屋敷

@smdb

第1話

あるお金持ちの一家が引っ越してきたという噂は一日で村中に広がった。

 もともと面白い出来事も何もないその村では、誰かの息子が指を骨折したとか、誰が新しい車を買ったとか言う話でさえもすぐに村中の話題になってそこそこ盛り上がるくらいだった。

 だから、村人にとってその家族のニュースは十年に一度の大ニュースだった。


 その家族が引っ越してきたのは十二月。その年の大収穫を終えた村人たちが家により長くいるようになった時期だった。

 村人の中には、初老の大きな男が黒山の周りをランニングするのを見た者もいたが、若い女がトラックに乗って山に入っていくのを見た者もいて、性別がよく分からない老人を見た人もいた。

 全ての話を正しいものだとすると、その家族はとんでもない大家族だということになって、噂はさらに盛り上がっていった。そう、村人はお互いに疑うことがあまりなかった。平和な、というと少し違うが、犯罪やトラブルが滅多にない村ではあった。

「あれはね、東京から来たんだね、そんでね、きっとコンクリート会社の社長か何かなのさ」

「あそこら辺に大きな工場を建てるつもりだよ」

村人たちは各々が持っている想像力を使って、ただ寒いだけの何もない時間を潰した。そしてその家族を知っている村人は一人もいないようだった。

 家は黒山の中腹に新しく建てられた。例の家族の噂が広まる前は何かの研究施設が建てられるのだろうと言うことで村人の予想は一致して、それから何か注目を集めることはなかったが、そこにお金持ちが引っ越してくると分かると村人たちの盛り上がり様は一層高まった。

 

「行ってみるかい?挨拶」

「ええっ。いや、俺はやめておくよ」

このような会話が村の各地で繰り返されているうちに、12月25日になった。

 毎年、村人は村長の家に集まって食事するのが恒例だった。村で二番目に大きい家となった村長の平屋には日が沈む前から人々が食べ物や酒を持って訪ねてきて、短い世間話をして物を置くと帰っていった。

 太陽が黒山の後ろに沈み、暗くなった村の中で、村長の家と例の家だけに灯りが集まっていた。

                   

 

 私は母親の後ろで酒の瓶を抱えて歩き、時々後ろを振り返っては弟がちゃんと付いて来ているかを確認した。

「おい、もっと速く歩いてくれないと置いていっちゃうぞ」

弟は小走りして私の右下に並んだ。

「だってこれ重いんだもん」

私は弟が持っていた缶ビールを数本を取るとコートのポケットに入れた。

 数十メートルおきに立っている街灯が私たちの道を照らしていた。道沿いに沿っていけば村長の家に着くのだ。

 後ろから大きな足音が聞こえ、その後に父親が視界に入った。

「どこのお相撲さんかと思ったわ」

母が父親をいじると父親は軽く母の肩に体をぶつけて笑った。


お相撲さんに重い荷物を任せると私は走り出した。

「負けた方があの家まで一人で行って挨拶するってことで」

私は雑な冗談のつもりだったが、弟は私が思っていたよりも本気になって走り出した。

 山の中腹まで街灯が無いことはないが、チカチカしているのが数本あるだけで、頼もしい灯りは村で一番大きな家に辿り着くまでは一つも無かったのだ。

 弟のような怖がりでなくても、私でも一人で行くのは少しばかりきつかった。

弟はまだ小学校に上がったばかりで、あまり嘘には触れていなかったため、冗談でも嘘でも本気にしがちであった。

 私はジョギングくらいの速さで走っていたが、弟が本気で走ると抜かされそうになった。私のガキくさいところが出て、私は少し弟と距離をつけてしまった。

「おーい、冗談だってば、冗談冗談」

弟には聞こえないようだった。弟のくせに綺麗なフォームで走っていた。膝を高く上げ、手の指先までピンと伸ばしていた。

 弟の姿はイノシシくらいの影に見えた。私はその場で立ち止まって、弟が来るのを待った。その時に弟も遠くで止まったようだった。

「どうしたー?」

と私が大きな声で聞くと、弟はまた走りだした。見間違えかは分からなかったが、弟がとんでもないスピードで走ってくるように見えた。

 弟の顔が見えるくらいになると、弟は

「走って走って、早く」

と必死な顔で私に叫んだ。何事かわからなかったが、弟の顔があまりにも真剣だったから、私は弟の手を引っ張って走った。後ろを見ても何もいなかったが、弟は私がスピードを緩めるのを許さず、

