9
なぜ、夢は醒めないのか?
黒瀬は、焦燥し、狼狽えるように視線を、きょろきょろと動かした。右手がじんじんと、痛む。持ち上げてみると、指先から流れ出た血が、細い赤い蛇のように手のひら中央へと向かっていた。
息が、荒くなる。興奮で、眩暈を感じる。一体、自分は、何をしようとしているのか。
その、血に塗れた指先が、玄関扉のドアノブに巻き付くようにして絡んだ。
扉を、開く。
よせ、行くな!
黒瀬は、心の中で怒鳴るが、黒瀬の体は自由の効かない機械仕掛けのように、勝手に動いていくのだ。
ガチャリ、と開いた扉が、閉まった。見慣れた実家の玄関口で、黒瀬はじっと佇み、視線を茫洋と彷徨わせた。
心臓の、鼓動が激しい。巨大な蛇が、自分の体内で育ち、脈打っているかのようだ。
奥から、一人の女が出てきて、不審な表情で黒瀬を見つめた。母親だった。
「行弘、どうしたの、こんな時間に・・・・・・。来るなら来るって、電話でもくれたらよかったのに」
黒瀬は、無表情で、母親を見返した。その、疲れが滲む表情に、黒瀬の心は、痛んだ。
だいじょうぶだよ、かあさん、もうだいじょうぶなんだ、もうおわりにしよう
???
心の中で、呟かれた言葉に、黒瀬は戦慄した。俺は、何を、言っている?
「晴恵は?・・・・・・」
ぼそり、と黒瀬は、呟いた。
「え? 二階の寝室で、寝てると思うわ・・・・・・」
二階・・・・・・そうだ、晴恵は、二階のかつて黒瀬の使っていた部屋を寝室に改造して、そこで寝ているのだ。この家を出ていくまで、黒瀬は、そこで生活していた。もう、ずっと、昔のことだ。黒瀬が出ていってからは、ずっと空き部屋だったはずだ。
そこにいま、妻が寝ているのだ。まるで、閉じ込められるように。意思の伝達が、途絶えた体で。毎日、毎日、どんなことを想って、妻は寝ているのか。
ねえ、もう、ころしてよ。
妻の、ざらざらとした声が、頭の中で響いた。
一段、階段を上った。おねがいだから。一段、階段を、また上がる。もう、つらいの一段一段一段もうしにたいのもう。
階段を上りきっても、黒瀬は、いぜん、夢から覚めることはなかった。自らの身体に、引きずられるようにして、黒瀬はかつての自分の部屋まで歩いていく。そこに、自分の意志は、ない。夢の中なのだ。これは、夢に過ぎない、たとえ――
扉が、開かれた。
黒瀬は、ズボンのポケットから、ナイフを取り出した。部屋の中は、カーテンが閉められ、淡い太陽の光が差し込み、どこか幽玄の間を思わせる。神聖で厳粛な雰囲気が漂っている。
わずかに、汗と尿の混じったような匂いがした。それは、黒瀬が、妻の世話をしていたときの馴染の匂いだった。その匂いの奥に、長年連れそった妻の晴恵の匂いがあった。
晴恵は、寝ているようだった。穏やかな寝息だけが、しんと静まった部屋の中、微かに、転がるように黒瀬の耳に届いてくる。黒瀬は、音を立てず、すり足で妻の寝床へと近づいていく。右手には、ナイフ。
何を、しようとしている。お前は、何をしようとしている。
心の中で、黒瀬は、叫ぶ。
早く、夢よ、醒めてくれ。
たとえ、夢の中でも。
耐えられない。
妻を、殺すなど。
そのとき、ごろん、と晴恵の顔が、転がるようにこちらを向いた。瞼が、うっすらと開き、感情の欠落したような巨大な黒目が、黒瀬を射るように見た。
あなた、きてくれたのね
なに、それは?
あなたが、もっているそれは――
違う、違う、俺は、そんなつもりじゃない。
黒瀬は、言葉に出そうと、もがいたが、声は喉で凍り付いたように固まり、外に出ることはなかった。
いいのよ
晴恵の能面のようだった顔が、ゆらり、と崩れるようにしてほぐれ、例えようもない奇妙な笑顔を形成した。笑ってはいたが、その顔は、泣いているようにも見えた。
わたしが、おねがいをしたのだから、あのひとに
あの人?
何を、言っているんだ、晴恵? 黒瀬は、にじり寄るようにして、ベッドに近づいた。それから、黒瀬は、上掛けをのけて、晴恵の胸を露わにした。なんと、痩せ細った体だろう。苦しかったろ、晴恵?
黒瀬は、大粒の涙を、流していた。こんなに、なるまで、放っておいて、ごめんな。
黒瀬は、右手に持っていたナイフを、ゆっくりと晴恵の胸の中へと刺し込んだ。
ううっと、小さな晴恵のうめき声が、聞こえた。
ああっ、晴恵、晴恵。
黒瀬は、心の中で、絶叫した。ナイフの刃は、ずぶずぶと晴恵の心臓の奥の奥へと沈んでいく。
どうして、醒めない?
夢の中のナイフは、まるで、本物のナイフであるかのように、晴恵の胸の中、埋まっていく。
この夢は
どうして、醒めないのだ
どうして――
夢の中のナイフ 黒木 夜羽 @kirimaiyoru
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます