参 ランドセル その一

次は私ですね。

こんな大勢の方の前で話したことがないので、少し緊張しています。


私の名前はカワモトと言います。

世間で言うところの、シングルマザーです。


例外もいるんでしょうけど、母子家庭の生活というのは、苦しいの一言です。

とにかく毎日食べていくのが精一杯で、贅沢どころか、子供の服を買ってやることも満足にできないような、そんな惨めな生活をしている人が殆どだと思います。


私たち母娘もそうです。

分かれた夫からは、養育費など一切もらったことがありません。


私の前夫というのは、夢ばかり追いかけて、現実が全く見えていないような男でした。

いつも、「いずれは大儲けして、贅沢させてやる」と見栄を張るばかりで、殆ど働かず、私の僅かな収入だけで生計を立てていたんです。


そんな生活に耐えられなくなって、前夫と離婚した時は、やっとこれで人間らしい生活を送れると思いました。

しかしそれは甘い考えでした。


当時まだ4歳だった娘を、保育所に預けて働き始めたんですが、収入は微々たるものでしたね。

本当に苦しかったです。


ああ、暗い話ばかりですみません。

私がこれからお話しするのは、娘が小学校に上がった時の経験談です。


当時私は本当に困っていました。

小学校に入学する娘に、ランドセルを買ってあげるお金がなかったからです。


ご存じだと思いますが、ランドセルって、結構値が張るんですよね。

中古でも、それ程安くはありません。


かと言って、娘にランドセルもなしで学校に行かせるのは不憫で。

そんな時にネットで、ある広告を見つけました。


娘さんが使う予定だったランドセルを、無料で譲って頂けるというのです。

私は一瞬躊躇しましたが、背に腹は代えられず、とにかく話だけは聞いて見ようと、広告主に連絡しました。


その方は私より少し年齢が上の、上品な雰囲気の方で、私を騙そうとか、そういう気配は微塵も感じられませんでした。

お会いして聞いて見ると、とても気の毒な事情だったのです。


その方の娘さんはミズキちゃんと言って、生まれた時から心臓に重い病気を持っていたそうです。

小さい頃から、ずっと入院生活が続いていて、外で遊ぶこともできず、いつも辛い思いをしていたらしいのです。


そのミズキちゃんが楽しみにしていたことが、ランドセルを背負って学校に行くことでした。

だからご両親は、ミズキちゃんのために綺麗なピンク色のランドセルを買ってあげて、病室に飾って励ましてあげていたそうです。


しかし残念ながら、ご両親の願いはかなわず、ミズキちゃんは小学校に上がる年齢を前にして亡くなってしまいました。

ミズキちゃんを失くしたご両親は、ランドセルをミズキちゃんと共に葬ろうとも考えたそうです。


しかしランドセルを背負って、小学校に通うことを楽しみに待っていたミズキちゃんを思うと、それも出来なかったと仰っていました。

そして、せめてミズキちゃんのランドセルだけでも学校に通わせたいと思い、広告を出されたそうです。


私はその事情を聞いて、一瞬躊躇しました。

ミズキちゃんやご両親の思いを娘に背負わせるのは、あまりにも重いと考えたからです。

でも私たち母娘の事情を聞いた、ミズキちゃんのお母さんから熱心に勧められ、最後はランドセルを頂くことにしたのです。


娘のアイは、まだ新品同様のランドセルを見て、それは喜びました。

小さい頃からピンク色が好きな子だったので、尚更です。

ランドセルを大事そうに抱えている娘を見て、私は忘れかけていた幸せな気分に浸ることが出来ました。


それから暫くして、娘は小学校に通い始めました。

いつもお気に入りのランドセルを嬉しそうに背負って、学校に向かう娘の後姿を見ていると、ランドセルを頂いて本当に良かったと、心底思ったものです。


娘は毎日元気に学校に通って行きました。

あまり綺麗な服は着せてあげられませんでしたが、それでも汚れた服を着せないように、洗濯だけはマメにするよう心掛けていました。


アイを生んで以来、幸福感というものをあまり味わって来なかった私にとって、元気に学校に通う娘の姿は、生き甲斐になっていたのだと思います。


そんなある日のことです。

いつものように、学校に向かう娘を見送っていると、何か違和感を覚えました。


――何だろう?

そう思って、遠ざかっていく後姿をよくよく見て見ると、娘の背負ったランドセルのかぶせと大マチの隙間から、小さな手がのぞいているように見えたのです。


驚いた私は、もう一度娘の後姿を見直しましたが、既に娘は遠ざかっていて、はっきりと確認することが出来ませんでした。


――まさかね。錯覚だよね。

私はそう思って遣り過ごしたのですが、それが私たち母娘にとっての、恐怖の始まりだったのです。

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