第2話
息せき切って飛び込んだ裁判所の受付で、貫頭衣にみずらを結った中年男に己の名を告げ訴状を提出すると、ペンと数枚の用紙を渡された。亀左衛門はロビーのソファで貧乏ゆすりをしながら、幾つもの記入欄を埋め、最後の用紙に書かれた「弁護士を 希望する/しない」の「希望する」を丸で囲むと、受付に提出した。
みずらの男は受け取った用紙を見ながらパソコンを操作し、不愛想に所内の地図を亀左衛門に差し出した。二階にある「第五号法廷控えの間」が赤い丸で囲われているので、そこが行くべき部屋なのだろう。亀左衛門はみずら男に軽く頭を下げ、そそくさと二階へ向かった。
第五法廷控えの間は、四畳半ほどの小部屋だった。パイプ椅子と小さなテーブルだけが置かれていて、当然、亀左衛門の他には誰も居ない。壁かけ時計の時を刻むカチカチという音に亀左衛門の胸に不安が募る。
椅子に腰かけ、落ち着かない様子できょろきょろしていると、程無く扉が数回ノックされ、スーツを着た青年が入って来た。
「初めまして、鶴元さん。弁護士の
白い歯を煌めかせる田中は、スーツを着こなし、如何にも爽やか好青年と言ったルックスだ。こんな若造に弁護されるのか……不安に顔を顰める亀左衛門に田中は、こう見えてあの世暮らしは長いんですよ、と爽やかな笑顔を向けた。室町後期頃に彼岸に来て、明治には弁護士資格を取得してたんで、これで結構ベテランなんです、などと、聞いてもいないことまでべらべらと話し出す。
更に不安を募らせる亀左衛門に、田中がようやく本題を切り出した。
「早速ですけど、訴状を拝見します」
言われるまま、封筒ごと田中に差し出した亀左衛門はおそるおそる、
「なあ、裁判って、弁護士さんも、その……被告も、こんな急に呼び出されるものなのかい?」
「まあ、此岸とは色々と違いますよ。それに、鶴元さんにとっては急な呼び出しでしょうけど、ご自分が亡くなった時の事を思い出してみて下さい。あの世に着いて直ぐ裁判だったでしょう?」
亀左衛門は、遠い昔を思い出す。確かにあの時は、三途の川を渡って大して待たされること無く裁判を受けた。
「そうだった。それに、あんまり早く判決が出て驚いたな」
「おや、もしかして鶴元さんは『団塊世代』ですか。お互い、あの時代があったお陰で職を得ましたね」
亀左衛門がやって来たばかりの頃、中有は芋洗いの如くごった返した、酷い有様だった。その頃の此岸は政治情勢と頻発する天災により死者が急増、人口が増えつつある時代だった為、相対的にとんでもない数の死者が一気に押し寄せることとなり、彼岸の公共機関は未曾有の人手不足に陥っていたのだ。
圧倒的な人手不足を経験した彼岸は、それまでのシステムを大きく改良した。それに伴い、彼岸の近代化は一気に推し進められ、新たな職業が次々と生み出された。守護霊も、弁護士も、その時に定着した職業の一つである。余談であるが、当時の情勢は後に「始まりの団塊世代」「近代化の種子」等と呼ばれ、彼岸の歴史研究家の間でも人気の研究対象となっている。
田中の言う通り、当時大混乱の中で行われた亀左衛門の裁判は、今となっては考えられない程大雑把なものだった。殺しや火付けといった凶悪犯罪に手を染めたことも無く、死因が考慮されたこともあり、僅か五日程であっさりと極楽行きが決まった。
そもそも、あの世の裁判は此岸と違い、似通った事案の判例を考慮したりしない。死者の行く末を決定づけるような出来事は徹底的に追求し、人間性だけでなく、生活環境、運、あらゆる要素を加味して判決を下す為、判例という概念自体が存在しないのだ。生き返りの判決が出る事は滅多にないが、判例が当てにならないという事は、亀左衛門が有利とは限らないという事でもある。今回の裁判で純真蜜が勝訴すれば彼女は生き返り、亀左衛門には何らかのペナルティが生じることになる。
田中は訴状に目を通し、唸りを漏らした。
「これは、思ったよりマズいかもしれませんね」
「ええっ、何がそんなにマズいんだい?」
「まず、名前です」
「は?」
きょとんとする亀左衛門に、田中は訴状を指差した。
「『純真蜜』と書いて『ピュアハニー』と読ませるって……どうしてこんな香ばしい名前、許可しちゃったんですか。守護霊として止めるべきでしたね」
「そりゃ、純真蜜の両親の守護霊もそれでいいって言ってたから。俺が生きてた時代と違って、今時、洋風の名前なんて珍しかないだろう?」
田中は首を振り、溜息を吐いた。
「あくまで、洋『風』ならです。限度ってものがあるでしょ。漢字を使うなら、せめて、通常の音訓読み出来る範囲にしておくのが賢明です。パソコンで一発変換出来ないような名前だと、生活で困る場面が結構あるでしょう。子供の頃から名前で苦労したー、なんてエピソードを持ち出されたら、裁判官への心証がよろしくない」
「パソコンなんて解らねえよ。あんなの、俺の生きてた頃には無かったんだ」
「迂闊にそんな事言っちゃ駄目ですよ。守護霊になるのに不勉強だと衝かれかねません」
「そんな!」
田中はさらに続ける。
「それと、純真蜜さんの死因の外国での事故、これもちょっと」
「え、何でだい? 事故死ってのは珍しかないだろう」
田中は首を振って、
「事故にも、大きく分けて二種類あります。一つは、寿命として定められた、確定した事故。もう一つが、注意すれば不可避ではない、寿命とは別の不確定な事故。こんな裁判を起こすってことは、純真蜜さんの事故は後者だったってことです。向こうは確実に、守護霊として注意を促すべきだったと言ってくるでしょう」
「……俺なりに頑張ってた心算だったんだが……」
肩を落とす亀左衛門に、田中が同情めいた顔を向ける。
「ただ、事故自体は起こり得る事で、そこまで問題ではないです。まずいのは、これが日本で起きた事故ではないという事です。外国での事故死だと、日本と司法が違いますから、兎に角生き返りの手続きが面倒臭い。彼岸と此岸では時間の流れが全然違うとはいえ、裁判所も、なるべく早く判決を出したいんですよ。通常の裁判なら此岸での四十九日……それでも充分短いですけど、兎に角、最低五十日位かけるでしょ。でも今回の様な件だと、一分一秒の争いになるんです。こちらの主張の正当性が少しでも弱ければ、一気に流れが傾いてしまうことだってあり得る」
落ち込む亀左衛門に、田中は拳を握って見せた。
「大丈夫ですよ。裁判まで、もう少し時間はあります。今頃は向こうも他の部屋で打ち合わせ中の筈ですから、後で訪ねてみましょう。示談に持ち込めれば、それが一番ですからね。その為にも、状況を整理していきましょう……まず、山本山さんの死因、『落下物に因る頭部強打』、これはどんな状況で起きたんですか? 出来るだけ詳しく思い出して下さい」
亀左衛門の脳裏に、あの時の事が甦る。
それは、亀左衛門が脇見していた時に起きた事故だった。
純真蜜の旅行先は、街中と密林の境が曖昧な所も多く残るような、自然豊かな土地だった。初めての海外、初めての一人旅に、夢中でカメラのシャッターを切っていた純真蜜は、綺麗な花か鳥でも見つけたのか、亀左衛門が見ていない内に歩道を逸れ、林に足を踏み込んでいた。
気付いた時には、既に純真蜜の頭に向け落下物が迫っていた。
亀左衛門は慌てて彼女の足元に石を転がした。純真蜜が転べば、少なくとも落下物が直撃、という事態は避けられると咄嗟に考えての行為だった。
だが亀左衛門の意に反し、純真蜜は転ばなかった。ダイエットの為にと、体幹を鍛えていたことが仇となり、少しぐらついた程度で直ぐに体勢を整えてしまったのだ。結果、純真蜜の頭は落下物ともろに接触することになってしまった。
「それはまた……不運な……。ただ、聞く限り、目を離した鶴元さんにも問題はありますけど、守護霊として、出来るだけの努力はされているようですね」
慰める様な田中の言葉に、亀左衛門は俯いた。
「俺がもっと早く気付いて、虫の知らせでも送ってやってれば、あんな臭いのに塗れることも無かったのかもしれん」
「『落下物・ドリアン』……噂には聞いたことあったけど、本当にこんな死因あるんだ……」
田中は唸り、亀左衛門に訊ねた。
「これは、裁判官も彼女に同情するかもしれません。鶴元さん、目を離したって、一体何に気を取られてたんですか? 絶対そこを衝かれますよ」
「何って、き……えーと、そう、
「立札ですか。それには何が書かれていたか憶えてますか?」
亀左衛門が首を横に振ると、田中は僅かに落胆した表情を見せたが、すぐに笑顔で、
「まあ、事故現場付近の写真を取り寄せれば分かる事です。早速手続きを……」
「それには及びません」
凛とした女の声が響く。
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