「はやくはやく」

と言って私の手を強く握った。


 そんなスピードで村長の家に着いたから、私たちは暑くなっていた。

「俺の勝ちー」

弟は先に玄関に上がって勝手に靴を脱いでいた。

 玄関には村長がでっぷりと待っていて、既にお酒を飲んでいるような顔で来客に一人ずつ挨拶をしていた。私と弟も挨拶をしたが、荷物を親に預けてしまったので手ぶらで家に上がることになった。

「おう!正ちゃん、勘ちゃん、あそこに座んなさい」

その長さが20メートルほどの机を見るのは秋の集まり以来だった。人は既に集まっており、日本酒の瓶を開けているおじさんもいた。

 私と弟は指定された席まで人の間を通りながら失礼しますといちいち言ってたどり着いて、畳の上の座布団に腰を下ろした。


「いやーもう乾杯するか?え?」

「まだ一応未成年なんで結構です」

私は口角を上げて手を顔の前で振り、一昨年くらいから繰り返されているノリに愛想笑いをしてやった。

「あー、今いくつだっけ?」

「自分は今十六で、勘太は明後日で九歳になります。」

そういうと私はまた笑った。私は何も言えなくなったらとりあえず笑っておく、それ以外でどうすればいいかまだ知らなかった。

「ああ、そう。早いもんだね。」

「ええ」

おじさんは席を立って、トイレに行った。トイレに行列ができているのが席から見えた。


「じゃあ乾杯しましょうか、皆さんお揃いですか」

村長は缶を持ち上げて机の右端から左端まで見渡した。両親が来ていないのは分かっていたが、待たせる気にはならなかったから何も言わなかった。弟は忘れているのか敢えて言わないのか、コーラの瓶を持ったままぼーっとしていた。

 私は目の前にならんだハンバーグやら刺身やらを自分の皿に乗せて、弟には自分で取れと言った。弟は返事をしたが、聞いていないようだった。

 私は和食も洋食もクリスマスも気にせず口に食べ物を詰めていった。急いで食べる理由もなかったが、なんだかその日は口の中が常に何かでいっぱいであってほしかった。

 両親はいつの間にか遠くの席に座ってもってきた酒を近くの人に配っていた。私は自分の家が酒しか持ってきていないことが恥ずかしかった。

 だいたいの村人の腹が膨らみ、私がトイレに行きたくなった頃に、二つ隣から餅屋の佐伯さんの大きな声が聞こえた。

「おい、それでどうする?行ってみないか挨拶、みんなで」

「そうね。せっかく集まった事だし」

「行こう!」

酒を勧めてきたおじさんもその気になって、その熱は部屋中に広がった。

「今日じゃなきゃダメ?」

「あっちも迷惑じゃないかね」

こんな声が聞こえると一回空気は白けた。

 そしてまたそれぞれの食事や仕事の話に戻った。

 私の両親は村長の隣に座って酒を注いでいた。

 

 

 会がお開きの雰囲気になった10時ごろ、私は尿意が限界に達していた。トイレは開く気配もないし、村長の家の外で立ち小便をするわけにもいかないから、私は少し離れたところでトイレをすることにした。

「俺ちょっと外の空気吸ってくる」

両親にそう伝えて私は外へ出た。一本道を五秒ほどダッシュして、道から外れたところの成田さんの畑に肥料を提供し終わるとチャックをあげ、来た道を引き返した。

「ん?」

月ってこんなに大きかったけ?と思うほど月が大きく明るかった。私は酒を飲んでいなかった。上を向きながらまっすぐ歩いた。

 街灯が上に見えたから顔を下ろすと、目の前に見た事ない顔があった。私は身長が百八十はあって、村でもかなり大きい方だったから、自分と同じ目線の人は限られていたはずなのに、見たことのないほど目が大きく、眉毛と口髭はダルマのようだった。

