい。アイデンティティのにおいだ。唯一無二のにおい。個性のにおいなんだ。私は、どこから来たのか。どこで生まれたのか。記憶にないんだ。私から出るにおいが私のルーツだ。私は、私の故郷を探している」
墓場のような沈黙。また少し、時が遅くなったように感じる。
再び、ユウは沈黙を破る。
「君と出会う前からも、私はきっかけを掴んでいた。でも、それが何なのかまでは突き止められなかった。君のおかげなのかもしれないね、テンマ。君のおかげで、私は私のにおいのルーツを突き止めることができた。覚えているかい? あの図書館だ。君に連れられていったあの場所で、私はそれを掴んだ。キャンディを作ったのもちょうど同じ頃だ。
もうわかるだろう? 花だよ。私は花のにおいに故郷を感じたんだ。
図書館という場所は実に素晴らしい。人間が集めた叡智が文献として残っているのだからね。これは誇れる事象だよ。私にとっても大いに役にたった。文献によると、私の細胞は、人と植物の複合に当たるらしい。わかりやすく言うとね。花人間、というわけさ。いや、それでは誤解を与えてしまうか。私は自らの肉体から花を咲かせることなどできないのだからね。だとすると……そうだな。人間花、というのが一番近い表現かもしれない。
体臭の話に戻ろうか。君たちは花のにおいは良い匂いだと認識しているだろう? 確かに、それは間違いではない。身近にある花はどれも良い匂いだからね。しかし、少し視野を広げてみると、違ったにおいが見えてくる。ジャングルなんかでは特にね。悪臭を放つ美しい花は、君の想像よりも多く存在する。私はそれだよ。悪臭の花だ。多くの生物を不快にさせる。でもね、稀に私のにおいを好む生物が現れるのさ」
「俺は別に好んじゃいない」私はムキになって答えていた。
「でも不快には感じなかったのだろう? だから私は、君にキャンディを渡した」
私は眉を顰めた。
「わからないかい? キャンディには、私の細胞の成分が含まれている」
「いいや、わからないね」私は嘘をついた。なんとなく、想像はついている。きっと、ユウもそれを感じていた。
「百聞は一見にしかず、だったかな? 見るといい」ユウはジミーの花壇を指した。「人間花の細胞に適合できなかった人間の末路だ」
「やめろ」
「ジミー、というんだったかな? 彼は自ら、キャンディに触れたんだ」
「やめろ!」私は怒鳴った。
「テンマ」ユウは地表を蹴り、私に向かって宙を泳いだ。「これは私の意志ではない」
「それじゃあ、おまえの意志ってなんだ?」
「決まっているだろう。共存だ。私はいつだって、君たちを排除しようと考えたことはない。ただの一度だって。拒絶と排除を選ぶのは、いつだって君たちの方じゃないか!」ユウの顔は散る間際の花のようだった。「君たちは異分子を見つけるとまず拒絶する。次にするのは排除と支配だ。自分たちが正しく頂点であると疑わず、理解できないものを悪とみなす。わかり合おうとしない」
悲しいことに、私は何も言い返せなかった。
「私たちはヒトでありながら、植物の性質を持つ」ユウの瞳に宇宙の色が見える。「光合成に似たことができるんだ。わかるかい? 水と二酸化炭素と光。それさえあれば死ぬことはない。食事の必要がない。他の生物を食す必要がない。もちろん、食事による養分摂取もできるけれどね。ウツボカズラのようなものさ」
「俺たちは虫ってわけか」
「いや、虫よりもよっぽどたちが悪い。凶暴に見える虫もいるが、彼らは遺伝子を残そうとする本能に従っているにすぎない。命を食らうことの本当の意味を理解している。しかし、君たちはどうだろう? なまじ言語を操り、脳が誇大化したせいで、余計なことばかり思いついてはいないかい? 増えすぎた虫を害虫と呼び、必死に生きる獣を害獣と呼ぶ。勝手な思想と哲学で自らヒトとヒトとの境を作ったくせに、悪意なくその境を跨いだ生物を外来種と呼び排除する。自分勝手に命を弄ぶ。それが頂点に立つ特権だと思っている」ユウはゆっくりと瞬きした。「君たちの言い分もわかるさ。全てを否定しているわけじゃないし、全てが同じ性格を持った個体だとも思っていない。テンマ、君のような人間が一人じゃないことも理解している。私は何も、ヒトを排除しようなどとは思っていないよ。もっと言うと、それほど恨んじゃいない」
「だったら……だったら、どうして?」私はジミーの花を見た。それは憎たらしいほどに綺麗な花を咲かせていた。
「私は静かに暮らしたい」ユウの眼から粒が溢れた。星屑のように輝いていた。「私はヒトを知り、ヒトの持つ善意と悪意を知った。優しさがどれだけ大きくとも、小さな悪意には勝てない。私は怯えきってしまった。この恐怖は、二度と拭えない」
