宇宙時代
二〇一六年五月。米国大統領が日本・広島を訪れ平和な世界に祈りを捧げていたとき、私は宇宙にいた。
宇宙飛行士といえば、昔は憧れの的だった。未知の領域で最先端の任務を遂行する選ばれた人間だけの職業だった。しかし、時が進むに連れ、宇宙進出は身近なものになった。今や、民間宇宙旅行などはさほど珍しくはなく、海外旅行とそれほど差異はない。多くの一般企業も宇宙での事業に取り組み始めた。仰々しく手に汗握ったロケットの打ち上げも、随分と手軽になった。当たり前のように離着陸する飛行機と同じように、宇宙船も空へとあがる。宇宙服の質も上がり、量産化にも成功した。人類の生活領域は、着々と地球外へ進んでいた。
しかし、宇宙が身近になった現在でも、宇宙飛行士は最上位の職業だ。大国が多額の資金を投資する宇宙開発事業を最先端で指揮する。未知の宇宙領域を開拓し、人類の未来を切り拓く。常に危険と隣り合わせの開拓者であり、科学者だ。それが本物の「宇宙飛行士」だ。民間の富裕層による宇宙進出は「宇宙旅行者」と呼ばれ、任務を行う飛行士たちとは区別される。
私はもちろん、飛行士でもないし、旅行者でもない。しがない建築作業員だ。ほかのいくつかの職業と同様に、出張する範囲が陸地から宇宙空間に変わっただけのことだ。
宇宙出張の際に求められる条件は一つだけ。健康であること。適性検査と呼ばれるが、不合格とされる者はほとんどいない。科学技術の進歩のおかげで、人間は高度な技術を有する必要はなくなり、ただ健康でありさえすれば良くなった。長ったらしく退屈な健康診断を受け、正常だと判断されれば、宇宙での作業が認められるのだ。ただ、ライセンスを保有する宇宙ガイドが同伴という条件付きではあるが。
ガイドは様々な国と地域の出身者が行っていて、日本人でないことの方が多かった。このとき、私たちのガイドを務めていたのも、タイ人のマッチャという女性だった(タイの伝説に出てくる人物の名前らしく、金魚の意味があるそうだ)。
懸念される言語事情だが、それも最先端の人工知能が解決してくれる。『メビウス』と呼ばれる万能人工知能が宇宙服に内蔵されており、言語の自動変換を行ってくれるのだ。この『メビウス』はヘルメットの音声でも左腕のタッチパネルでも操作できる。かつてのそれとは一線を画するほど高性能で、ニュアンスなど細かな表現も汲み取って変換できるものだった。余談だが、この『メビウス』の言語変換は、莫大な映画の字幕を解読させて出来上がったそうだ。
そういうわけで、健康であれさえすれば、私のような人間であっても宇宙での仕事を行うことができるのだ。
私が参加していたのは〈ゼロワン〉と呼ばれる宇宙ターミナルの建設だった。国際宇宙ステーションをより大型にしたものを民間宇宙旅行者のための「空港」として開発することが目的だった。
一時期は月の開発もささやかれていたが、いくつかの理由から断念したらしい。まず最初に、月の地表は開発に不向きだということ。詳しいことはわからないが、地表や大気の成分のせいで、月を居住可能にすることは現状不可能のようだ。
もう一つが景観の問題だ。地球から臨む月という神秘の領域を人工物でほじくり回すことへの反対が強かった。特に宇宙開発に資金投資している大手企業は軒並み反対しているようだ。
そういうわけで、宇宙ターミナルの建設が人類の宇宙進出へのさらなる促進とされるようになった。
私たちはすでに〈ゼロワン〉に滞在し、任務に当たっている各国の宇宙飛行士たちと合流するために民間船〈ブルーバード〉にて宇宙空間へ到達した。
「こちら〈ゼロワン〉、有人作業船〈ブルーバード〉とのドッキング完了。繰り返す、ドッキング完了」〈ゼロワン〉の日本実験棟モジュール〈ゆめ〉から通信が飛んだ。
「〈ブルーバード〉、了解。結合モジュールのハッチを開く」〈ブルーバード〉の船長、つまり、私のボス、ロドチェンコが無線に話しかけた。彼はすでに宇宙服を脱ぎ始めており、薄汚いタンクトップに油が染み込んだオーバーオール姿になっていた。衣服の隙間から弛んだ白すぎる肌が露出していた。「よし、ボンクラども! 気合入れていくぞ!」ロドチェンコはくしゃくしゃになった煙草をくわえ、火をつけた。
「〈ゼロワン〉は禁煙ですぜ、ボス」マイケル・ロドリゴは笑いながら紫煙を履いた。彼も上半身の宇宙服を脱ぎ、黒く筋骨隆々の肉体をあらわにした。その肉体には様々な箇所に様々なタトゥーが刻まれていた。
「なあに、ここはまだ〈ゼロワン〉じゃねえ。〈ブルーバード〉は治外法権さ。いつものことだろう?」ロドチェンコは左上の金歯を光らせた。「おう、テンマ。おまえも吸っとけよ。しばらくは吸えないからな」
私は適当に相槌を打つとヘルメットを外し、煙草に火をつけた。特に吸いたいわけではなかったが、吸わない理由も見当たらなかった。煙草など、いつもそんなものだ。
「おまえは吸わなくていいのか、ジミー?」ロドリゴは粘っこい笑みを浮かべた。
ジミーと呼ばれたのはガリガリに痩せた韓国人だ。韓国人はイングリッシュネームと呼ばれる名前を持っていて、他国の人間からは大抵がその名前で呼ばれる。私も例外ではなく、彼の本当の名前を知らない。
ジミーと呼ぶにはおよそ似つかわしくないことよりも、彼の体形の方が私は気になった。痩せ形と呼ぶにはあまりにも肉がなさすぎる。きっと彼は拒食症かそれに似た類なのだろう。そんな人間がどうして健康診断をパスできた?