「どうも」

先にそう言ったのはダルマの男だった。

私は二歩下がってから挨拶をした。

「あの、新しく引っ越してこられた方ですか?」

「はい、村長さんのお宅はあちらですか?」

「ええ、自分も今戻る所なので一緒に行きましょう」

男の大きな背中の後ろには杖をついている小さな女性がいた。私は会釈したが、彼女には私が見えていないようだった。

 男は私が十六歳だとわかると段々タメ口に変わっていった。

 男が玄関から家に上がって、手土産らしき袋を村人に見せると部屋は湧いた。

「どうもみなさんこんばんは、新しく越してきた黒松です」

まずは村長が自己紹介をして、お婆さん連中は座わんなさいと座布団を出してきたが、黒松という男は丁寧に断ってすぐに帰った。

 その日の会は村長の挨拶で終わった。村長の挨拶は毎回、話の終わりが落語みたいになんか駄洒落みたいなのを入れて終わることに決まっていた。そのつまらん伝統はその村で長い間生き残っており、父によるとチョンマゲの時代からあったらしく、隣の村の図書館に行けばそれがとりあげられている資料も見ることができるということだった。

「おー」

「では、帰りますか」

「うん、帰ろ帰ろ」

「じゃあな、村唯一の若者、そして唯一の希望、未来の担い手、宝物」

「はい、さようなら」

大勢の人々が一気に出口に集まったから玄関が混み合ってなかなか出れず、さようならを言った人ともなかなか別れられなかった。

「俺の靴知らない?」

「それは?」

「それはじいさんの」

人混みの中では一歩でも動くと人にぶつかりそうだった。酒の匂いが温かく八方から漂ってきた。

 くつしたのまま外に出たおじさんの後に私の家族は外に出ることができた。

 寒い寒いと言いながら私の家族は四人で歩き出した。後ろでは寒いと言う声が一定の間隔で聞こえた。


 私達が家に帰ったのは夜遅かった。たしか11時の少し前、それくらいだったと思う。テレビでは少し下品な冗談も使われるようになる時間だった。

 弟は家に着くとすぐに二階の私と弟の部屋へ階段を駆け上がって眠りにいった。

 私は一階で狭いこたつに入って、両親と中身のない会話をしていたが、やがて眠くなった。その次の日には学校があったから、私は古典の予習もしないといけなかったし、英単語の予習もしないといけなかったが、それらを一度も思い出す事なく眠ってしまった。

 クリスマスか、ガッツリ仏教の村でそんなの祝うのはバカバカしいと思うけどさ、学校くらい休みにしたって良いんじゃないの。まあいいや。私は考え事をしながら寝た。それはいつものルーティーンだった。深夜に、私が外の風の音で起きて寝れずにいる時に一階の電話が鳴っているのが聞こえた。私は目を瞑って眠れるのを待った。

 

 怖い夢で目が覚めた日は一日何となくかったるい。

 何が何のメタファーなんだか分からないような破茶滅茶な夢を見た後、私は学校へ行き、昼休みの暇つぶしとして図書室で本を広げて調べてみて、自分の夢に当てはめてみてが私の夢は破茶滅茶なストーリーで意味不明な内容のままだった。

 結局、私は自分の頭の中の奥深くの事は分からないのかもしれない。私の頭の奥深くにも違う私がいて、違う私も私と同じように考えたり、物事を感じたりしているのだが、その内容や過程は私に分からないようになっている。

 私は幼い頃に小指の傷からバイキンが入って切断することになったのだが、手術後に包帯を取って、あったはずのものがなくなった手を眺めたときにほんの少し嬉しくなった。なぜ、指がなくなった事が嬉しかったのかは今でも分からない。一生誰にも分からない。脳内の違う私がその理由知っているのだろうか。

 私は小指がなくなった手を初めて見た時、嬉しかったが、嬉しがるのは変だと思って無表情を保ち、子供らしく泣こうと泣き目にしてみたが、結局笑ってしまった。ははは。

 

 冬は太陽が沈むのが早い。私は冬の夕方に話すことがなくなると、そんな事を言って沈黙から逃げようとする。沈黙して聞こえるのはどこかのヤギが狂ったように鳴く声かと遠くで小さな子供が笑う声くらいなもんだ。私はそういう音を聞くと苦しいくらいに悲しくなって、なぜか自分たちがとてもかわいそうな人間であるようにも思えてくる。

 その日の私も、岸野と部室棟の下で話をしていたが、私達にはもう話すことがなくなりそうだった。

「そうだなあ、まだ五時なのに夜みたいに暗い。夏だったらまだ明るいのにな。」

私はその時、そうだねと答えた。今同じ話をしたらもう少し面白い方向に広げていけただろうか。ん。

「そろそろ部室に戻ろっか」

将棋部というのは名前だけで、部室ではスマホゲームをしたりトランプをしたりして七時まで時間が経つのを待っているだけだった。顧問の先生は奥さんが厳しいらしく、部活に顔を出すことは滅多になかった。

