【短編小説】本日の夕食

綿来乙伽|小説と脚本

本日の夕食

「ここに置いておくから」


私が実家に引き篭もるようになってから三年が経っていた。


大学を卒業してから入った会社は、上司や同期が続々と辞めていき、皺寄せを食らった挙句に自我をどこかの資料と一緒にシュレッダーに流してしまった。あの時から、私は外に出ることをやめた。


ドアの前に置いてある、トレーに乗った本日の夕食を手に取った。母は仕事をしていない娘にもいつもバランスの良い健康的な食事を三食つくってくれている。毎日毎日申し訳ないと思いながらも、それは言葉にせず、心の中でその日の食べ物と共に体に染み渡って跡形も無く消えていた。


玄関の鍵が開く音が聞こえた。

父が帰って来たのだ。


自室からは、鍵を開ける音とドアが開かれる音、「ただいま」と母に対して送る言葉の三つが聞こえて来る。父の足音やガレージに車を停める音は聞こえて来ない。


「ただいま」


二回目のただいまが聞こえた。母は私に食事を届けた後、父の食事の準備をする為キッチンにいる。換気扇の音で父の帰りが分からないのは日常茶飯事であり、父の気配に毎日のように驚いて笑っている。今日も二回目のただいまの後、母からの一回目の「おかえり」が来るだろう。


「おお、いたのか。今日は早いな」


父の声が聞こえた。母は専業主婦で、兄は上京して一人暮らしをしている。母の声は聞こえない。


「明日出掛けるんだって?駅まで送って行くよ」


母は明日、どこにも行かない。私も然り。


「大丈夫、友達が迎えに来てくれるから。車買ったんだって、助手席乗せてくれるから」


私は手を止めた。


味噌汁に入っていた箸がお椀からトレーに、トレーからテーブルに、テーブルから床に転がる。母の声でも、父の声でもない。聞いたことのある、むしろ毎日聞いている。


それは、私の声だ。


「そうか。明日は雨だから、気を付けて行けよ」

「分かった」


父が階段を上がって、私の部屋を通って、自室に向かう。その間私は、自分がこの家に存在していないような気がして、マネキンのように固まってしまった。私がマネキンなら、人形なら、規則正しく動く掛け時計ならどれほど良かったか。ただ部屋に篭って、ご飯を食う機械と化した私を、人と、娘と、家族の一員としては認めてくれなくなったのか。あの声が、父や母の臨む私であれば、私は今、どこにいるのか。


ドアがノックされた。三回。私の部屋のドアを、三回。


父ならドアをノックする時、名前を呼んでからノックを二回する。学生の時から「名前呼んでからなら意味ないでしょ」とどれだけ注意したことか。母ならノックをせずに私の名前を呼び、返事が無ければ部屋に入って来ない。


三回のノックに私は返答せず、鍵の掛けられていないドアノブが動かないことを願った。私の心の中での葛藤虚しく、少しずつドアノブが捻られていく。


ドッペルゲンガー。


ドッペルゲンガーなら良かったか。自分のドッペルゲンガーに出会ってしまえば、それは死の前兆らしい。このドアノブが完全に捻られてそのままドアが開いたら、私は死が近いということなのだろうか。


死んだ方が、マシか。


ドアが開いて、私と同じルームソックスとパジャマを着ている女性の足が見えた。


視界が歪む。視界が歪んで、私は味噌汁のお椀を掴んで倒れた。


私はまだ、味噌汁しか手をつけていない。

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