第26話 ダネガリスの音楽隊

 ナルネイの野の惨劇が起こる少し前のこと、ハサン軍の別動隊が東へと向かっていた。


 チーグ王に率いられたゴブリン王国の軍勢を足止めするためだ。


 その別動隊を率いるのは、ダンという名のゴブリンであった。ダンは、かつてチーグに敵対し、ゴブリン王国を追い出されたという因縁を持つ。何としてでも、この機会に復讐を果たしたいという強い願いを持っていた。


 ダンに従うのは、ハサン軍のゴブリン部隊二百名ほど。多くは、ゴブリン王国の安定した暮らしよりも、破壊や略奪を好む”古き良き”ゴブリンたちだ。彼らを率い、ハサン軍を背後から急襲しようと企んでいるゴブリン王国軍を、逆に急襲する。そして時間を稼ぎ、ハサン軍の本隊の到着を待つ。そうなれば、あとはダンの望むままだ。

チーグに復讐するという夢が叶うときを心待ちにしながらも、まずは焦らないように事を進めなければならない。


 しかし、斥候せっこうがもたらした情報は、彼にとって危険な誘惑となった。


 曰く。


「ゴブリン王国軍の軍勢は、陣を張って酒盛りをしているようです」

「……ほう?」


 ダンは眉をひそめた。


 罠の可能性にはすぐ思い至ったが、罠を張る理由が理解できなかった。ゴブリン王国軍は、一刻も早くナルネイの野に駆けつけなければならないという使命があるはず。なのに、なぜあえて時間を食うような野営をしているのだろう?


「……俺の目で確かめる」


 ダンはそう言い、静かに軍を進めた。


 ゴブリン王国軍の野営地はすぐに見つかった。街道から少し外れた林間地に、ご立派に柵を立て、陣幕を張っている。その中からは陽気な笑い声と、音楽が響いていた。


 彼の目と耳も、ゴブリン王国軍が野営地で宴会をしているというようにしか認識できなかった。


 罠かも知れない。けれども、彼の価値観に従えば、別の考え方もできた。ゴブリンは怠惰で臆病な者も多い。ゴブリン王国軍に戦意はなく、ブランウェン公軍に援軍に駆けつける「ふり」だけして、戦いをやり過ごそうとしているのかも知れない。


 そして何よりも、憎きゴブリン王チーグを直接討てるかも知れないという誘惑を、ダンは振り切ることができなかった。


 ダンは指で合図し、軍勢を率いて静かに陣幕へと近づいた。


 敵は警戒の色を示すこともなく、どんちゃん騒ぎをしていた。


「よし」


 ダンはうなずくと、警戒心よりも野心を優先させることとした。


「突入して、チーグの首を取る。ただし、罠かも知れない……合図があれば、すぐに撤収できるようにしておけ」


 ダンは静かに部下たちに申し伝えた。


 そして、ひとつ深呼吸をする――夢が叶うときだ。


「突撃!」


 ダンは剣を引き抜くと、それを前方に大きく振りだした。彼が率いる兵たちが、ゴブリン王国軍の陣幕を突き破って進撃する。チーグの大本営を探そうと、ダンも一瞬遅れて馬を駆った。


そして、彼らが陣中で見たものは……酒を酌み交わし、楽器をかき鳴らしながら、楽しげに踊るゴブリンたちだった。そして、そのゴブリンたちは……生者ではなかった。


 明滅する幽体の向こうに、別のゴブリンの幽体が透けて見える――陽気に騒ぐのは、ゴブリンたちの亡霊。


 亡霊たちは、陣中に踏み込んできたダンたちき気づくと、腹を抱えて笑い転げた。


「……これは、一体?」


 理解を超える光景をまえに、ダンは呆然と立ち尽くすしかなかった。


 すーっとゴブリンの老婆の亡霊がダンに近づいてきて、興味深そうに観察した。


「おやおや、あんたもゴブリンなのかい?」


 老婆は息がかかるのではないかという距離まで顔を近づけて、ダンをジロジロ見た――むろん、息はしていないが。


「……なんだ、ババア? チーグは、どこにいる?」

「ババア?」


 老婆のゴブリンの亡霊は、あからさまに不機嫌になり眉をひそめた。


「我が偉大なる名は、ダネガリス。敬意を払え、小童」


 ダネガリスと名乗った老婆ゴブリンは胸を張った。馬鹿騒ぎをしていた他のゴブリンたちも、急に静かになる。


 老婆ゴブリンからただならぬ雰囲気を察したダンは、不意に背中に冷たいものを感じていた。混乱する頭の中で、その名が繰り返される……ダネガリス、呪われた地?


 ダネガリスは、かすれた低い声で続けた。


「我々は、“ダネガリスの音楽隊”。チーグの召喚により、おまえたちをおびき寄せるためにここにとどまっていた……ただ、それだけのこと」


 弱々しい声音とは裏腹に、凄まじい圧を感じる言葉だった。


 ダンは知らなかったが、彼女たちは“ダネガリスの音楽隊”。ゴブリン王チーグが若き日の冒険で得た魔法の秘宝アーティファクト、“ゴブリンの角笛つのぶえ”によって召喚された者たちであった。


 かつてダネガリスは、『酔っ払っていて大して役には立たないだろう』と言いながら、その笛をチーグに渡した。


 チーグは、『大して役に立たぬであろう』ダネガリスの音楽隊に、「適当にやっておく」ように依頼して、コヴィニオン王国の首都エルガリアへと向かっていたのだ。


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