「ああ、あったけー」

私達は五人くらいでスマホゲームをし始めた。


「寒いね」

 帰り道も岸野と帰った。岸野とはその頃仲良くなったばかりだった。

 岸野は食べることが嫌いだった。彼の頬はこけて、腕は枯れた木の枝のように元気も栄養もなさそうだった。

 岸野はよく手を擦り合わせた。夏でもやっていたから、それは癖なのだと思う。

「うん。寒い、もうすぐ年末だしな」

「てか、クリスマスプレゼントとか親からもらった?」

「いや、もらってない」

私がまた話を切ってしまった。だから私から聞いた。

「岸野はもらった?」

「いや、サンタさんがもう来ないらしくてさ」

私は岸野の顔を見た。

「ん?あ、お前もしかしてサンタさんとか信じないタイプ?」

私は何も言わなかった。

「いるんだよなー。大人ぶってさ。まあいいや。」

「いや、俺も信じるよ」

「冗談だって」

岸野は白菜の畑のところを左に曲がって私と別れた。

 

 夜中にイヤな音で目が覚めた。それは酒を入れる瓶が何本も続けて割れる音だった。私は半分寝ていたが、音でだいたい何が起こっているかを理解した。

 弟が寝ている事を確認して自分の布団からゆっくりと身体を出した。それから冷たい空気の中を歩いて一階まで降り、一階で幼児のように好き勝手している父をなだめてからまた部屋に戻って寝た。

 

 朝、朝起きた時に空が真っ青に晴れていると何とも良い気分になる。あなたも同じでしょう。私は曇りとか雨とかも嫌いじゃないんだけども、朝は晴れているのが良いと思うなあ。

 次の日の朝も部屋が眩しいくらい明るくて、それでその日は休日だったものだから私はスッキリと起きられた。

 それでも弟は私よりも早く起きていたらしく、下に降りるとこたつで両親と朝食をとっていた。

 私も台所で水を一杯のんでからこたつに加わった。

「いやあ今日はいつもより温かいね」

父親が何食わぬ顔で息子二人に話しかけた。弟は笑い、私も困り顔で笑った。

 テレビでは今日は全国的に晴れるから布団を干すのもいいだろうと言っていた。テレビが一瞬黒く消えた。

「今消えなかった?」

「うん」

「消えたね」

私は自分の目がおかしいのか確かめるために二人に聞いたが、周りも同じように見えたとわかっても自分の目がおかしくないとは自信が持てなかった。私はその当時も自分を不健康な人間であり、どこかが故障しているのだと思っていた。そして今もそう思っている。

「学校は次の水曜日で終わりだっけ?」

「うん」

私が答えた。弟は学校で配られたプリントを確認しに行った。

「自分の予定も知らねえのか」

「まあ、小さいうちは先のこと考えないでもやっていけるから。ちびっ子らしくていいじゃない」

「気取った事言うようになりやがった」

私と父はパンダが生まれたニュースを見ながら沈黙した。

「温かいお茶飲む?ほら、今日寒いからさ」

「寒かねえよ」

私は継母から温かいお茶をもらって冷たい手を温めた。

 その日はその冬一番の晴天で、弟はしばらく二階から降りてこなかった。

 

 私の村のような辺鄙なところに住んでいると、休みの日にすることがほとんどない。他の辺鄙な村出身の友達にはバンドを組んでいる友達もいたが、辺鄙な村出身者はだいたい私のように暇を持て余していた。

 私は父が作った変な郷土料理の餅みたいなものを口に詰めると、まだ口がいっぱいのうちに食器を台所で洗って、飲み込まないうちに二階へ上がっていった。郷土料理なんか全部くそくらえだ。

 暇な時間がやってきた。私は子供部屋に寝っ転がって天井を見上げ、バスに乗って駅まで行って、電車に乗って映画でも見に行くかという気に一瞬なったが、面倒になってやめた。うなった。

「ああ、くそ田舎め」

 餅を食べ終わった弟が二階に上がってきた。弟は私と同じ母親から生まれた。つまり、継母は血のつながった子供がいなかった。継母は私達を大切にしてくれた。私は継母に感謝している。当時も同じように感謝していた。だから、反抗期らしい反抗期は無かった。父親には何も言えないし、継母にも少し違う意味で何も言えなかった。

