第33話 そして、弟と

 街の広場に落下したアドナは、建物の影に隠れながら、乱れた息を整えていた。


 これまで天性の感覚だけで魔法を使ってきたアドナにとって、魔力が空っぽになってしまうという感覚は初めて味わうものだった。


 疲労感は耐えがたく、今にも地べたに横になりたいという衝動を抑えることに、注意を払う必要があった。だが一方で、とてつもない疲労感のわきに、全てを出し切った清々すがすがしさも控えていた。


「……まだ、大丈夫」


 アドナはつぶやいた。


 呼吸さえ整えば、ここから脱出するための呪文ぐらいは使える。


 だが、わずかながらの力を回復させる暇もなく、ポーリンは現れた。広場の中央にある花壇のきわで、立ち止まる。


「引きずり出されたくなければ、自ら出てきなさい、アドナ・ブランウェン」


 落ち着き払った声は、アドナを苛立たせた。


 アドナは乱れた呼吸のまま、よろよろと建物の影から歩み出た。


「あなたを、拘束させてもらいます」


 四方から影が伸び、アドナの影を縛る。もはや、アドナに抗う力は残されていなかった。


「……さぞかしいい気分でしょうね、お姉ちゃん?」


 アドナは精一杯の抵抗を意を示すために、不敵な笑いを浮かべて皮肉っぽく言った。


 ポーリンはため息をつきながら、かぶりを振った。


「いいえ、そんなことはない」


 そうして、黒いロープを揺らしながらアドナに近寄る。


「あなたがどんな人生を歩んできたかは知らないけれど、きっと、あなたの全力を正面から受け止めてくれる人がいなかったのでしょうね」


 アドナはいぶかしげな表情を浮かべた。


 彼女は、生まれたときから“特別”だった。血筋だけではなく、その力も“特別”だった。世界は何もかも、彼女の思う通りに動いて当然だ。そうならないのならば、世界を作り替える権利もあるだろう。周囲の者はみんなうすのろのくせに、つまらない倫理観ばかりを押しつけてくる。誰も、彼女を理解しようとはしない……


「いまさら、姉貴あねきづらして説教とは、反吐へどが出る」

「それもけっこう」


 ポーリンはそう言うと、だっと駆け出てアドナを抱きしめた。


「……なに?」


 アドナは面食らったが、上質な黒のローブの肌触りと、うっすらと匂う異国の香水が、悔しくもこころよく感じた。


「愛しているわ、妹よ」


 ポーリンは、意外なほどに、自分がどうするべきかを良く理解していた。


 それは恐らく、会ったことのない父が、もしも急に目の前に現れたとしたら、こうして欲しかったという思いがあった故なのだろう。


 だから、迷いもなかった。


「……私も罪をつぐなわなければならない。あなたも、一緒に償っていきましょう」

「なにを馬鹿な」


 アドナは吐き捨てるようにそう言ったが、思いの他に陳腐な言葉しか出なかったことを意外に感じていた。


 ポーリンは抱擁を解くと、くるりと背を向け、数歩離れた。


 ようやく、多少なりとも平静さを取り戻したアドナは、まるで刃物を投げつけるかのような勢いで言葉を吐き出した。


「この拘束を解いたら、必ず殺してやる。分かった風なことを聞くのは、うんざりだ」


 ポーリンは肩でため息をついた。


「そうね、殺されるのはまっぴらさし、どうしようかな。サントエルマの森にはもう帰れないだろうし……」


 そして、半身に振り返りながら嫌みっぽく言葉を継いだ。


「そうそう、しばらく“永劫の監獄”に閉じ込めておくのもいいかも知れないわね」

「うぐっ」


 そのうめき声は、期せずして発せられたものだった。


 月明かりに輝く銀色の刃が、赤黒い血をまとってアドナの胸から突き出ていた。


 アドナの背後で剣の柄を握りしめているのは……


「カザロス!」


 ポーリンは驚いて声を張り上げた。


「姉さん、何もするな」


 カザロスは、鋭い声で制した。


「ここでこいつを殺しておかなければ、大いなるわざわいがもたらされる」

「……くっくっく」


 くぐもった笑い声が、アドナの口からもれた。その言葉に続いて、口角から血が垂れ落ちる。


「うすのろの兄上にしては、正しい判断をしたな」


 後ろを振り返りながら凄絶な笑みを浮かべるアドナを、カザロスは冷たく見返した。


「俺はおまえに“魔力”を渡したが、その代わりの“良心”などもらってはいない」


 そして、剣を引き抜く。


「さらばだ、双子の妹よ」

「アドナ……」


 ポーリンは駆け寄り、剣を抜かれ地面に崩れ落ちたアドナの元に膝をついた。


「妹殺しの罪を、姉さんに背負わせるわけにいかない。双子の片割れとして、僕が責任を持つ」

「……あらゆる意味で、正しい判断じゃないか……兄上。王になるのならば、特に」


 ぜいぜいとあえぎながらアドナはそう言うと、血まみれの手でポーリンのローブをつかんだ。


「私の“実験”は、ここまで……」


 そう言って、弱りつつある手に力をこめて、ローブのすそを引き寄せようとした。


「そうだな……確かに、あんたに預けるのも悪くないかも知れない。ブランウェン家の最後の血晶けっしょう……カラレナを……世界の王たる“器”には、なれなかったが……」


 消え入るような声でそう言い、アドナ・ブランウェンは絶命した。

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