師と仰ぐ

紫鳥コウ

師と仰ぐ

 年末の同人誌即売会の待機列は、港湾の近くにある分、厚着をしてカイロを持っていなければ、耐えがたい。入場者の数が何万人もいるため、前売り券を買わなければならない。午前に入場することができる幸運に恵まれたが、それでも見渡すかぎり、本当に正午までに会場に足を踏み入れることができるのか不安だった。


 十一時頃に、わたしが並んでいた集団が動きはじめた。滞りなく列は進んでいき、無事に入場をすることができたが、うまく身動きが取れなくなるくらいの混雑で、厚着をしたことがあだとなる熱気に包まれた。背中に汗染みができた気配がした。


 事前にブースの位置を調べていたが、会場はいくつもの建物に分かれており、初参加のわたしは戸惑ってしまった。ボランティアの方に道順を教えていただくことで、ようやく目的地を見つけることができた。もちろん、すんなりと歩を進めることはできなかった。


 もう、午後入場と変わらない時間になっていた。新作が売り切れていたらどうしよう。あの方の「作品」は必ず手に入れると、心に誓っている。買い逃すなどということは、絶対にあってはならない。


 しかし、アクリルスタンドがひとつ売り切れてしまっていた。がっくりとしたのはもちろんだった。それでも、初めて「師」に対面でお会いすることができた。手紙をお渡しすることも叶った。文面を何度もチェックし、いま書くことのできる一番綺麗な文字で記した、手紙。「師」はそれを、快く受けとってくださった。


 創作活動を始めるきっかけをくださった「師」に、ようやく、感謝の気持ちを伝えることができた。


 在庫のある、すべての新作を購入させていただいたあと、少しだけお話をすることができた。人生における最大の喜びといっても良かった。帰り道、何度泣きそうになったか分からない。家に戻り次第、構想をしていた新作の執筆に取りかかろう。そう、決意した。


     *     *     *


 駅の近くにあるピザ屋さんで、シーフードとマヨポテトのハーフ・ハーフを買った。まだ昼ごはんを食べていない。それどころか、朝からなにも口にいれていなかった。「師」の新刊を購入することができ、ファンレターをお渡しさせていただけたことで、すっかりひと安心し、空腹がはっきりと意識されていた。


 お腹がいっぱいになると、安心のなかに疲労も加わり、身体の芯を強い眠気が突き抜けていった。あの決意は敗退し、惰眠だみんむさぼってしまったのである。そして、次に起きたときには、すっかり深夜になっていた。


 それにしても、なんて悲しい夢を見たのだろう。悲しい?――いや、悔しいという気持ちだ。起きあがったいまも、しゅんとしてしまっている。


     *     *     *


 本屋さんに一冊の文庫本が平積みされていた。表紙のキャラクターは、間違いなく「師」が描いた女の子だった。恐る恐る、本を取りあげると、挿絵には「師」の名前が刻まれており、その横に記されているのは……敵!


 その「作家」を、どれくらい憎んだことだろう。あのナルシストな振る舞いに、わたしはいくら傷つけられてきたことだろう。どれくらいの物書きが、あの「作家」の指示に従ったファンに攻撃されたことだろう。そして、筆を折る宿命になったことだろう。


 あの「作家」に対する憎しみは、形容しがたいものだ。その「敵」が、わたしがこの世で最も尊崇している「師」と仕事をしている。その悔しさは筆舌に尽くしがたい。あまりにも堪えがたい。


 裏返しにして元のところへ戻し、逃げるように本屋さんを後にした。トボトボと歩いていたのは、むかし一度だけ来た××通りだった。不思議と、数えるほどしか、ひとの姿は見えなかった。ときおり吹く寒々しい風は、身体を元の場所へと押し戻すほどの力強さがあった。もがいても、前へと進めないくらいに。


     *     *     *


 こうしてはいられない!


 リスペクトしている「師」と仕事をするのは、自分でなければならない。苦手としている長篇小説を書き切るために、まずは、缶コーヒーを一気に飲み干す。この前補充したはずのエナジードリンクは、もう二本になっている。明日、買いだめをする必要がある。


 締切りが間近のいま、多少の無理をするのはしかたがない。生半可な努力では、目標を達成することなど、不可能だ。顔には、自然と笑みが浮かんでいるらしい。いや、これは、無理に涙をこらえているから、表情が歪んでいるのだろう。


 いいから書け!


 右手で思いっきり、右のほおを叩いた。このまま、顔が砕け散っても構わないなどと思いながら、何度も、何度も。


     *     *     *


 と……あの夢は、こういう二部構成になっていた。なぜ、こうした〈ねじれた〉夢を見てしまったのだろう。あんなに、幸せな一日だったというのに。



 〈了〉

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