「くそ田舎ね、うける」

弟は自分の爪をいじりながら笑った。

 弟は私の横に寝っ転がった。弟は爪をいじることに夢中で話どころではなかったように見えた。

 暖かくはないはずなのにポカポカする光を浴びながらリラックスしていると、窓の外から誰かの視線を感じた。

 私は立ち上がって窓辺に近づき、窓の外の右と左を確認した。遠くに例の屋敷が見えた。違う私がその時久しぶりに顔を出して、私は屋敷に行くことに決まった。

「暇だし、ちょっと挨拶しに行こうじゃないの」

弟はあまり興味がないのか冗談だと思ったのか、爪をいじったまま笑った。

 私は玄関で靴を履いた。後ろで何か言っている声は聞こえたが無視した。

 私は大きな通りを歩いた。外に出て話をしたり畑をいじっているのは大人だけで、子供達はだいたいゲームでもしているのだ。それが黒山村の休日だ。

 通りを三分ほど歩くと行き止まりになる。その行き止まりの近くに建物はなく畑だけがあり、少し遠くに端本さんの小屋が見えるだけだ。そして、そこが山の入り口である。

 私に向かって腐った木の看板が何か警告していたが、私はその看板を引っこ抜いて幡本さんの大根畑に向かって投げ飛ばした。看板は何本かの大根の上に落ちた。私は山の中へ入った。

 山の中へ肝試しに入るやんちゃな若者が隣の市や村から来たりはするが、それ以外の理由でこの山の中に入る人普段はいなかった。この山は村人にとっては訳アリの山であり、結婚や出産の前は半径何十メートルに近づいてはいけないという決まりがあったり、枕の方向は山に向けてはいけないみたいな、いかにも都会から遠く離れた田舎らしい決まりがあったりした。私はその決まりが嫌いだった。

 あの頃の私はそういう決まりに限らず、ジジババくさいもの全てにうんざりしていたから、山に入る時は少し興奮した。

 昔、昭和とかじゃなくて弥生時代くらいの大昔、黒山村には現在と同じ様に小さな村があったらしく、そしてその村ではその時何日も日照りが続いていたらしい。

 村人はしだいに新しい土地を探しに村を去っていった。残った人々はお祈りをしたりおまじないをしたり試してみたのだが、少し曇ったくらいで雨は降らなかった。

 その年の冬が始まる頃には脚が悪い中年の女一人とその娘だけが残ったらしい。そして空はおまじないをした夏からずっと少し曇ったままであった。

 冬が始まる前までは二人とも、もうすぐ雨が降って種子が芽を出すとかいう楽しい話をしていたのだが、冬が始まって、溜めてあった米が無くなりそうになるといよいよ焦り始めた。

 あと少し曇らせれば雨は降るんじゃないかと話しながら二人は米を食っていた。しかし、二人ではおまじないをすることが不可能だった。当時のおまじないというのは流れ星に祈るみたいな簡単なものではなく、もっと体力と時間が必要なのだ。

 もっと具体的に説明すると、まず、生まれたての生き物(犬か猫か鳥)一匹を棒に吊るし、雨を降らしたい範囲を線で囲む様に棒を持って走るのだ。歩いてはいけない。走らなければいけない。そして大事なのがその生き物は棒に吊るした後に殺さなければいけないというかんじだ。

 母と娘は米が尽きた時にこのままでは飢え死するという事実をようやく理解して、どうするか真面目に話し合った。

 犬も猫も鳥も他の村人が持っていってしまったし、生き物は何もいなかった。 二人は困ってしまった。なぜなら二人はとても仲良しな親子だったから、お互い殺したくなかったのだ。

 太陽が黒山の後ろに沈んで、遠くの地平線から上ってくるまで二人は話し合った。

 そうして二人は決断した。娘が脚の悪いお母さんを棒に吊るして走り回る事に。しかし、娘は母を殺したくなかったため、生きたお母さんを吊るして走る事にしたのだった。

 娘は家から出て村を囲む様に走った。娘は母よりかは脚が丈夫だったが、それでもきつかったらしい。それでこの娘は途中で走るのをやめて休憩してしまったのだった。

 娘は生きた人間を棒に吊るして走り、そして走るのを途中で辞めてしまったのだった。神様は怒り、少し曇っていた雲を一気にどかし、ぎらぎらな太陽の光を村中に浴びせた。山の木々に火がついて燃え、娘と母親は熱中症になってしまった。まあ、それで燃えた木の灰で山が真っ黒になったと。

