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 なぜ、夢は醒めないのか?

 黒瀬は、焦燥し、狼狽えるように視線を、きょろきょろと動かした。右手がじんじんと、痛む。持ち上げてみると、指先から流れ出た血が、細い赤い蛇のように手のひら中央へと向かっていた。

 息が、荒くなる。興奮で、眩暈を感じる。一体、自分は、何をしようとしているのか。

 その、血に塗れた指先が、玄関扉のドアノブに巻き付くようにして絡んだ。

 扉を、開く。

 よせ、行くな!

 黒瀬は、心の中で怒鳴るが、黒瀬の体は自由の効かない機械仕掛けのように、勝手に動いていくのだ。

 ガチャリ、と開いた扉が、閉まった。見慣れた実家の玄関口で、黒瀬はじっと佇み、視線を茫洋と彷徨わせた。

 心臓の、鼓動が激しい。巨大な蛇が、自分の体内で育ち、脈打っているかのようだ。

 奥から、一人の女が出てきて、不審な表情で黒瀬を見つめた。母親だった。

 「行弘、どうしたの、こんな時間に・・・・・・。来るなら来るって、電話でもくれたらよかったのに」

 黒瀬は、無表情で、母親を見返した。その、疲れが滲む表情に、黒瀬の心は、痛んだ。

 だいじょうぶだよ、かあさん、もうだいじょうぶなんだ、もうおわりにしよう

 ???

 心の中で、呟かれた言葉に、黒瀬は戦慄した。俺は、何を、言っている?

 「晴恵は?・・・・・・」

 ぼそり、と黒瀬は、呟いた。

 「え? 二階の寝室で、寝てると思うわ・・・・・・」

 二階・・・・・・そうだ、晴恵は、二階のかつて黒瀬の使っていた部屋を寝室に改造して、そこで寝ているのだ。この家を出ていくまで、黒瀬は、そこで生活していた。もう、ずっと、昔のことだ。黒瀬が出ていってからは、ずっと空き部屋だったはずだ。

 そこにいま、妻が寝ているのだ。まるで、閉じ込められるように。意思の伝達が、途絶えた体で。毎日、毎日、どんなことを想って、妻は寝ているのか。

 ねえ、もう、ころしてよ。

 妻の、ざらざらとした声が、頭の中で響いた。

 一段、階段を上った。おねがいだから。一段、階段を、また上がる。もう、つらいの一段一段一段もうしにたいのもう。

 階段を上りきっても、黒瀬は、いぜん、夢から覚めることはなかった。自らの身体に、引きずられるようにして、黒瀬はかつての自分の部屋まで歩いていく。そこに、自分の意志は、ない。夢の中なのだ。これは、夢に過ぎない、たとえ――

 扉が、開かれた。

 黒瀬は、ズボンのポケットから、ナイフを取り出した。部屋の中は、カーテンが閉められ、淡い太陽の光が差し込み、どこか幽玄の間を思わせる。神聖で厳粛な雰囲気が漂っている。

 わずかに、汗と尿の混じったような匂いがした。それは、黒瀬が、妻の世話をしていたときの馴染の匂いだった。その匂いの奥に、長年連れそった妻の晴恵の匂いがあった。

 晴恵は、寝ているようだった。穏やかな寝息だけが、しんと静まった部屋の中、微かに、転がるように黒瀬の耳に届いてくる。黒瀬は、音を立てず、すり足で妻の寝床へと近づいていく。右手には、ナイフ。

 何を、しようとしている。お前は、何をしようとしている。

 心の中で、黒瀬は、叫ぶ。

 早く、夢よ、醒めてくれ。

 たとえ、夢の中でも。

 耐えられない。

 妻を、殺すなど。

 そのとき、ごろん、と晴恵の顔が、転がるようにこちらを向いた。瞼が、うっすらと開き、感情の欠落したような巨大な黒目が、黒瀬を射るように見た。

 あなた、きてくれたのね

 なに、それは?

 あなたが、もっているそれは――

 違う、違う、俺は、そんなつもりじゃない。

 黒瀬は、言葉に出そうと、もがいたが、声は喉で凍り付いたように固まり、外に出ることはなかった。

 いいのよ

 晴恵の能面のようだった顔が、ゆらり、と崩れるようにしてほぐれ、例えようもない奇妙な笑顔を形成した。笑ってはいたが、その顔は、泣いているようにも見えた。

 わたしが、おねがいをしたのだから、あのひとに

 あの人?

 何を、言っているんだ、晴恵? 黒瀬は、にじり寄るようにして、ベッドに近づいた。それから、黒瀬は、上掛けをのけて、晴恵の胸を露わにした。なんと、痩せ細った体だろう。苦しかったろ、晴恵?

 黒瀬は、大粒の涙を、流していた。こんなに、なるまで、放っておいて、ごめんな。

 黒瀬は、右手に持っていたナイフを、ゆっくりと晴恵の胸の中へと刺し込んだ。

 ううっと、小さな晴恵のうめき声が、聞こえた。

 ああっ、晴恵、晴恵。

 黒瀬は、心の中で、絶叫した。ナイフの刃は、ずぶずぶと晴恵の心臓の奥の奥へと沈んでいく。

 どうして、醒めない?

 夢の中のナイフは、まるで、本物のナイフであるかのように、晴恵の胸の中、埋まっていく。

 この夢は

 どうして、醒めないのだ

 どうして――

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夢の中のナイフ 黒木 夜羽 @kirimaiyoru

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