両親と一緒に夕食を食べた最後の日は、小学三年生の時のクリスマスだったと思う。

 共働きの父と母がどうにか時間を作って、ささやかなパーティーをした。私はゲーム機と本を買ってもらい、冬休みはずっと、画面を見ていたような気がする。

 退屈はしなかった。嫌だと思った記憶もない。自分でも不思議なことに、自分の置かれた状況を「そういうもの」と納得するのは早かった。パパでもママでもお父さんでもお母さんでもなく、父と母、と口にすると「大人びてるね」とよく言われる。その程度のたった二文字が大人に近づく要件なら、世の人はもっと大人びていていいと思った。

 中学生になってからは、両親と顔を合わせる時間もほとんどなくなった。昇進だかなんだかの影響で帰るのは更に遅くなり、私もそれを問題にはしなかったので、いつしかそれも当たり前になっていった。学校に行き、家のことと自分のことを済ませ、眠る。休日はゲームか読書で時間を潰した。単調な作業が好きで、意味もなく整地をしたりブロックを積み上げるので私は充分だった。

 ブロックを配置するとき、ふと学校の図書館で見た仏教の本を思い出すことがある。そこには賽の河原についての記載もあって、子供が親より先に死ぬと、延々と石を積む作業をすることになるのだという。父のため母のためと積み続け、孝行せずに死んだことを責められる。なるほど、それは苦行だと私は思う。石を積むのは無意味だから良いのであって、そこに意味を付帯した時点で、行為は価値を失っている。長生きをしよう、とぼんやり思う。そしてその上で、私は自ら石を積みたい。

 無価値なものは、荼唐たからの街にもある。有名なのは〝七奇〟と呼ばれる噂話で、街に住む人であれば老若男女問わず誰でも必ず知っている。〝七奇〟は街が興った時からずっとそこにあるもので、だからこそ今更誰が気にすることもない。私もそうだし、父も母も友達も、「あるね」以上の反応はない。彼らは打ち消しで語られていて、主体はどこにも存在しない。

 名前を持たない家がある。思ヶ谷しがたに二丁目にある木の塀に囲まれた木造屋敷で、「旧     邸」と記されている。空白は単に何もないのであって、そこを埋める言葉は存在しない。〝七奇〟に対して、この事実を知る人は誰もなかった。住人はなく、疑問形で訊ねる時に、指定するべき対象というものを、その家は失っていた。

 学校からの帰り道に少しだけ遠回りをすると、その屋敷脇の小径を通ることができる。塀から飛び出した木々には季節ごとの花が咲き、ひとりでそれを眺めるのが私は好きだったので、家に帰っても誰もいないのをいいことに、私は度々、ゆっくりと時間をかけて帰路を辿った。

 落ち葉が足元を流れる秋の夕方、委員会で遅くなった帰りに、黒猫が小径を悠々と歩いているのが目に入った。ゆっくりと振られる尻尾が可愛らしく、誘引されるようについて行くと、猫は開け放たれたままの門を潜って屋敷の中へと入っていった。

「あっ」

 不意に湧いた焦燥に、境界を跨いだ。飛び石を駆ける影は私を追いて奥に去り、緑の茂る庭へと消えた。待って、と飛び出した。軒下の陰翳から、煙が薄く伸びていた。

 庭に面した欄干に肘を乗せ、気怠げな様子で煙草を吸う人がいた。残照は細い指先を浸して、蕩けた色に沈んでいた。綺麗な横顔だった。色素の薄い皮膚はだひとを象り、首筋は怜悧な線に縁取られていた。

 しばらく棒立ちで見つめていた気がする。その人は私に気がつくと、「おや」と首を傾げた。滑らかな低音を、木々の騒めきのようだと思う。

「迷子なら、早くお帰り」

 穏やかな微笑みには空白があり、私は何も言わずに逃げ出した。自分がしたことが自覚されて、その日は走って帰宅した。何をしていても、あの指先と横顔が脳裏をよぎり、夜には身体を丸めて、祈るように目蓋を閉じた。

 屋敷の女性について訊ねても皆知らないと言うばかりで、得られるものは何もなかった。一週間、遠回りをせずに家に帰った。一週間後、私はまた同じ時間に、あの小径へと足を運んだ。

 門は開かれたままだった。小径の先を車が走り抜け、遠くで踏切の警報が鳴っていた。猫はどこにもいない。足を踏み出し、木陰から欄干の位置を盗み見た。あの人は変わらずそこにいて、同じ姿勢で煙を宙に吹き付けていた。

「迷子、じゃないね」

 今度はそう言うと、困ったように眉を下げて、おいで、と手招きをした。言われるままに近寄った。自然と見上げる形になり、顔の輪郭や髪の質感がはっきりと見て取れた。その人は懐を探って金属の擦れ合う音の中から小銭を取り出し、はい、とこちらに差し出してきた。「え、と……」戸惑っていると、彼女は「煙草が切れそうでね」と言った。

「ここを出て踏切に向かう途中に、煙草屋がある。そこで一箱、買ってきて欲しいんだ。モノはカウンターに置かれているから、お金だけ置いてくればそれで済む」

 できるね、と問われ、わけもわからないまま頷いた。じゃ、よろしく。その人は視線を宙に戻し、それきり何を言う気もないようだった。

 小径を抜けて一本道に出る。まばらな人通りと踏切へ続く道の途中、木造の民家の一部が小さな煙草屋になっていた。中を覗くと、薄い硝子窓の先には暗く狭い畳部屋があり、カウンターの上には何も書かれていない白い箱がひとつ置かれていた。窓に手をかけたところすんなりと開いたので、握り締めていた小銭と箱を交換し、足早にその場を後にした。

 屋敷に戻るとあの人はまだ煙を纏っていて、私は神棚へ奉納するように箱を渡した。「うん、ありがとう」箱を懐に仕舞い込み、「そろそろお帰り」とあの空白の笑みを浮かべる。私は頷く。頷き、背を向けることしか、できなかった。

 翌日も同じ頃に屋敷へ行った。最初は迷っていたというのに、時間が近づくにつれて、頭の中にはあの薄暗い小径と落日に眩む皮膚の色が鮮明に浮かび上がってならなかった。足は自然と道を辿った。踏切の音は遠かった。あの人は「また、来たね」と眉を下げ、同じように煙草を買いに行かせた。用が済めば、「そろそろお帰り」と言って私は屋敷を後にする。私は赤子の姿勢で眠りにつく。それまで気にしたこともなかったのに、その形は不思議と馴染むのだった。

 三日目。その日は偶然母が休みで、一日家にいることになっていた。ただ、私は私で委員会があり、学校を出たのは日が暮れる頃になった。イメージした通りに小径を行き、途中で門が閉ざされていることに気がついた。入れそうな場所は他になく、誰かがいる気配もない。仕方なく諦め、道すがら探した煙草屋は、潜む影の中に沈黙していた。

「昨日は、用事があってね」

 あの人はそう言いながら小銭を渡す。私は受け取り、何を言われるでもなく煙草屋へ行く。今回も箱は無地の白だった。ありがとう、とあの人は言い、「なんと呼ぼうか」と私を見下ろした。

「少年……ではないか。少女、というのもなんだかおかしい。無難に、『君』でいいかな」

 君も好きに呼んでいい、と言われたので、私は初めて、その空白に「お姉さん」と名前を入れた。

 お姉さんは煙草を買いに行かせなくなった。代わりに、私と話をしてくれるようになった。内容は特別でもなんでもない。少し年上の人と話すような、他愛のないことばかりだった。

「穴埋めパズルとか、整地みたいなのが好きでね。空欄とかがあると、気になっちゃってどうにもいけない」

「私も、そういうの好きです。単純作業は、落ち着くので」

 お姉さんは家の内側に、私は外側に立ち、上下にわかれながら言葉を交わす。それはまさしく内実を欠いた儀式のようなものであって、私はその関係を心地よく思った。空白がなく、明瞭で、安定している。お姉さんとの関わりは無意味であるが故に価値を持ち、私は不思議と落ち着いた。家族も友人関係も、意味を求め過ぎている。私はなんでも構わなかった。むしろ、関係に混じる生温い空気は疎ましく──だからだろうか、私はそこから逃げるように、お姉さんに会い続けた。

「良い子は、家にお帰り」

 暗くなってくると、お姉さんはそう言って私に帰宅を促した。私は彼女の言葉に従って、灯り始めた街灯の下、昼夜の境界を歩き去る。お姉さんはどこにも行く気配がない。ずっとそこにいて、ずっと煙草を吸っている。

「同じ場所に止まることで、埋まるものもあるんだよ」

 当然、というようにお姉さんは言う。私には理解の及ばないことだったけれど、それは真実にほど近いようにも思えるのだった。

 お姉さんは時折、用事があると言って門を閉ざした。そういう日はたいてい両親の一方が家にいたので、私は自分の部屋で無為の時を過ごした。自然と、お姉さんのことが脳裏に浮かんだ。空白の人、空白の場所、空白の、名前。私の形は馴染んでいる。些細な仕草も目で追ってしまうあの人は私にとって「お姉さん」であって、それ以上でもそれ以下でもそれ以外でも何でもなく、ただ、ただ、あの屋敷にいるだけの、無意味なお姉さんなのだった。

「私、何もなくて」

 苔の生えた地面を見つめ、吐露するように口にした。「必要をこなしているだけ。やりたいこととか、思いつかないんです」

 お姉さんは新しい煙草にマッチで火をつけた。何を言うでもなく、私をそっと見下ろしていた。どうしてそんな話をしたのか、自分でもよくわからない。ふとした拍子に、口から飛び出していた。

「悩んでるわけじゃないんです。でも、それはきっと、空白で」

「埋めたいの?」

 わずかに湿った風が、枝葉を揺らして頬を撫でた。

 静かで、穏やかで、心地よくて、耳の奥に触れるような、滑らかな声。

 お姉さんを見上げた。彼女は微笑んでいた。

「私が、お姉さんになってあげようか」

 はい。

 はい、と言いたい。

 その手に触れて、もっと近い場所で、皮膚をなぞりたい。

 隣に立って、もっと深い場所に浸りたい。

 蕩けた落日の色と溶け混ざり、屋敷の一枚絵に擦り込まれたい。

 ぐちゃぐちゃに。輪郭が解け、境界も見えないほどに。

「っ、ぇ」

 どこから来たのかわからない衝動に、今まで思ったこともなかった欲動に、心が追いつかない。

 震える唇を開いた。喉を鳴らした。

 けれど、彼らは私の口を衝く前に、人差し指に封じられた。

「まだ」お姉さんが緩く首を振った。深く吸い込んだ煙を、私の顔に吹きかける。

 目を瞑る。しなやかな芳香が、満ちる。

「まだだよ。まだ」

 囁きが聞こえる。ごめんね、とお姉さんが言い、「もう、お帰り」と、背中を押されたような気がした。

 気がつくと私は家の前に立っていて、それまでの記憶は実体を失って浮遊しているようだった。薄く曖昧で、平坦。それからというもの、私は動機というものをまるきり失ってしまって、屋敷に行く気も起きなくなった。あれほど楽しみにしていたのに、その気持ちは煙となって消えてしまった。

 ふと思い立って、何度か前を通ったものの、門は固く閉ざされていて、中を窺うことすらできなかった。存在しなかったはずの確かに在った煙草屋は何の変哲も無い民家の壁になり、踏切の音は遠く、屋敷から伸びる木々には相変わらず季節ごとに花が咲いた。

 日が短くなると、ぼんやりと思い出す。イメージは日に日に荒くなる。言葉にしようと考えると、煙がかかって見えなくなる。

 止まることで埋まるものもある。

 たぶんそれが正解なのだと、私はどこかで悟っている。


 屋敷は「旧     邸」と記されており、その空白には何もない。煙草を吸うだけの誰かがいても、その煙草には銘柄がない。発見された輪郭は流体故に崩れ去り、お姉さんと呼ばれた形もまた、何もないことの証左でしかない。

 街には七つの噂があり、彼らは知られながらも構われることがない。

 街には他にも多くの伝承があり、知られることもないが故に失伝している。

 彼らは主体を失った亡霊であり、打ち消しの語りによって境界を引く。

 人差し指を口に添える。

 だからきっとこの話だけは、誰も知らない。

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瑕日、幽幻なる 伊島糸雨 @shiu_itoh

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