 こんな民話が弥生時代から口承されて、生き延びて、明治時代に紙に記録されたというのだが、黒山が不吉な場所になったのはそれだけが原因ではない。

 

 明治時代の初めの頃に、再び村に人が集まってきたのだが、黒山を探検しようと初めに入った五人が言葉を話せなくなってしまったのだ。

 村人たちはこの時まだ昔の話を聞いていなかった。

 なかなか帰ってこない五人を心配した他の村人がまた山の中に入り、またおかしくなってしまい、全員が山の頂点の木に頭を打ちつけて死んだらしい。

 そしてその死体を見つけるために一人で山に入った男は何ともなかったらしい。

 現在でも村人の中で山に入って山菜を取る人もいる(多くの村人は入らない)が、頭がおかしくなって帰ってくることはない。

 だから、私はそういう話を全く信じていなかった。他の村人も殆ど信じていなかったと思うが、決まりは守らなければいけないという考えを普通に育った村人は持っていたから、山には入らなかったのだと思う。


 黒山は不吉な場所らしく、変な匂いがした。あれはなんかの薬の匂いだったが、今まで嗅いだことはない、ニュータイプの匂いだった。

 私はワイシャツの袖を顔に押し付けて匂いを嗅がない様にした。

 ワイシャツ?私は制服を着るのが好きだったから休日でも黒いズボンに学ランを着ていた。その時は山の荒っぽい道を進んでいるうちに暑くなって、学ランを脱いでいた。

 私の汗と洗濯糊の匂いとその変な薬みたいな匂いが戦い、結局全て混ざってまた新しい変な匂いになった。

 山登りの初めは道らしいものもあったが、それは山菜をとりに入る幡本さんが作った道で、それよりも先に進むとなるとイノシシやたぬきが使うのと同じ道を進まなければいけなかった。

 途中で、「何でこんな事してんだろ」と思うこともあったが、考えたところで何も分からないことは知っていた。内側のさらに奥深くにいる違う私のみがそれを知っているのだ。私はそれに従うしかない。

 湖はいきなり現れた。もちろんその湖にも変な昔話がいくつかあったが、紹介するまでもないものばかりで、後付けの様なものばかりだった。

 それでも私には不気味な湖だった。森に囲まれて、その日の晴れた天気を水面に映してはいたが、それもなんだか気持ち悪かった。情景は必ずしも私の気分に合うというわけではないのだ。

 頑張ればその直径を泳ぎ切ることはできるくらいの大きさの湖の淵に立って、不機嫌に見える背の高い木々を一本ずつ眺めていると右奥に屋敷を見つけた。遠くで見るよりも古風な感じで、最近建てられた様には見えなかった。

 大きさはたしかに小学校くらいの大きさだが、黒い木が組まれてできた直方体に一本の塔がくっついたようなその館は2005年生まれの私を懐かしい気分にもした。

 私は湖の淵、木の間を走ってその館にたどり着いた。その建物に私は圧倒されて、太陽が眩しいのも忘れて、塔の尖ったてっぺんでパタパタ鳴っているカラス避けを眺めていた。

「やあ」

 だるまの男は私の両肩を掴んでいた。私はびっくらはして大きな声をあげた。

「ゆっくりしていきなよ」


「はい」

私は男に背中を押されながら建物に入った。

「靴は脱がなくていいよ。あ、もちろん脱ぎたければ脱いでもいいけどね。」

男はずっと裸足だった。そして嬉しそうに笑っていた。

 玄関には緑と赤のガラスで作られたランプが吊るしてあって、私はそのランプを綺麗だと思って声に出した。

「これね、娘が作ったんだよ。」

男はさらに嬉しそうな顔になった。

「そうだ!娘と三人でお茶でもしようよ。それでゲームしよう。ゲームは好き?スマブラでも楽しいだろうし、普通にババ抜きでもいいけど、三人じゃつまらないかな。私が考えたゲームもあるから、それやってもいいんだけど、どうする?」

私はこの男に圧倒されてばかりだった。

「スマブラがしたいです。」

これしか言えなかった。

「いいね、最高、絶対楽しいよ」

男は私を急に担ぐと二階に駆け上がった。廊下を走り、角を曲がり、部屋のドアをノックした。

「お客さんだよ」

 中で何かしている音があってから、娘、というか知らないおばさんが出てきた。

「あら、久しぶり」

知らないおばさんは長いツインテールをしており、クリスマスに見た娘と背丈は同じだった。ただ目のシワや肌の感じが少女のそれではなかった。

「また会えて嬉しいわ。私はキョウコっていうの、キョンキョンのじゃなくて、京都の京に子供の子」

ただ、その知らないおばさんというか京子の見た目はたしかにおばさんなのだけど、同時に少女でもあった。なんとなく少女にも見えるのだ。

「はい、僕は寛太郎」

私はその女の人に敬語を使うべきか迷って中途半端な言葉で話した。

「ああー!北風こぞうの!?」

「いや、」

少女と父親は歌い始めた。私は歌が終わるのを待つことにして部屋の中をのぞいてみたが、中には机とベッドしかないように見えた。

 スマブラは一階のリビングで行われた。絨毯の上に三人とも足をのっけて、ソファに座った。ソファの正面に暖炉があって、その上にテレビがつけられていた。

「俺はガノンドロフー」

「私は絶対カービィ」

 私はキャプテンファルコンを使って楽しくやろうと思っていたが、男が小学生がやるようなハメ技を使ってくるから、いつのまにか本気になっていた。

 小学生の頃から家にこもってゲームばかりやっていた田舎者の私にしてみれば、少しゲームをやりこんでいるくらいのおじさんをボコボコにするのは簡単だった。私はガノンドロフをボッコボコにして、カービィに三階連続でメテオアタックをきめた。

「ああ、もうやめようか」

男の機嫌が少し曇ったようだった。男はテレビのリモコンを急にめちゃくちゃに操作し始めた。画面は一旦誰が見ているのか分からない地方の旅番組に変わり、その後ネットフリックスに変わり、次に男の携帯らしきものと接続した。画面は泣いている女の人の動画になった。

「あれ、おかしいな」

女の人は京子ではなかった。もっとおばあちゃんだった。そのおばあちゃんは鋭い声で泣き叫んでいた。私は見てないふりをしたかったが、なかなか画面が切り替わらなかったから、見てないと嘘をついたとしても相手にはバレてしまうだろうなと思った。

 画面がおばあさんの発狂する顔で三秒ほど固まると、男はテレビのコンセントを抜いた。

「失礼」

 男はそして天井の大きな照明を見つめながら何か独りでぼそぼそ言うと、急に力んだ顔に変わった。そして素早い息を吐くとこう言った。

「やっぱり気になっちゃうよなあ。親友の君には話しておかないとこの先にいけない」

男は、黒松は場所を変えようと言って私の手を握るとリビングの外に連れ出して、階段を登った。

 京子はその後に続いた。黒松は二階の廊下をのしのし歩いて、端までたどり着いた。

「ここが妻の部屋だよ。最近死んじゃってね。」

 そこには綺麗な部屋があった。段ボールと梱包のぷちぷちは散らかっていたが、壁には傷もないし床にもない、濃緑が背景になった花柄の壁紙が暖色の照明と合って、古風で綺麗な部屋だと思った。そして私は黒松の話にまた耳を傾けた。

「ここに座って話そう」

黒松はベッドに座り、ベッドを手のひらで軽く叩いて私が座る場所を示した。

「京子もおいで」

京子は黒松の膝の上に座った。

 ベッドは小さい女の子が欲しがるようなプリンセスベッドで、蚊帳みたいなのが私たちの周りを包んでいた。

「かんちゃん、カンちゃんって呼んでも良いかな。」

 私はその時ベッドに座った時から、とってもリラックスしていた。私はみんなもそう呼んでいますとかいう嘘をついてまで何か気持ちいいことを言いたかった。

「私たちは大学で会ってね」

そんなのはどうでもよかった。

 京子がその部屋のオーディオシステムで音楽をかけた。

「それで私たちは結婚した!私たちお互いの恋愛について干渉しないことにしたのさ。それで私はよかった。」

その後はなんかの話が続いたが、私はベッドでくつろいでほとんど聞いていなかった。少し聞いていたところはもう忘れた。

 帰りたくないと思うほど気持ちのいい世界で、実家は不快な場所だったことが分かった。

「寂しいよ」

妻を亡くした夫はそう言って窓の外の湖を眺めた。

 その時外で水に重いものが落ちたような音がして、私は窓の近くにいって外の様子を伺った。湖の水面は変わらず落ち着いており、風も吹いていないようだった。

「もしもし、タカコちゃん。

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