叶わぬ恋を、叶えるには

紫鳥コウ

叶わぬ恋を、叶えるには

 赤ワイン色のワンピースの後ろは、大きなリボンが結ばれており、肩甲骨あたりまであるストレートの黒髪は涼やかで、すらりとした出で立ちには透明感が宿っている……初夏らしい姿だ。


 だけど、ワンピースの脇腹のあたりがカッティングされて、肌が露出しているのは扇情的せんじょうてきで、大学教員の格好としていかがなものか……という、ステレオタイプな感想が、漏れ出てしまいそうになる。


「じゃあ、布井さん。次の段落までの和訳をお願いしますね」

 はっきりとは聞こえるけれど、静かで落ちついた、どこか冷んやりとした感触のある声だ。


「ええと……」

 このページは事前にすべて訳しておいたから、すらすらと読むことができるはずだったのだが、おそろしいくらいに誤訳をしてしまった。


 それでも、先生は怒ったりしないし、冷評を浴びせてくることもない。淡々と誤りを直していく。どこか眠たげな響きをふくんでいる声につられて、目の前のりょうなんかはうつらうつらしている。


 ぼくには考えられないことだ。選抜試験をパスして、ツツジ先生のゼミに入ったのだから。いくつかの書類で「躑躅つつじゼミ」と書かなければいけないときに、その画数の多さと覚えにくさに苦戦することにさえも、喜びを見出してしまう。


「nationが日本語に訳しづらいというのは、研究者の間でも共有されていることなので、nationの訳は〈ネーション〉で大丈夫です。前にもお話しした通り、この概念にふくまれている意味さえ分かってもらえていれば……」


 比較政治学を専門としているツツジ先生。


 そうだ。静かで落ちついていて、どこか眠たげに響いてくる、それでも優しさのある声で、基本的にnationは〈ネーション〉と訳される、ということを教えてくれていた。それなのに、忘れてしまっていたなんて、恥ずかしいし口惜くやしい。


     *     *     *


 もう三年生だ。受ける授業の数も減った。あるのはゼミと必修くらいだ。だから今日も、午後にならずしてバスに揺られて駅へと向かい、地下鉄に乗り……あの妄想をはじめた。


 妄想でしかありえない、現実では絶対に起こりえない出来事イベント。吊革につかまり、窓にうつる自分になんて目もくれずに、毎日のように繰り広げてしまう妄想。中学高校のころに、男子なら必ずしてしまうであろう、恋する相手との夢物語。


     *     *     *


 女郎花おみなえし駅の改札前で、いまかいまかと待っていると、

「おまたせ。ごめんね、会議が長引いちゃって……」

 ようやく、彼女はやってきた。だけど、笑って済ませる。

「大丈夫ですよ。いま来たところですから」


 ほんとうは、約束の時間より十分前に着いていた。だけど、それを口にしないのが、ルールというものだ。すると彼女は、柄にもなくキュートな笑みを見せたかと思うと、「ありがとう」と、顔をほんのりと赤らめて、少し眼をそらす。


「じゃあ、行きましょうか」


 女郎花市の中心街にある和食料理店。名物は、彼女の好きなあゆの天ぷらだ(もちろん、現実でもそうなのだと、聞いたことがある)……彼女に、ぼくの分もあげると、一度、丁寧に断ってくれる。だけどぼくは、彼女の髪をそっとでて、


「じゃあ、交換っこをしようか」

 と提案し、ぼくは鮎の天ぷらを、彼女はサツマイモの天ぷらを、交換する。「あーん」と、自分の箸で彼女の口へと運んで……と思いきや、ぼくは鮎の天ぷらを皿の上に戻して、すっと彼女の唇をうばう。


 彼女は驚きながらも、それを受け入れてくれる。もちろんここは個室だ。いくらキスをしても、恥ずかしくないし、だれかから、なにか言われることもない。


「ずるいよ……」

 そう呟いた彼女は、顔を赤らめて、手をもじもじさせて、御膳ごぜんへと視線を落とす。ぼくたちは、そのあと、もくもくと食事をした――のだが、ぼくが会計を済ませると、彼女は、


「このあと……行くよね?」

 と、上目遣いで甘えてくる。だからぼくたちは、駅とは反対側にあるホテル街に……。


 もう駅に着いてしまった。妄想はとりあえずここで中断だ。続きは帰ったあとにしよう。どうせ叶わない恋なのだから、好きという気持ちはこうして発散するしかない。下宿先へとトボトボと帰ってゆく。


     *     *     *


 はやく会いたくて、焦って、鍵穴をがちゃがちゃいわせてしまう。束の間の苦闘のあと、ようやく、鍵をさしこむことができた。


「ただいま」

 教授会のせいで、帰るのが遅くなった躑躅つつじ先生は、駆けるように玄関へと入りこむ。


「おかえり、柚子ゆずこ。ごはん、できてるよ。今日は、あゆの塩焼きだから」

 リビングからひょっこり顔を出したのは、今年の春に結婚をした、愛する夫だった。



 〈了〉

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