「だからヒトを殺すのか?」
「違うよ、テンマ。さっきも言っただろう? 私は静かに暮らしたいだけ。悪意から逃れた平穏を送りたい。だから地球を出た。排除される前に逃げたんだ。それなのに、君たちは宇宙進出してしまった。科学の進歩? 開拓精神? 聞こえはいいが、突き詰めて言えば侵略だ。人間は、どこまでも支配しようとする。それなら、私たちはどこへ逃げればいい? それとも、逃げることさえ許してくれないのか?」
私はまた沈黙した。
「さっきも言ったが、ジミーは勝手にキャンディに触れた。私はやめろと忠告したんだ。彼には"変なにおい"のするキャンディが宝石にでも見えたのだろう。勝手に触れ、花になった。このキャンディはね。君たちの涙や汗と同じさ。君たちも汗をかき、涙を流すだろう? 私もそうだ。しかし、私たちの場合、特殊な状況下においてそれは結晶体となる。それがキャンディだ。私は自分自身に起こるこのキャンディの現象を知るために、ここで実験していたんだ。ここは君たちが捨てた場所だろう? だから私は、ここが最も安全だと考えた。捨てたゴミの山に戻ってくるなんて思いもしなかったからね。でも、考えが甘かった。君たちが来てしまった」
私は恐る恐る口を開いた。喉はカラカラに渇いていた。「君は、このキャンディで人類を花に変えようとしたわけじゃないのか?」
「私はそんなことはしない」ユウの瞳は力強く煌めいていた。「テンマ、君も食べただろう? でも、君は花にならなかった。見事に適合したんだ。気味の悪いものを食べさせてすまなかったが、あれは一種のワクチンだ。あれを食べたおかげで、君には免疫がついているはずだ。適合するための条件は、私にもわからない。私は私自身について、君たちについて、あまりにも知らなすぎる。わかっていることは、適合する人間と適合しない人間がいるということ。キャンディは毒にもなるし、薬にもなる。
いいかい、テンマ。これは警告だよ。君たちに個性があるように、私たちにも個性がある。私たちが皆、私のように平穏を求めているわけじゃない。キャンディを毒として使うモノが必ず現れる。そうなった場合、君たちに勝ち目はない。食物連鎖の頂点にいるのは、いつまでも君たちじゃないんだ。それを忘れないでくれ」
「それを言うために俺を待っていた?」
「そう思いたい」
「無理だよ、ユウ。それを俺が知ったところで、人間を変えるだけの力はない。仮に力があったとしても、人間は変わらない。そんなこと、君だってわかっているだろう?」
「そうかもしれない」ユウは少しだけ笑ったような気がした。「それでも私は君を待っていた。どうしてなのかはわからない。星の導きとしか言いようがないのかもしれないね」
流れ星のような静寂。時の流れが、人間の概念を超越した場所にいってしまったような気分になった。
「君の考えは正しい」ユウは私の心情を読んだみたいに囁いた。「洞窟を通ってきただろう? あそこは、君たちの知っている時間とは少々流れが違う。ここで体感する時は、君たちにとっては早すぎる。君の追ってきたジミーがあっという間に花になっているのは、それが原因でもある」
「キャンディはすでに、洞窟の外に出てしまったのだろう? だけど、そんなことはどうでもいい。遅かれ早かれ、そうなっていた。気づいたときには、星は流れてしまう」私は深く息を吐いた。そして、微笑む。「君と再会できたのは全くの偶然なのかもしれない。でも、俺はずっと君に会いたかった。会って、あのときの過ちを正したかった」
「過ち?」
私は宙を泳ぎ、ユウの身体に触れた。一見華奢な肉体は、大木の幹のような逞しさがあった。左手で彼の腕を掴んだまま、彼の背後に浮かぶキャンディに手を伸ばす。
「やめろ、テンマ」
「ユウ」私は言う。「本当は薄々気が付いていたんだ。明確な答えは持っていなかったけど、薄っすらとした予感はあった。それなのに、俺は気付かないふりをしていたんだ」
ユウは神妙な面持ちで私の言葉に耳を傾けていた。
「どうすればいいのか、あの頃の私にはわからなかった。でも、ようやくその答えを見つけたんだ」私は星屑のようなキャンディに触れた。「人類の天敵は、雨のように地球に降る。星屑のような雨が」
魂に根が張る。魂の養分が血脈を駆け巡る。肉体が躍動する。
恐ることは何もない。これでやっと分かり合えた。
星屑のようなキャンディは、やがて綺麗な花を咲かすだろう。
そのとき、人類はどんな顔をしているだろうか。
星屑のキャンディ・ドロップ 京弾 @hagestatham
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます