参 ランドセル その二

娘のアイは、毎日元気よく学校に通っていました。

そんなある日、私は娘の担任の先生から、急に呼び出しを受けたのです。


仕事の都合をつけて慌てて学校に行くと、職員室ではアイと担任の先生が待っていました。

先生は困惑したような表情を浮かべていました。


「何かあったんでしょうか?」

私が訊くと、先生は事情を説明してくれました。


その日の給食が終わった後、娘が友達と運動場に出て遊んでいた時でした。

クラスの少しヤンチャな男の子が、悪戯しようとして、机の横に掛けてあったアイのランドセルを外そうとしたんだそうです。


その途端男の子は、何かに腕を引っ掻かれてしまったようなんです。

「ぎゃっ」という男の子の声に驚いた担任の先生は、慌てて駆け寄ったそうです。


そして床に座り込んで呆然としている男の子の腕を見ると、四筋の傷がくっきりと刻まれていたそうなんです。

傷からは、血が滲んでいたようです。


腕の傷に気がついて泣き出した男の子をなだめながら、先生が事情を聞くと、ランドセルから手が出てきて、引っ掻いたと言うのです。

それを聞いた先生は、その子が何か別のものを、手と見間違えたのじゃないかと思ったそうです。


男の子を保健室に連れて行った後、先生は娘に頼んでランドセルの中を見せてもらったようです。

しかし中には学用品しか見当たらず、もちろん腕を傷つけるような物は入っていませんでした。


先生はすっかり困惑してしまいましたが、男の子の親には、何かに当たって怪我をしたと連絡したそうです。

そして事情を説明するために、私を学校に呼び出したのです。


先生の話を聞いて、私はすぐに、あの朝のことを思い出しました。

娘のランドセルから、小さな手がのぞいていたことを。


事情が分からず、きょとんとしているだけの娘を連れて帰ると、私はランドセルの中を確認してみました。

やはり学用品以外は、何も入っていませんでした。


私は少しホッとしましたが、今日の先生の話と、以前自分が見た光景とを重ね合わせて、何となく釈然としない気分でした。

ただ、いつまでもそんな気分を引きずっていても仕方がないと思い、無理矢理心の奥に、疑念を押し込んでしまったのです。


それから少しの間は、何事もなく時が過ぎました。

しかしそれは、私が気づいていなかっただけでした。

そして私が気づいた時には、既に深刻な事態が生じていたのです。


異変に気付いたのは、私が仕事から帰った時でした。

娘はとっくに帰宅していて、アパートの奥の部屋にいるようでした。


宿題でもしているのかなと思い、声を掛けようとすると、中から娘の声がしました。

誰かと話しているようです。


不思議に思って部屋をのぞくと、そこには娘が一人で座っているだけでした。

前にはお気に入りのランドセルが置かれていました。


私が「ただいま」と声を掛けると、娘は驚いたように振り向きます。

そしてその時、私は確かに見たんです。

小さな手と頭が、ランドセルの中に引っ込むのを。


驚いた私は、とにかくランドセルを持ち上げ、娘の手が届かないようにしました。

そして恐る恐る中を確認したのです。


しかし中は空っぽでした。

何も入っていなかったのです。


娘は突然ランドセルを取り上げた私を、不思議そうに見上げていました。

私はランドセルを部屋の隅に置くと、娘を奥の部屋から連れ出しました。


そして娘を椅子に座らせて訊いたのです。

「アイちゃん。今誰かとお話してた?」


すると娘は、真っ直ぐ私を見て答えました。

「うん。ミズキちゃんとお話ししてたよ」


その答えを聞いて、私は震えあがりました。

ミズキちゃんの名前を、娘に教えたことはなかったからです。


「ミズキちゃんと、どんなお話をしてたの?」

私は念のために娘に確認しました。


「ミズキちゃんね。学校に行きたいから、アイに交代してって言ったの。アイが嫌だって言ったら、すごく怒ったの」

娘の答えに、私は言葉を失いました。


「ミズキちゃんはね、時々アイに意地悪するの。学校から帰る時に、後ろからアイの首を絞めたりするんだよ。それからね。学校で授業を受けてる時にね。ランドセルの中から、アイのこと、じっと見てるんだよ」


私は娘を連れて、すぐにでもアパートを飛び出そうかと思いましたが、それも出来ませんでした。

どこにも頼る先がなかったからです。


警察に行こうかとも考えましたが、すぐに断念しました。

こんな話をしても、到底信じてもらえるとは思えなかったからです。


私は心を決めて、奥の部屋に行きました。

ランドセルを捨ててしまおうと思ったのです。


しかしランドセルは消えていました。

アパート中を探しても、どこにも見当たらなかったんです。


私はとても不安になりましたが、とにかく娘にご飯を作って食べさせ、お風呂に入れました。

こういう時に、相談する相手がいないのは、本当に辛いと思いました。


その日の夜、アイと一緒に布団に潜り込んだ私は、緊張感で中々寝付けませんでした。

しかしそれでも、日中の仕事の疲れが襲ってきて、知らぬ間に眠ってしまいました。

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