踏み込めばずさんな実態が明らかになるだろうが、私はそんなことはするつもりはない。正規の診断をしていれば、私だって引っかかるかもしれない。いや、この船のクルー全員が二度と宇宙出張へは行けないだろう。余計に首を突っ込んだところで、得をすることなどないのだ。
「ぼ、ぼ、ぼ、僕は吸わないので」ジミーはヘルメットの中でそう言ったが、すでにロドリゴたちは別の会話をしていて、彼の言葉など聞いてもいなかった。
私たちは煙草を吸い終わると日本実験棟モジュール〈ゆめ〉へ移動し、任務にあたっている宇宙飛行士たちに挨拶をし、仕事内容の確認をした。
ほどなく〈ブルーバード〉に戻り、それぞれ、ポッドと呼ばれる一人乗り用小型作業船に乗り込んだ。ガイドと私たち四人の作業員はこのポッドで宇宙空間に出る。〈ブルーバード〉本船は万能人工知能『メビウス』が管理し、宇宙服の無線かポッドに搭載された『メビウス』から音声操作することで、ハッチの開閉など〈ブルーバード〉の操作ができた。
ここで一つ訂正がある。私は建設作業員を装ったが、実は違う。いや、名目上はそうであるのだが、実務内容は違うということだ。私たちが行うのは、スペースデブリ––––宇宙ゴミの回収である。つまり、私は宇宙ターミナルの建設などという大それた計画に参加するわけではなく、その周辺にある邪魔なゴミを除去するだけなのだ。これで私たちのようなろくでもない四人がここに居られる理由がわかっただろう?
宇宙船やロケットの残骸などが積み重なってできたデブリの固まりはターミナル建設の大きな妨げとなった。そのため、『サルガッソー』と名付けられたデブリ集積区域まで運ぶことが私たちの仕事だ。
私たちは最も近くに浮遊していたスペースデブリの山から始めることにした。
作業用ポッドには四本のアームと二本のワイヤーが付いていて、それを使ってデブリを引っ張るようにしてブルーバードに連結させるのが、目下の仕事だ。
「どうして?」私の側にいたタイ人ガイドがつぶやくように言った。
「燃料のせいだよ」私は答えた。「〈ブルバード〉は回収したデブリをサルガッソーまで運ばないといけないからね。この辺の細かい作業では燃料を節約しとかないと。そのために作業用ポットがあるんだ」
「そうじゃなくて。ここは宇宙よ? 星の彼方の、こんなにも美しい領域に来たっていうのに、あなたたちは誰も景色を楽しもうとはしない。見ようともしない。地上と全く変わらない。どうしてそんなことができるの?」
答えたのはロドリゴだった。「宇宙は初めてかい、お嬢ちゃん? そりゃあ俺たちだって最初は感動したもんさ。憧れの宇宙だもんな。でもよ、何度も来てるうちに感覚が麻痺しちまったんだろうな。今じゃ職場に向かう車と変わりゃしねえ。渋滞がないだけマシってなくらいよ。あんたもじきに慣れるさ」
そんなものに慣れたくはない。声にはなっていなかったが、私には彼女がそう答えるのがわかった。
私は作業を進める振りをし、デブリの向こうに見える碧い惑星を盗み見る。
何を感じる? 何を思う?
感動しなければならないという使命感が押し寄せてくる。思いが強くなればなるほど、それは深まるばかりだ。こんなことを頭で考えている時点で間違っているというのに。私は一度芽生えた強迫観念を消せずにいた。
いつからだろう。純粋に感動し、楽しむことを忘れてしまったのは。
「おい、テンマ。手が止まってるぜ。とっとと終わらせて一杯やろうや」ロドチェンコの声で私はうつつに帰った。
「ああ、そうだな」私は二本のアームでデブリの後方部を捉えた。「連結完了。だが……思ったより大きいな」三本目のアームでデブリを掴んだ。「ビクともしない」
「こっちもだ」デブリの前方にいたロドリゴが言った。「アーム四本でも動く気配がねえ」
「俺もワイヤーをかけて引く。ジミー、後方に回って押してくれるか?」
ジミーの反応はなかった。
「ジミー?」ロドチェンコはもう一度言った。
「ジミー、トラブルか?」せっかちなロドリゴの舌打ちが聞こえる前に、私はジミーに呼びかけた。
「な、中に、く、空気があるみたいです」やっとジミーの声がした。
「空気?」ロドチェンコとロドリゴは同時に訊いた。
「そういうこともあるだろう。生成装置から出た酸素が、密閉空間で溜まったままデブリの固まりになったってのは前にもあったよ」私はデブリとなった宇宙船の残骸を見た。「ダルダーノン・エレクトロニクス社のロゴがある。ダルダーノンの酸素生成装置は長持ちするからな。ゴミになった後も起動し続けてたんだろう。でも、今はもう役目を終えているよ。さあ、こっちを手伝ってくれよ、ジミー」
「じゅ、重力もあります」
「重力? それはないだろ。重力装置を乗せたまま捨てるのは国際法で禁止されている」私はポットの『メビウス』でジミーのポットを捜した。「いいから、早くこっちにこいよ」
「は、は、花! 花が咲いている」
「おい、ジミー! いい加減にしやがれ!」ロドリゴの怒鳴り声がした。
が、すでにジミーはデブリの空洞へと落ちていた。
「ジミー!」
私たちの声に、応答はない。ゴミの固まりが引きつける重力が、彼を吸い込んでいった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます